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Dewey,John 1938→2004 『経験と教育』

 第1章 伝統的教育対進歩主義教育 p.16-28

 「人間というものは、極端な対立をもって、物事を考えがちである。このような考え方は、中間的なものがあるという可能性を一切認めようとはせずに、「あれかこれか」という見地からの信念が定式化されたものである。そのように両極端にあるものは、実施することができないものであると認めざるを得ない。」p.16

→教育の歴史は、

[a]「内部からの発達であるという考え方」/「外部からの形成であるという考え方」

 

[b]「教育は自然的な素質を基礎に置く」/「教育は自然の性向を克服し、外部からの圧力によって習得された習慣に置き換えられる」

という対立で特徴づけられる。

→学校教育に関する限り、伝統的教育/進歩主義教育の対立図式で説明される。

 

〇また伝統的教育は以下の3つから特徴づけられる。

①教育における教材は、過去に作り出された知識や技能から構成される集合体から成る。

 

②そこでの道徳的訓練は、それらの規準や規則に適合するように、行為についての習慣を形成することによって成り立っているのである。

 

③学校組織の一般的な類型というものは(生徒相互間および生徒と教師間の関係を意味するのであるが)、他の社会制度から截然と区別される一種の制度を構成することになる。      p.17

 「すでに述べてきたような三つの特徴によって、教授および訓練の目的と方法が決定される。教育の主要な目標や目的は、教授することにさいして教材を包含している知識の組織化された統一体と、あらかじめ用意された熟練様式を子どもたちに習得させることによって、子どもたちに対する未来の責任と生活上の成功を準備してやることにほかならない。」p.18

 

〇進歩主義教育そのものの発生は、以下のような伝統教育に対する不満の所産である。

①「伝統的教育を図式化すると、その本質は上からの、また外部からの罰としての課題を押しつけるということになる。それは成熟に向かってゆっくりと成長しつつあるにすぎないものに対して、おとなの行為規準と教材と方法とを押し付けていくことになるのである。」p.19

→押し付けが幼い学習者たちの経験の範疇を超えている。

〇また成人の所産/年少者の隔たりは

②「生徒に教えられるものが次々と増加し展開している状況そのものが、生徒が教えられるものに積極的に参加することを許さないほど、教えられるものと、学ものとの隔たりが広く大きすぎる」p.20ことに起因する。

 

「教育哲学を新しい教育実践の中で暗黙に定式化しようと試みるなら、現存する多様な進歩主義学校の中に、一定の共通原理を発見することができるように思われる。」p.21

→上から教えることが個性の表現と育成を阻害する。外部からの訓練が自由な活動を阻止する。教科書や教師からの学習は、経験を通した学習と対立するなど。

→これら原理に基づく新しい哲学(運動)は、古い運動を拒否する中でその実践上の手掛かりを見つけなければならない。

「一段と新しい哲学を根本的に統一することは、実際の経験と教育の過程との間には、親密で必然的な関係があるという考え方のなかに見出されるのである。」p.23

→これを前提としたとき、新しい哲学の積極的で構成的な発展は経験に関する正しい知識を持つことに依存することになる。

[ex] 教材は経験の内部の組織の位置づけと意味はどのようなものだろうか。

「個人的経験の上に教育を基礎づけると、これまで伝統的学校においてみられたものよりは、はるかによく成熟者と未成熟者との間に親密な接触が見られることになるというのである。」p.24

 「そこで問題となることは、どのようにすれば、このような親密な接触が、個人的経験を通して、学という原理を侵すことなく確立されうるのか、ということである。この問題に対する解決には、個人的経験の仕組みの中で作動している社会的要因についての十分に考慮された哲学が、必要とされるのである。」p.25

 

〇新教育を推し進めるには、単に旧教育を単に拒絶し、両極端の一方の立場につけば良いわけではなく、「経験に関する新しい哲学」という基盤を構築する必要がある。

「そこでわれわれは今や、過去の業績と現在の問題との間にある経験の内部に実際に存在する関連性を発見するという問題に行き着くのである。」p.28

 

 

第二章 経験についての理論の必要 p.29-41

 「教育と個人的経験の間にみられる有機的関連があるということを、あるいは教育の新しい哲学が、ある種の経験的、実験的な哲学に関わっているということを、私は想定するのである。」p.29

→経験は自明の思考様式ではないため、それが何であるか解明する必要がある。

「いかなる経験の質も、二つの側面をもっている。すなわちそれが快適なものか不快なものかであるかといった直接的な側面と、経験がその後の経験にどのような影響を及ぼすかという側面である。」p.34

→前者の側面は明白で、理解するのも容易い。

〇後者の「経験的連続性」ないし「連続性の原理」は予期が難しく、生徒にとって一過的には不快に感じられるものでも、将来的には良い効用をもたらすかもしれない。「このような質的経験を整えることこそ、教育者に課せられた仕事である。」p.34

※次章で詳しく論じられるが、この経験の「連続性原理」は、本書において「相互作用」と並ぶ極めて重要な概念。

〇こうした経験の結果(の予期)は具体的な教育的プランに反映される必要がある。

「経験の結果は、教材を決定し、教授や訓練の方法を決定し、学校の物的設備や社会的組織を決定するための計画であるという考え方をとらないというのであれば、経験はまったく漠然として取り止めのないものにすぎなくなる。」p.36

 

〇世間には新教育の方が旧教育よりも容易いという考え方が流布されている。確かに新教育の方が単純だが、それは「易しい」ことと同義ではない。

「適切な教育の方法と教材を選定し、組織化するような積極的な方向を提示するような、首尾一貫した経験の「理論」により、学校の仕事に新しい方向を与えるような試みが必要とされていたのである。」p.40

→この道には多くの障害があり、したがって新教育は(一般に思われているのは真逆で)むしろ前途多難である。

 

 

第三章 経験の規準 p.42-76

 「教育が経験を基礎にして、知的に導かれ処理されるためには、経験の理論を形成する必要がある。[…]私にとって、この分析それ自体を目的としてなされるものではない。それは後程取り上げられる具体的で、たいていの人にとって一段と興味ある多くの論点についての議論に適用されるべき基準を手に入れるために行われるのである。」p.42

→経験は以下の2つの側面から考えられる必要がある。

 

①連続性の原理

「この原理はすでに指摘したことだが、教育的に価値のある経験とそうでない経験との間を識別するためのあらゆる試みにかかわりをもっているのである。この識別が伝統的教育のタイプを批判するために必要であるだけではない。このような識別は、伝統的教育とは異なったタイプの教育を創始し、それを実行に移すときにも必要である。」p.43

→進歩主義に好意が寄せられる理由として、個々人の異なった経験の固有の価値に識別がなされることを挙げることができる。

〇この原理は「習慣」に深く根ざしている。

「すべておこなわれ受け止められた経験が、それをおこない受け止めている当事者本人を修正する一方、その修正が他方ではそれを望もうが望むまいがかかわらず、引き続き起こる後の経験の質に影響を及ぼす」p.46

〇経験はこのように連続しており、諸々の経験間の違いの識別は、経験が連続するさなか、生起する様々な経験の形態に注意を払うときにのみ可能である。そして「ただ特殊な径路での発達が連続する成長に貢献しそれを導くとき、まさにそのときにのみ、その特殊な発達は、成長することとしての教育の規準を満たし、それに応えるということだけは言えるだろう。」pp.49-50

〇また経験の源は諸個人の外部にあり、それが「経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験であるといってよいのである。」p.58

→実際に学校や家庭では、諸個人に外在する客観的条件を、内的条件に従属させるという考え方に立つ人が観察される。

 

②相互作用

〇先述の内的条件/客観的条件にかかわる経験の原理で、「どのようなものであれ、正常な経験は、以上のような2つの条件が1つのものにセットされるという相互作用である。これら2つのものが一緒になるか、あるいは相互作用がはたらくかして、われわれが「状況」と呼ぶものを形成する。」p.61

→伝統的教育の難点として、個人の内面に目を向けず、一方的に客観的条件からのみ相互作用の原理を蹂躙したことがあげられる。

「経験は、常に、個人とその時の個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な業務であるがゆえに存在するのである。」p.64

 

「連続性と相互作用という2つの原理は、相互に分離しているものではない。それらは離れていても、結びつくものである。それらはいわば、経験の縦の側面と横の側面である。相異なった状況は、相互に継承されているのである。しかし、連続性の原理に従って、先に起こったものから後に起こるものへと持ち越される何かがあるのである。個人が1つの状況から他の状況へと移りゆくさいに、その個人の世界、つまり環境は拡張したり収縮したりする。その個人は別の世界にいてきている自分を見出すのではなく、1つの同じ世界で、これまでの異なった部分あるいは側面で生きている自分に気づくのである。個人が1つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続く限り進行する。」pp.64-65

→こうした個人的経験が分裂し、無秩序が頂点に達すると狂人となり、他方で十全な統合的人格はこうした連続的経験が相互に統合されている場合のみに存在する。

〇また相互に結合している連続性と相互性が経験の教育的意義と価値をはかる尺度となる。

→教育者にとっては以下のことが関心ごととなるだろう。

①相互作用が生じているか否か……こうした状況に個人が入り込んでこそ、個人は具体的な自分自身となる。

 

②教育者によって規制可能な客観的条件……この客観的条件には教育的な話の内容やその話し方、設備、書物、装置、玩具などが内包される。

 

 

第四章 社会的統制 p.77-96

〇ここまで入念に哲学的議論を重ねてきたのは次の理由による。「教育は、生活経験のなかに見出されるという考え方に基づいて、学校を発展させるための実践的な試みである、と。その試み、経験とは何か、教育的経験と非教育的経験との違いは何か、その区別をするだけの何らかの概念によって導かれなければならない。」pp.77-78

→以後は教育上の特殊問題を扱う。まずは本章で社会的統制、次章で自由について。

 

〇社会的統制は以下のような特徴を有する行為ゲームに例えられる。

①規則はゲームの一部にあり、ゲームの外にはない。

 

②参加者はゲームの中で憤りを感じることもあるが、多くの場合それは規則に対してではなく、規則に違反した他の参加者に対してである。

 

③規則つまりゲームについての行為は、かなり標準化している。

〇このように「個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している共同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって、効果的なものにされているのである。」pp.81-82

→ゲームで役割を演じている人からすれば、統制は何か外的な力によるものでも、特定の一人によって切り回されているものでもない。

「社会的統制の根源は、全ての個人が貢献する機会を持ち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業としておこなわれる作業の性質そのもののなかに存在しているということである。」p.87

 

〇今日の進歩主義的な学校には、クラスの教育活動に参加せず、周囲の児童の活動の邪魔をするような児童が多くいる。

→しかし新学校の統制上の弱点は、こうした児童の存在に起因するものではなくて「状況を創り出す作業(この作業とは学校で従事するあらゆる種類の活動を意味する)を前もって用意することに失敗したからである。」pp.89-90

 

〇また社会的統制が上述の通り、集団の相互作用によって産出されるものであるならば、教師は共同体形成にかかわる特別な責任を持つことになる。

「教育が経験によって基礎づけられ、教育的経験が社会的過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになるのである。」p.93

 

 

第五章 自由の本性 p.97-104

〇自由は前章でみた社会的統制の他の側面である。また「永続的に重要である唯一の自由は知性の自由であり、すなわち、本来的に価値が備わっている目的のために観察や判断がなされる自由である。」p.97

→こうした知性の自由は、活動の外的・身体的自由と不可分である。

 

〇外的な自由の増大は、教育活動において以下の2つの利点がある。

①教師は個々の生徒についての情報を得られる……外的な自由が抑圧された状況では、生徒たちは自分たちの真の本性を出す機会を失うため。

 

②学習過程の本質それ自体……静寂の中にある知的活動も認められるが、身体を動かしながら頭を使うことが健全な精神と身体を保つために重要なことである。

 

「知性によって秩序付けられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即自的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためのみに他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。」p.104

→このように統制されている人は、せいぜい自由に対する幻想を抱いているに過ぎない。

 

 

第六章 目的の意味 p.105-115

 「健全な本能によってこそ、目的を組み立て、その目的を効果的に実行に移す能力が自由に発揮できるようにと、自由と能力とが同一視されるのである。このような自由は、つぎには、自制と同一視されることになる。」p.105

〇伝統教育の最大の欠点は、教師が生徒の学業に積極的に関与することが認められていないことにある。他方で進歩主義教育はこの欠点を埋めるように努める必要がある。

 

「正真な目的は通常初めには、衝動から起こるものである。衝動の即自的な実行が邪魔されると、その障害により衝動は欲望に変換されることになる。」p.106

→しかしこのままでは教育上の目的にはならない。以下のような経路が求められる。

①周囲の状況の観察

 

②過去の似た事例の、回想で得られた、広範な情報量の知識の要求

 

③観察と回顧された知識の結合

 

〇こうした経路が必要ということは、したがって「教師の仕事は、衝動や欲望が生じるや、それを後期に利用する点を見定めることである。自由は、目的が発展するさいに、知的な観察と判断とがはたらいているところに存在するので、生徒が知性を実地にはたらかせることができるよう、教師によって与えられる指導は、生徒の自由を制限するものではなく、むしろ自由を助長する者である。」p.113

 

 

第七章 教材の進歩主義的組織化 p.116-145

〇ここまで「経験の客観的条件」と教科課程の材料すなわち「教材」が同一のものであるという前提で議論を進めてきた。

〇あらゆる教科というものは「日常の生活経験の範囲内にある材料から引き出されなければならないものである。」pp.116-117

→これに伴い教育的条件は以下の2つの順序を辿る。

[第1段階] 経験内部に学習のための教材を見つける。

 

[第2段階] 経験されたものをより豊かに一段と組織化された形態へと進展させる。

〇これらは子どもの発達に伴い企図されなければならないが、年をおうごとに経験は多層化していくため「年長の子ども個人の経験の背景を見出すことは困難なことであり、また経験の中にすでに含まれている教材がどうしたら拡大され、より適切に組織立てられた領域へと導かれるよう、指導されるか見つけ出すこともまた困難である。」p.120

〇また第2段階について「組織化は経験とは無縁の原理であるというようなら、それは真実ではない。そうでなければ、経験は拡散して、混沌としたものになるだろう。」p.134

 

「新しい事物や出来事がそれ以前の初期に経験した事物や出来事に知的に関連させられることは、本質的なことである。」p.120

 「学習の目的は将来にあって、そのための直接の教材は現在の経験にあるという健全な原理は、現在の経験が、いわば後方にさかのぼり伸びている程度に応じてのみ、有効に働くことができるのである。」p.124

→過去に拡大される場合にのみ、将来に拡大することができる。

 

〇ここまでを整理すると、教師の役割は以下の点を調べ、確かめることに求められる。

①問題が現時点で持たれている経験の条件から起こり、それは生徒の能力の範疇にある。

 

②問題は学習者の内面で産出されるために、積極的に探究を促進する。

 

 「学習者の科学に向けられる現在の生活経験に見出される教材を利用することは、おそらくは学習者を、教育的成長が始まるとされる経験の中に見出される世界よりも、自然的にも人間的にもより広く、はるかに洗練され、より適切に組織された環境的世界へと導いていく手段として、現行の経験を利用するという基本的原理に見出される最適の説明となるであろう。」p.133

 

 

第八章 経験――教育の手段と目的 p.146-149

※これまでの議論を簡単に整理しているだけなので割愛

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