top of page

ジョン・ロールズ 1957→1979 『公正としての正義』

※本論文は”Theory of Justice”の14年前に書かれたもの。

→正義の二原理の原型は登場するが、原初状態、無知のヴェール、マキシミン・ルール、反照的均衡などは出てこない(二原理導出の論拠に注目)。

 「私は、この論文で、正義の概念における基礎的観念が、公正であるということを明らかにしたい。」p.31

 「全体を通して、私は、正義を、社会的諸制度あるいは私が実践(practice)とよぶものの一つの特性としてのみ考える。正義の諸原理は、実践がどのように諸々の地位や職務を規定し、またそれらに権限や責任をどのように割り当ててもよいかということに関する諸制約を定式化するものであるとみなされる。」p.32

→特定の行動や、人々に適用される正義ではなく、実践に適用される正義に限定して議論を進める。ここ微妙に正義論での主張と異なる。

 

 

〇Justice Principle初出

1―「第一に、実践に参加するかそれによって影響を受ける各人は、すべての人々に対する同様な自由と相いれる限り、最も広範な自由への平等な権利を持つ。」p.33

2―「第二に、諸々の不平等は、それらがすべての人の利益となるであろうと期待するのが合理的でない限り、また、それらの不平等を伴っていたり、あるいはそれらの原因となりうる諸々の地位や職務が、すべての人々に開かれていないかぎり、恣意的である。」p.33

〇自由原理と機会原理の雛形は見て取れるが、格差原理については言及されていない。

 「[…]第一原理では、法体系やその他の実践によってなされる区別や分類が、それらの実践に参加する人々の原初的で平等な自由を侵害するものである限り、それらの区別や分類に反対するという推定がなされていると考える。第二原理は、どのようにすればこの推定が斥けられうるかを明確に規定する。」p.34

〇ややこしいが、第二原理は「平等な自由の侵害=不平等」が許容されうる場合(機会に関わるものである場合)について述べるということ。

 「第二原理は、どのような種類の不平等が許容されうるかを明確に規定する。すなわち、第原理の立てた推定がどのようにすれば斥けられうるのかを明らかにするのである。さて、ここでいう不平等とは、職務や地位の間に見られるあらゆる格差ではなく、職務や地位に直接あるいは間接に伴っている諸々の不利益や負担、例えば、感情や富、納税や兵役の義務における格差と理解するのが最もよい。」p.35

 「通常不平等と考えられるのは、この種の格差ではなく、人々が獲得あるいは回避しようと努力する事物について、ある実践によって確立されたりあるいは可能とされたりする、その結果としての分配における格差なのである。」p.35

 「不平等が許容されるのは、不平等を伴った実践あるいは不平等をもたらす実践が、その実践に携わっているすべての当事者の利益になるように作用するであろうと信じるに足る理由がある場合だけである、と第二原理は考えているということに注目すべきである。」p.35

〇この辺の記述を見ると、格差原理について言及されていないというよりかは、格差原理/機会原理が未分化とした方が適切かもしれない。

 「これらの諸原理が与えられると、それをアプリオリな理性の原理から導出しようとしたり、それらは直覚によって知られるものであると主張しようとする人があるかもしれない。これらはよく知られている方法であり、少なくとも第一原理の場合には、ある程度成功を収めうるかもしれない。だが、通常は、これらの議論は、この点について行われても、説得力のあるものではない。それらは、正義の諸原理どころか、正義の諸原理の基礎の理解にすら導きそうにない。それ故、私は、この諸原理を別の方法で考察してみたい。」p.37

〇カント倫理学への反駁/形而上学的論拠から経験的論拠への落とし込み。

〇正義の二原理正当化の過程

 「諸々の実践の一定の体系がすでに十分にその間に確立されている人々の社会を想像されたい。」p.37

1―「大体において彼らは相互に利己的であると想定しよう。すなわち、彼らが確立された実践を支持しそれらに従うのは、通常、それが自分の利益になるという見通しに基づいてであると、想定しよう。」p.38

2―「さて、これらの人々は合理的であるということも想定しよう。すなわち、彼らは自分自身の利害を大体正確に知っており、ある一定の実践を採った場合に生じうるであろう諸帰結をすっかり見通すことができる。[…]さらに、自分の状況と他人の状況との格差を単に知ったり感じたりしただけでは、それが一定の範囲内にある限り、そしてそれ自体では、大きな不満の源泉にならない。これらのうち最後の点だけが、合理性の通常の定義に付け加わったものである。」p.38

3―「最後に、これらの人々はほぼ同様の必要や利害をもっているか、あるいは、それらの必要や利害が様々の仕方で補完し合っているので、彼らの間で稔り多い協力が可能である、と仮定しよう。」p.38

 

 「これらの人々は、すでに確立された共同の実践に携わっていると考えられているから、彼らがはじめてこれらの実践をどのように設立するかを審議するために一堂に会すると想定することは問題にならない。彼らは自分たちのうちの誰かがすでに確立された諸制度に対して正当な不満をもっているかどうかを、時々お互いに議論すると想像することができる。[…]このために彼らの採る手続きは、各人に、次のような了解の下に、自分の不満を審査する基準としてほしいと思う諸原理を提案させることである。この了解とは、」

[a]「もしその諸原理が承認されるならば、他の人々の不満も同じようにそれに照らして審査されるであろうということと、不満がどのように審査されるべきかについて全員の意見がほぼ一致するまでは、いかなる不満も全く聞き入れられないであろうということである。」

[b]「さらに、彼らは各々、この時点で提案され承認された諸原理が、将来の時点においても拘束力をもっている、と了解している。」pp.39-40

→[a]は「正義の問題が生じるのは、ある実践の設計について相対立する要求が行われ、各人が自分の権利であると考えられるものを可能な限り主張するのが当然であると考えられている」p.41という事実を反映している

 [b]は「道徳をもつということは、少なくとも、他人の行動と同様、自部自身の行動にも、公平に適用される諸原理を承認し、さらに、自分自身の利害の追及に対して制約あるいは限界を設けるような諸原理を承認することを含意していなければならない」p.41事実を反映している。

 

 「正義の二原理は、このような背景を持つことができるものであり、それ故に、相互に利己的で合理的な人々が、同じような状況におかれて確固たる契約をあらかじめ行うことを要求された場合、彼らの共同の実践における諸々の義務の割り当てを規制する制約として承認することができ、それによって彼らのお互いの権利を制限するものとして受け容れることのできるような、そうした諸原理であるとみることができるのである。」p.43

〇原初状態/無知のヴェールはおろか、反照的均衡すら出てこない。どっちかというとハーバーマスの討議倫理にちょっと近い感じがある。特に[b]の部分は討議倫理の[U]とほぼ同型の内容。

 

 

〇正義の説明はソフィストの頃から利己的合理主義者の一つの契約であるとされ、既述の正義の二原理もその最も新しい変形であるゲーム理論と結びついている。しかし、以下のいくつかの点において異なっている。

「私は、正義の背景についての既述のような推測的説明を、正義概念を分析する一つの方法として用いたい。それ故、人間の動機づけに関する一つの一般理論を想定していると解してほしくない。」p.44

→人間の動機づけの一般理論を含まず、人々の諸関係がどれほど広範囲か一般的であるかということも正義概念導出には無関係である。

 

「社会契約についての様々の考え方とは違って、その幾人かの当事者たちは、何らかの特定の社会とか実践を確立するものではない。その当事者達は、特定の主権団体に従うとか、一定の憲法を受け容れるという契約をするのではない。」p.45

→彼らがしていることは、共同の実践の原理を、共同で承認する(あるいはしない)営み。

 

「私は、幾人かの当事者達が、はじめて彼らの共同の実践を確立するために、必ず一堂に会するとは考えてはいない。」p.46

 

 

〇公正の概念について。

 「正義というものは、同じような状態に置かれた相互に利己的な行為者たちにひとたび道徳の概念が課せられるならば生じるものであるという意味において、一つの原初的な道徳的観念である、という考えを明らかにする。[…]お互いに協力したり競争し合っている人々の間の正しい行動に関連する公正という概念が、正義にとって基礎的であるということをも強調する。お互いに他人に対していかなる権威も持たない自由な人々が共同の活動に携わり、その活動を明確にし、その各々の利益や負担の分担を決定するルールを、自分達の間で決めたり承認する場合に、公正の問題が生じるのである。」pp.47-48

  「構成の概念を正義にとって基礎的とするものは、お互いに他人に対していかなる権威ももたない自由な人々によって、諸原理が相互に承認される可能性があるという、この考え方である。」p.48

  「幾人かの人々が、ある実践に携わったり、ルールに従って共同事業を行ったりする場合、そして、このようにして彼らの自由を制限する場合、要求に応じてこれらの制限に服した人々は、自分達の服従によって利益を得た人々に対しても、同じような服従を要求する権利をもつ。このような条件が妥当するのは、ある実践が公正であると間違いなく承認されている場合である。」p.49

 

〇フェアプレーの義務について。

 「この義務を、私はフェアプレーの義務と呼んできているが、このようにその義務を呼ぶことは、おそらく、公正の通常の観念を拡張することになるということを認めるべきであろう。」p.50

→公正さによって生じるフェアプレーの義務は、特定のルールを破るというよりかは、ルールの抜け穴に乗じたり、ルールが強制されない思いがけない機会を利用したり、逆にルールが停止されるべきなのに、自己の便益からルールを実施するよう求めたりしないように各人を拘束する。

→このように「公正に行動するということは、たんにルールに従うことができるという以上のことを要請するのである。」p.50

[ex]脱税者や加入を拒否する労働組合員のように「ある実践の利益は受けとるけれども、それを維持する自己の分を尽くすことは拒絶」p.51する者(いわゆる”Free Rider”)は不公正とされる―フェアプレーの義務に従わない。

 

 「我々の到達した考え方は、特殊な仕方で関係しあい、特殊な状態に置かれている合理的で相互に利己的な当事者たちに対して、道徳をもつことの諸制約がひとたび課せられた場合に、正義の諸原理が生じると考えることができるというものである。ある実践が正義にかなっているのは、その実践に参加しているすべての人々が、同じような状態にあり、自分たちの特殊な状況がどのようなものになるか知らずに、予め確固たる契約を行うことを要求された場合に、お互いの前で提案したり承認し合うことを合理的に期待できるような諸原理に、その実践が合致している場合であり、従って、当事者たちがその理非を論じる機会が生じたならば、公正であるとして受け容れることのできる諸基準を、その実践が満たしている場合である。」p.54

→これ以外の道徳的要求は互酬性と共同性に相いれず、いかなる道徳的価値もないため斥けられることになる。

 

 

〇古典的功利主義・厚生経済学との差異

  「この考え方(功利主義と厚生経済学)は、正義を慈愛に同化させ、慈愛をさらに一般的福祉の推進にとって最も効率的な制度の設計に同化させる。正義は一種の効率とみなされるのである。」p.55

→帰結主義批判。ここでの功利主義は「効用=幸福」とするミル=シジウィクによるもの。しかし、ヘアやブラントらの選好型功利主義に対しては、おそらく厚生経済学批判が同様に効く。

 

 「功利主義が、その効用関数のなかにこのような制約を組み入れていると解されるとしても、また、これらの制約が、実際上の正義の諸原理(多分これらの原理を数学や心理学の言葉で表現する方法があるように思われる)の適用とほとんど同じ結果をもっていると仮定しても、その基礎的な考えは、公正としての正義という考え方とは非常に異なっている。」p.56

→古典的功利主義=厚生経済学において、①正義の諸原理は、高度な管理的な決定の偶然の産物とされており、②利益を受け取る諸個人も互いに無関係であると想定されている。また③正義を高度な行政的決定に同化している。

 

 

〇古典的功利主義(厚生経済学)/公正としての正義の差異

→奴隷制を例にとると、

古典的功利主義……「奴隷所有者にとっての奴隷所有者としての利益が、どれにとっての不利益並びに相対的に非効率的な労働制度によって負担を負う社会全体にとっての不利益を埋め合わせないという理由に基づいて、奴隷制が不正義であると論じることが許されていない。」p.58

→功利主義が奴隷制を是認しているのではなく、功利主義は奴隷制が効率的で、最大多数の効用を満たしている場合に、それを否定することができない。

 

公正としての正義……「奴隷所有者と奴隷という職務を伴う奴隷制の実践に適用される場合、まず第一に奴隷所有者の利益を考慮することが許されないのである。奴隷所有者という職務は、相互に承認され合うことのできる諸原理と合致しないのであるから、奴隷所有者に生じる利益というものは、たとえそれが存在すると仮定しても、いかなる仕方でもその実践の不正義を軽減するものとはみなすことができないのである。」pp.58-59

 

 「問題は、たんに常識が明らかにするような正義の概念の分析に関連するだけでなく、以上で明らかにしてきたような正義の考察が、他の種類の道徳的考察と比較した場合、どの程度の重みを持つべきか、ということに関する、より広い意味での正義概念の分析に関連するのである。ここでもまた、私は正義の諸理由が公正としての正義という考え方によってしか説明できない特別の重みを持っていると主張したい。」p.60

→①奴隷所有者は奴隷から受ける利益に対して、いかなる道徳上の権利を持たない。また②奴隷所有者が奴隷に対する自身の立場を不正義と認める場合において、自分の要求を押し付ける道は選ばない。

 

 

〇結論としては以下の2点がある。

「功利主義的原理の独自の修正(そこでは、すべての職務における代表的な人が、不平等が自分の利益になると考えるであろう、と想定することが理にかなっていないかぎり、実践によって定められる職務や地位が平等であるようにと、実践に対して要請されている)は、一見したところでは取るに足りないように見えるかもしれないが、実際には、その背後に全く異なった正義の考え方をもっているということである。」pp.65-66

 

「私は正義の概念を論じてきたのであるということについても一言述べておきたい。私は、実践が正義にかなっているか否かに関する判断の基礎にあるということのできるような種類の諸原理を述べようと試みてきた。その分析は、判断を行う能力を有する人々が熟慮と反省に基づいて判断を下した場合に、その判断に含まれている諸原理を表現している限りにおいて、成功しているであろう。」p.66

bottom of page