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2013年度うきうき読書デスマラソン―戦後日本若者論編その1

 

※本ページは2013年度に(一人で開催した)うきうき読書デスマラソンについてのまとめです。今回は戦後日本若者論に関連する書籍を一通り読みましたのでまとめるぽよ~。

 

 

0:なぜ「戦後」からなのか。

 宮台(1993)がいうように、若者文化/大人文化というコードが分化したのが戦後からだから。戦前-戦時中では前者は後者に従属的だった。フィリップ・アリエスの名著をもじって言えば『若者の誕生』は戦後の話なんよね。

 

 

1:70年代―団塊(全共闘/シラケ)世代

 70年代の若者は「大人世代に対抗的」な存在として初めて研究の俎上にのせられた。事実、全共闘世代(68年)やあさま山荘事件(72年)など、対抗的若者像は当時の社会においてもアクチュアルなものだった。他方で、アメリカでも50年代あたりから俳優ジェームズ・ディーンや詩人アレン・ギンズバーグの登場によってカウンターカルチャーとしての若者文化が急速に表象化されていった。いわゆるビートニクとかドンピシャでここだね。アメリカ/日本の若者文化の関係性についての考察はここでは控えるけど、少なくともそれを観察した大人世代の眼差し―学問的討議における理論枠組みが共有されていたことは留意されなければいかんよね~。特に以下の文献紹介で見るように、エリック・エリクソンの発達心理学はアメリカ/日本の若者論黎明期において一大パラダイムを形成したんよ(エリクソン理解は間違いだらけで酷いけど)。

 

 

●塩原勉 1971 「青年問題の視角」 

 現在に至るまでの若者論の系譜のおそらく最初に位置づけられる論文。1970年の全国社会学大会にて初めて若者(当時は「青年」という語が使われていたけど)が部会のテーマに選ばれ、その際の塩原の発表を翌年の学会誌に掲載したのがこの論文だ。

 塩原の考察で特徴的なのは、若者を①労働②文化③政治の三点の視角から捉えるべきと主張しているところだろう。特に①労働③政治は当時の世間を騒がせた全共闘世代の影響を如実に受けているといえるだろう。

 

●井上俊 1973 『死にがいの喪失』

 

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 塩原の研究を初めての若者論における論文とするのであれば、若者論初めての書籍は戦後社会学の大家井上俊による『死にがいの喪失』である。井上はエリクソンのアイデンティティ論やカイヨワの「遊び」論に依拠しつつ、全共闘世代を青年期における「聖」志向への離脱として捉えている。

 また井上は本書の中で、大学留年率の増加を、若者の未決意識から考察している。それによれば、留年は既決になることを避ける期間―いわば青年期におけるモラトリアムの期間であり、彼らは「聖」への離脱を志向することもなく、煮え切らない存在であるという。大きなお世話だね。

 

 70年代後半に入ると、全共闘の敗北や赤軍の暴走などから、対抗的若者像は徐々に解体され、ヒッピーやフーテン、脱サラなどのいわゆる「シラケ」た若者たちが時代を象徴する存在となっていく。無論、若者論もそうした変化を察知し、エリクソンの枠組みを用いつつもシラケ世代の若者の分析にシフトしていったんよ。ちなみに「シラケ」という言葉を流行させたのは小松政夫と伊藤四郎だよ。

 

 

●井上俊 1977 『遊びの社会学』

 

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 上述の『死にがいの喪失』の続編的位置づけの著作。注目すべきは、井上の主張が73年のものと微妙に異なっていることだろう。井上によれば、70年代後半社会において、「聖」方向へ離脱する若者はもはや少数になっており、代わりに未決意識を抱えた若者が増加しているという。

 

 

●笠原嘉 1977 『青年期』

 

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 心理学者の笠原は留年問題の増加を一つの病理現象として捉えている。留年は無気力-無感動性という受動的態度である点で、能動的態度である全共闘の対抗とは異なり、笠原はロシア小説からそんな若者を「現代のオブローモフ」と名づけた(知らんがな)。

 また笠原は「現代のオブローモフ」たちを単にアパシーを抱えた若者とするのではなく、他方で「荒々しい受験戦争から身を引いた」一種の「やさしさ志向」を有しているとも指摘している。乱塾ブームとかあったんよ。今の若い子は知らんだろうけど。

 

 

●小此木圭吾 1978年 『モラトリアム人間の時代』

 

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 精神科医、小此木圭吾による本書はおそらく戦後若者論の歴史の中で最も大きな影響を与えた一冊だろう。というのも、現在では日常語と化した「モラトリアム」という語が普及したのがひとえに本書のおかげだからねー。エリクソンのものとはけっこう違うんだけどねー。そういう意味ではこの人は罪深いよね。まったく。小此木は大学制度や消費文化などの社会構造の転換によって、青年期における未決意識を抱えたままの「モラトリアム人間」が増加していると主張している。

 

●栗林彬 1979 『やさしさのゆくえ―現代青年論』

 

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 先の『青年期』の著者である笠原は、「やさしさ志向」を当時の無感動な若者たちの中に認めていた。栗林による本書はまさにその「やさしさ志向」について掘り下げた著作だ。笠原と同様に栗林も、苛烈化する当時の競争社会において、若者たちが傷つきやすいメンタル/やさしさを獲得していっていると分析している。ちなみに「やさしさ」という語は「シラケ」と並ぶ当時の若者語りにおけるホットワードだったらしいよ。

 

 

●中野収・平野秀秋 1975 『コピー体験の文化』

 

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 基本的に文献のリストは年代ごとに並べようと思っているのだが、こうした毛色の違う内容のものについてはその限りではないじゃないんだな。すでに何度も確認しているけど、70年代若者論は全共闘世代かシラケ世代に焦点を当てて考察をしていたが、本書は若者の消費文化に注目してる点でちょっと違う。中野-平野によれば、消費文化の台頭によって、若者たちは自己の内部世界―カプセルに閉じ篭ることが可能になっており、例えば当時の街頭で見られた「ウォークマンを聴きながら歩く若者」などはその典型例であるという。

 本書は出版時点でぶっちゃけ特に話題を呼ぶことはなかったが、80年代以降に他の若者論もエリクソンから離れ、本書で書かれていたような、消費文化/関係性論的パースペクティブにシフトしていく点において、中野-平野には先見の明があったといえるでしょう。

 

 

 

2:80年代―新人類/オタク世代

 田中康夫の『なんクリ』から始まる80年代は消費の時代だったといわれるね。今ある若者文化の多くはこの時代に完成されたといっても過言じゃないね。お笑い、ファッション、ポップ、テクノ、邦ロック、アニメ、テレビゲーム、プロレス、コピーライター、なんかアングラでサブカルくさいやつなどなど枚挙に暇がない。特に筑紫哲也が朝日ジャーナルでやってた、新人類の旗手/神々シリーズはマジでやばい。タモリ、ビートたけし、三宅一生、坂本龍一、糸井重里、村上龍、新井素子、浅田彰、あとみうらじゅんとかもいたかも。時代の寵児感すごいね。

 んで、若者論もこうした若者文化の変化に伴って、アイデンティティがどうのこうのということではなくて、若者間の関係性や消費の形態に注目するようにシフトしていったわけだ。世代の全共闘やシラケなんて言葉も忘れ去られ、新人類世代が台頭しはじめる。

 

●浅田彰 1984 『逃走論―スキゾキッズの冒険』

 

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 ニューアカの牽引者にして、新人類の神々だった浅田彰も実は若者論っぽいこと書いてるんだよね。でもまあこの人自身当時は若者だったわけで。ちょっとややこしいし、なにより衒学趣味酷い。この本を読んだソーカルは発狂するだろう。

 本書を要約すると「俺たちスキゾな若者だぜ」ってな話。たぶんここでいうスキゾはドゥルーズ-ガタリっていうポモの代表論客が提示したポストモダンを生きる人間の理念系を想定していて、一つの立場に固執するパラノと対置されている。そんで浅田彰的にはそれが新人類世代の消費文化を説明するのに有用だったよってこと。だからってスキゾキッズはない。

 

 

●星野克美 1985 『消費の記号論』

 

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 当時流行ったボードリヤールの記号論を援用した一冊。星野によれば従来的な機能的消費が「ケ」であるのに対し、新人類世代による記号的消費は「ハレ」であるという。

 さらに単に「ハレ」―祝祭があるのはよいのだけれども、消費と結合したが故に、日常の全てが祝祭日化してしまっていると星野は問題提起している。例えば、当時話題となった竹の子族とか原宿のホコ天なんていうのはまさにこの祝祭日化現象を象徴しているのだと。ようするにこのおっさんは新人類文化が気に入らなかったわけだ。

 

 

●中野収 1985 『まるで異星人―現代若者論考』

 

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 前章でも出てきた中野収は80年代に入ると勢いに乗り出し、新人類系の研究本を毎年のように出版する。これもその中の一冊。ただ、中野は他の論客とは異なり、それら一連の著作の中でカプセル人間論-消費文化を全共闘との連続性から捉えようと試みている。

 曰く、安保的「連帯」はけっきょくコンサマトリーな欲求充足の上に立脚しており、80年代に入ると充足の手段が革命から消費に移行したのだという。いまでこそ若者のコンサマトリー化なんて言説は耳タコだけど、この当時に目を向けれているのは純粋にすごい。実際、イズミ的には80年代の若者像を知りたいならこの人の著作だけ読んどけばいいと思ってる。

 

●野田正彰 1985 『コンピューター新人類の研究』

 

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 本書はまだオタクという概念が普及する前に書かれた「オタク研究」。当時、センスエリートな新人類の影に隠れてなんとなく「ネクラ」な人たち―つまり後にオタクと呼ばれる人々の原型がいた。この辺は大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』っていうクッソ面白い青春小説に出てくるスクールカーストの記述からも窺える。本書の「コンピュータ新人類」っていう語も新人類/オタク概念が未分化だったということを顕著に表しているよね。

 いわゆるマイコン世代とも呼ばれた彼らは幼少期からコンピューターに没頭し、それによって社会的想像力を欠いているという。そうした彼らの社会性を俯瞰すると、一部の「マニア的趣味」を紐帯とした「ムラムラ(斑々)」な様相を呈しているのだという。まさに紋切り型のニューメディア叩きで笑ってしまうわ。

 

 

 いまでこそ東浩紀(もうさすがに古いか)とかによってオタク研究は市民権を得たけど、そもそもオタクという人種が概念として顕れたのは80年代のことだった。諸説あるけど、批評家の中森明夫が83年の『漫画ブリッコ』っていうオタク向け雑誌の中で最初に使ったとされる説が有効だね。それまではさっき出ていた「コンピューター新人類」だの「ネクラ」だのって言葉が「オタク」な人たちを指示するのに用いられていた。

 ちなみに89年に宮崎事件っていうロリコン犯罪が起きるのだけど、これによってオタクの社会的イメージは非常によろしくないものになってしまう。おつむの弱い教育委員会の奴らが「悪書追放!」だのヒステリックに叫び始めたのもこの頃からなんだ。オタク概念の成立直後に00年代の『電車男』まで続くオタク叩きが始まったわけだね。というわけで、ここではちょっと時代を先に行って、若者論におけるオタク研究をいくつか確認しとこう。

 

 

●大塚英志 1989 『物語消費論―「ビックリマン」の神話学』

 

 

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 おそらく、00年代のあずまんや宇野にまで続く(東のデータベース消費とかそもそも物語消費の対概念だし)、オタク文化-サブカル批評の系譜の土台を作り上げた記念碑的一冊。実際けっこう面白いしアクチュアルなこと言ってる。

 大塚によれば、70年代あたりから登場し始めたオタクたちの消費形態は、断片的な情報(それこそビックリマン的な)から背景の「壮大な物語」を読み取る「物語消費」であるという。例えば、ガンダムならば、表層的な情報から背景にある「壮大な物語」の設定を読み込んで、「ドゥフフwボールはもともと連邦の作業用モビルアーマーだったので、初期ザクとはいえ戦(ry」的な感じでみんなで共有して楽しんでいるわけだ。実際ガンダムとか裏設定ばかっりだからね。ちなみに00年代に『物語消滅論』っていう続編書いているけどそっちは全然話題にならなかったね。

 

 

●中島梓 1991 『コミュニケーション不全症候群』

 

 

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 これもかなり記念碑的な一冊だ。オタクとコミュ症を結びつけたのは本書が最初じゃないかな。ただし、よく読みこむと中島は短絡的にオタク=コミュ症だとは考えていないことがわかる。これはかなり重要なことなので確認しておいた方がよいだろう。

  確かに、中島はオタクのコミュニケーションが一般的に見て不全的であると診断している。しかしながら、それはあくまで一般的観点からでの話であり、オタク同士のコミュニケーションにおけるオタクはとたんに雄弁になると考察している。オタクたちの持ち歩く紙袋はその媒介として機能しており、趣味というミニマムな社会がその紙袋の中には入っているという。だから中島的にとって、趣味を共有する友人がいなかった宮崎勤は「オタクではない」。全く同様の理由から大塚英志や中森明夫もオタク擁護運動を展開している。これが後にオタクのみならず若者論全体を巻き込む論争に発展するのだけど、それはまた次の章でね。

 

 

●宮台真司他 1993 『サブカルチャー神話解体』

 

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 とうとう登場した戦後若者論の代表論者宮台真司。ぶっちゃけイズミは高校の頃から宮台信者(最近の著作はクソだけどね)で00年代前半までの著作ならほぼ全てに目を通している。その中でも『サブカルチャー神話解体』はちょっと別格で面白い。そういえば文庫版のあとがきで上野千鶴子もこれが一番だって書いてた。

 宮台はお得意のルーマンに依拠しつつ、戦後の若者文化における(割とルーマン的な意味でない)「コミュニケーション」の変遷に注目する。それによれば、オタクとは「対人スキル」が、センスエリートな新人類に劣っていたがゆえにサブカルチャーに救済を求めた人たちであり、そのコードの差異によってオタク/新人類は機能分化していったと宮台は結論づけている。ルーマンのコミュニケーション概念を対面的関わりに限定している点でちょっとナンセンスだけどまあ間違ってはいない(ちなみにルーマンによれば、追加で組織体レベルとゲゼルシャフトレベルにコミュニケーションは区分される)。

 

 

3:90年代―団塊ジュニア世代

 さっきちょっと書いたけど、宮崎事件(89年)や他にも綾瀬母子殺人事件(88年)、女子高生コンクリ詰め事件(89年)などなど、低年齢層による特異な犯罪が「たまたま」連発したのが80年代末だった。それをあたかも刑事ドラマのように取り上げた頭の悪いマスコミが「少年の凶悪化」「普通の少年の異常な犯罪」なんて強調した。するともっと頭の悪い人たちがそれを信じ込み、実際に学校教育や少年法の改正をし始める。こないだ教育学部の授業で「少年犯罪は増加している」みたいなこと言ってる人いたけど、頼むからもうちょい勉強するか、もしくは教師にならないでね^^;って思ったよね。まあそれだけこの頃に形成された言説が強力だったということだ(ちなみに少年犯罪は年々減少傾向にあるよ。人口比で考えても)。酒鬼薔薇事件(97年)の影響も半端なかった。

 まあそんな感じで「若者叩き」が前面化しだしたのが90年代だったのね。これはおそらくバブル経済の崩壊(90-92年)に伴う「排除型社会」(Young 1999)の到来によるものだと考えられるけどまあ今回はそれはいいや。こうしたことを背景にして、若者論では興味深いことに若者叩き派vs若者擁護派という一大論争にまで発展する。ちなみにこの世代は団塊ジュニアとかってくくられるね。

 

●千石保 1991 『「まじめ」の崩壊』

 

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 ファッキン若者叩き本の一冊。「最近の若者は―」というお決まりの一文からはじまり、その後にいびつな「やさしさ」を持っていると続く。曰く、一見するとみんなで盛り上がる場面では盛り上がっといて、他方でいじめには何の躊躇もなく加担するだの、本当は距離を置いて「保身している」だの「冷酷な側面」を持ち合わせているだの、まあ言いたい放題ですわ。

 そんでこういう言説がまことしやかに共有されたのが90年代ですわ。確かにコミュニケーションが変遷したのは事実かもしれない。しかし、それを安易に価値評価してもいいものか。往々にして自分たちの世代で理解できない関係性の構築をする世代が出てくると、ノスタルジーからなのか知らないけど、昔世代の在り方を美化して、現世代を悪魔化しがちである。本当にこれはずっと繰り返されている。っていうか90年代以降ずっと続く。そして最後に、千石保って誰だ。こんな研究者聞いたことないぞ。

 

 

●門脇厚司 1991 『子供と若者の<異界>』

 

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 ファッキン若者叩き本その②。しかも問題なのは、この門脇って人教育社会学会の理事長だったかをやっていたというね。マジで洒落にならないっていうか、教育社会学会ってかなり規模大きいのだけど、完全に黒歴史だよね。井上俊先生とか止めてさしあげなかったのかな。

 門脇は最近の若者あるあるを本書の中で提示した上で、それらが全て「若者の心からすっぽりと他者が抜け落ちている」ことに起因すると主張している。さらにこうした「嫌人現象」と名付け、結婚率の低下などの統計データを挙げつつ、それっぽく論拠付けていく。まず統計使えばいいってもんじゃないよね。あと結婚率の低下なんて、あまつさえ「経済的不安の増加」とか複合的要因から考えられるべき話なのに、それを自分の主張の論拠にするなんて、『プロ倫』から社会学やり直せって話だよ。マジで。

 

 

●小谷敏編 1993 『若者論を読む』 

http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%A5%E8%80%85%E8%AB%96%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-SEKAISHISO-SEMINAR-%E5%B0%8F%E8%B0%B7-%E6%95%8F/dp/4790704815

 

 90年代にもなってくると、戦後若者論の研究が蓄積されているので、研究系譜のまとめ本みたいなのも出てくる。中でも小谷先生のこれはかなり秀逸で、戦後の若者文化と若者論をいろんな角度から整理している。論文集なので全部まとめるようなことはできないけど、例えば小谷本人の論文では「エリクソンのアイデンティティ論が若者論黎明期ではパラダイムとなっており、ゆえに少なからずその理論枠組みにあわせた大人世代の眼差しが形成されていたのでは(要約)」っていう重要な指摘がされている。実際、80年代はボードリヤールがかなり援用されていたし、「理論枠組みによる眼差しの変化」っていうのは若者論に限らずよくある話ではないだろうか。

 ちなみに現在の小谷先生はけっこうなお年だったはずだけど、ツイッターでけっこう荒ぶっている。どうでもいいか。

 

●宮台真司 1994 『制服少女たちの選択』

 

http://www.amazon.co.jp/%E5%88%B6%E6%9C%8D%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E-%E5%AE%AE%E5%8F%B0-%E7%9C%9F%E5%8F%B8/dp/4062053543

 

 鉄板ofザ鉄板。浅野智彦先生も『論争若者論』(2008)って新書の中で本書を戦後若者論の代表的な一冊に数えてた(ちなみに他9冊ももちろん今回のマラソンで網羅してるけどね)。

 宮台は被若者叩きの最前線にいた援交女子高生を俎上に載せ、彼女たちのライフスタイルがかつての全共闘世代を悩ませた実存的問い(「自分とは何か」、「主体性とは何か」)をあっさり乗り越えていると分析する。援交女子高生たちは団塊世代の威厳のない父親と、まるで友達のような母親、友人、そして変態のおっさんそれぞれに対してドラマトゥルギーを戦略的に演じわけ、状況指向的な関係性を構築しているという。つまり、「自分は一本軸の通った人間である」という近代的主体像を「まったり」生きることであっさり解体してしまったのだ。宮台による本書の分析の妥当性はわからない、でも宮台が当時の彼女たちを擁護しようとしていたのは間違いないだろう。社会学者としてどうなのって思ったりもするけど、まあそもそも宮台の著作の多くはエッセイに近いからね。

 

 

●岩間夏樹 1995 『戦後若者文化の光芒』

 

 

http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%8B%A5%E8%80%85%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%85%89%E8%8A%92%E2%80%95%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%83%BB%E6%96%B0%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%83%BB%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1-%E5%B2%A9%E9%96%93-%E5%A4%8F%E6%A8%B9/dp/4532161762

 

 この岩間って人は宮台と共同研究をしていた人で、本書も『サブカルチャー神話解体』での宮台の見解に多くを負っている。というわけで本書の新規性はかーなーり稀薄である。というわけであんまり紹介することないな。

 でも、門脇とか千石とかいうおっさんたちが「若者のコミュケーションは希薄化している」と考えていたのに対し、宮台と岩間が「若者たちのコミュニケーションは高度化している」と分析しているのはなかなか興味深い相違点ではあるね。

 

 

●宮台真司 1995 『終わりなき日常を生きろ―オウム克服マニュアル』

 

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 もういい加減、宮台宮台うっさいね。でもまあ90年代若者論において宮台の影響力が良くも悪くも半端なかったのは事実なんだよね。

 本書はちょうど『サブカルチャー』と『制服少女』の考察を足して二で割って、当時の日本を恐怖の底に叩きいれたオウム的想像力への処方箋を出すよって内容。『サブカルチャー』のところで書いたように、オタクは「救済」をサブカルチャーに求めた。そして、そのサブカルチャーにおける「救済」の鬼子として登場したのがオウムだったんだって。事実、ホーリーネームとかハルマゲドンとかAKIRAやエヴァっぽいいわゆる「セカイ系」の思想がオウムにはあった。でも現実には救済は永遠にやってこない。だからこそ、「終わりなき日常」に過剰な「意味」を求めない制服少女的な態度で乗り越えていこうっていうまあある意味啓発本だね。でもタイトルかっこいいんだよな。無駄に。ついでに書いておくと、この「終わりなき日常」っていうのはニーチェの「永劫回帰」のまるパクリではないかと高校生時分からイズミは思っていたよ。ニーチェが揺るぎなき「意志」によってこれを克服しようとしたのに対し(いわゆる超人)、宮台は「まったり」で克服しようとしている点で異なるけどね。

 

 

●門脇厚司 1998 『子どもの社会力』

 

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 また出たよ門脇厚司。でも今度の門脇は一味違う。言ってること(「嫌人現象」云々)は同じだけど、その論拠は前回みたいなあやふやな統計データではない。今回は秘密兵器「写真投影法」で「嫌人現象」を論証するぜ!ってわけだ。

 説明しよう。写真投影法はカメラを子どもに持たせ、街を自由に散歩させ、写真を撮らせる。すると!なんとそこには「他者」が写っていないではないか!撮影されているのは街の無機質な風景ばかり!故に「嫌人現象」は事実だった!

 ……ただでさえオウムや酒鬼薔薇で騒がれている当時の社会で、いきなり街でエンカウントした知らない人をカメラで撮影する子どものほうがよっぽどヤバイ奴だと思うのはイズミだけではないだろう。『自殺論』から社会学やり直せよ。

 

 

●中西新太郎 1998 『情報消費型社会の知の構造』

 

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 「若者のコミュニケーションの変容」に対して宮台-岩間がどちらかといえば肯定的な評価、門脇や千石があからさまな否定的な評価をしていたのに対し、中西は極めてニュートラルな目線から、なぜ大人と子ども-若者世代にこうした認識のずれが生じるかを考察する。まさに社会学者のお手本的なスタンスだね。そもそも何かに価値評価を下す学問じゃないからね(この文章?これは別に論文じゃないからいいんだよ!)

 中西によれば「普通の子どもの異常な犯罪」という当時の紋切り型のレッテルは、先述の通り世代間が有する「普通」が異なることに由来している。消費社会の到来によって、「他者」の経験が稀薄になった子どもたちはかつてのような共同的現実を生きることが出来なくなってしまった。ゆえに、中西はこうした子どもたちの「普通」に「他者」を取り戻すことがさしあたっての課題であると結論付けている。

 

 

●斉藤孝 1999 『子どもたちはなぜキレるのか』

 

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 いまでもよくテレビに出る斉藤孝っていういい加減な学者の一冊。少なくとも「声に出して読みたく」はないね。つーか国語が専門なんだから普通に文学しとけよ。教育に口だすなよ。正直、イズミからすれば教科教育系が道徳や教育に専門の立場から口挟むのが理解できん。お前ら別に道徳も教育も専門でやっていたわけじゃないじゃん?じゃあ自分の専門教科を教えることに専念しとけよ。逆にお前らの専門に素人が口挟んできたら嫌だろ?

 前置き長くなったけど本書の内容もそんな感じ。なんか国語表現的に「キレる」と「憤る」は違うみたいな話。マジでチラシの裏にでも書いとけ。

 

 

●山田昌弘 1999 『パラサイトシングルの時代』

 

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 今まで見てきた若者論を大きく区分するとアイデンティティ、消費文化、コミュニケーションが主たる主題になっていたと思う。しかし、本書以降さらにこれにもう一個「労働・雇用」という主題が追加されることになる。それだけこの本は影響力があったんだ。そもそもパラサイト・シングルって言葉を一般に普及させたのがこの本だからね。ちなみに先述の浅野セレクト「戦後若者論10冊」にもちゃんと入ってるよ。

 山田はパラサイト・シングルの実態に迫るために様々な量的・質的データを参照する。すると、「30代過ぎて実家暮らしの者」は実質的に消費の機能しか担っていないということ、自分探し傾向にあること、また未婚化を助長していること、などなどが明らかになっていく。そんで、さらに山田は「団塊親世代」と「団塊ジュニア世代」の親子関係が子世代の「自立」意識を希薄化させていると分析している。まあ若干、若者叩き本な気がしないでもないけど、かなりデータを用いている分析なので一読に値すると思うな。さすがは社会学会の理事やっていただけある(門脇?あいつはもう消したよ)。

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