Miller,David 1995 『ナショナリティについて』
『ナショナリティについて』 1995→2007 D・ミラー
第一章 序論 p.3~30
・従来的にリベラリズムはナショナリティの多元性を認めてきた。
→しかしながら、現実問題として国家内においてナショナルな対立(移民、ナショナルな少数派、外国人労働者など)が生じると、その理論の未完成から閉口せざるを得ない。
・こうしたリベラルが今まで対応してこなかったナショナリティをめぐる問題を、ナショナリティの原理を精緻に描き出すことで、ある程度まで解消するのが本書の目的である。そしてナショナリティをめぐる問題は以下の4点にカテゴリ化できる。
①境界線をめぐる問題
・ある国家内部におけるエスニックマイノリティのナショナリティは、当該国家に併合されるべきか、許容されるべきかという論点。
②ナショナルな主権をめぐる問題
・ナショナルな自己決定を尊重するならば、ナショナルな集団は自律的であることになる。このとき、エスニックマイノリティにはどの程度の権限が認められるべきかという論点。
③内政とナショナリティの意味をめぐる問題
・国家はどの程度まで公的権力(教育、報道制約、公的宗教など)によって国民にナショナルアイデンティティを自覚させるべきかという論点
④成員とナショナリティの要請をめぐる問題
・一方の極に国家こそが最大の忠誠心を誓うべき対象とする立場があり、他方の極に世界人類に同様の顧慮が払われるべきとする立場があるとき、そのどちらを選択するべきかという論点
→これらのナショナリティをめぐる諸問題は、これまでに社会学や歴史学によってその機能や系譜が考察されてきているが、本書はそれに加えて「具体的にナショナリティにはどのような対応が望ましいか」という実践的問いにまで回答する。
・まず序論の時点で「ナショナリズム=抗えない制約」とする理解を否定しておく。この主張は主に以下の二つの形態をとる。
①ナショナリズムを自然的制約とする立場
・ハイエクはナショナリズムを原初的な人間本能に基づくものであると主張した。
→このとき、そうした原初的な人を排するか/教育等の公的な場で原初性が矯正されるかという二つの対応が選択されることになる。
・しかし、この主張は(ⅰ)経験的事実と異なる、また(ⅱ)情緒や本能にナショナリズムは還元できない(ナショナリズムは社会的に構成される)という2点から論駁される。
②ナショナリズムを社会的制約とする立場
・(ⅱ)を認め、ナショナリズムを社会的な制約と位置づける主張は経験的に首肯できるし、事実こうした主張はこれまで繰り返されてきた(アンダーソン、ホブズボーム)。
→しかし、こうした主張においてもナショナリズムは個人に外在的かつ制約的であり、ゆえに抵抗できないものとして想定されている点で①と共通している。
・また本書では強力な強制力や忠誠心の対象とされ、ゆえに否定的なニュアンスを含むナショナリズムという概念から距離を置くため、より穏当なナショナリティという概念を用いて、それを擁護する。
→ナショナリティは以下の3つ命題を含意する。
①ネーションはナショナルアイデンティティを規定する
・ネーションは実在し、ゆえにネーションに対する自己帰属意識は虚構ではない。ただし、ナショナルアイデンティティと他のアイデンティティ(宗教的、民族的など)の間に序列付けはできない。
②ネーションは倫理的共同体である
・各人はネーションの成員であり、ネーションに対して義務を負う。ただし、これはグローバルな規模への義務とは矛盾しない。
③ネーションは政治的共同体である
・各人は政治的自己決定権を有しており、ネーションにおいてはそうした制度が構想されなければならない。ただし、そうした政体は必ずしも主権国家とは限らない。
→こうしたナショナリティの観念に対して2つの批判が想定される。
(a)哲学的な批判
・ナショナルアイデンティティを構成するネーションとは観念的であり、恣意的である。ゆえにネーションは虚構である。
(b)政治的な批判
・ナショナリティは政治的忠誠心を喚起しない。ゆえによりグローバルな秩序への貢献が望まれるべきである。
→本書はナショナリティに含まれる①②③の命題を性格に記述していくとともに、こうした諸批判に対する回答も提示していく。
・2章では「①ネーションによるナショナルアイデンティティの規定」、3章では「②倫理的共同体としてのネーション」、4-5章では「③政治的共同体としてのネーション」がそれぞれ考察される(4章で自己決定、主権、分離-独立について、5章でナショナリティとマルチカルチュアリズム間の論争の調停が試みられる)。
・6章では現実にイギリスのナショナリティの変遷を例にとって、ナショナルアイデンティティが解体されつつあることが示される。
第2章 ナショナルアイデンティティ p.31~90
Ⅰネーションとはなにか
・ネーションとは火山や象のように客観的実在性が認められるものではない。ゆえにネーションは人によって別様の定義がありえるし、個人主義とも集団主義とも解釈できる。
→こうした混乱を整理するために、ネーションの概念的混同を以下で整理する。
①ネーション/国家の混同
・前者が政治的自己決定権を有したいと思う人々の集合(つまり一部のエスニックマイノリティも含まれる)/後者はそれが実現された諸制度の体系である。
→つまり同一国家内部において複数のネーションが存在することは十分にありえる(アボリジニ、アーミッシュなど)
②ネーション/エスニック集団の混同
・とはいえ全てのエスニックマイノリティが政治的決定権を要求するわけではない(【メモ】ウォルツァーは外国人労働者を例として挙げていたね)
→つまりエスニック集団とは「潜在的な」ネーションである
Ⅱナショナリティ5つの起源
・ここでは想定される批判をいったん留保し、ナショナリティを5つの特徴から考察することによって、ナショナルアイデンティティ/他のアイデンティティとの境界線を明確にする。
①ネーションとは想像の共同体である
・ネーションを規定する客観的水準など存在しない(言語や人種が同じでもネーションが成立しない場合/言語や人種が異なってもネーションが成立する場合はありえる)
→ゆえにネーションとは想像上のものであり、またそれによって相互的な顧慮の義務が各人に生じる。
②ナショナリティはネーションの歴史を体現する
・ネーションとは過去の人々によって持続されたものであり、今を生きる我々にとっては次世代に持続するものでもある。ゆえにナショナリティを持つということは、ネーションの継続的維持という倫理的義務を負うことを意味する。
③ナショナルアイデンティティは能動的アイデンティティである
・例えば、宗教的アイデンティティは神という外在的存在によって規定されうる点において受動的アイデンティティである/他方でナショナルアイデンティティはそれぞれ成員の選択によって構成されていくため能動的アイデンティティである。
④ナショナルアイデンティティにおいて地理的要素は不可欠である
・例えばイスラム教はメッカを聖地とするが、イスラム教徒は必ずしもメッカに居住する必要はない/他方でナショナルアイデンティティの獲得には自身の居住地が不可欠であり、ゆえに本質であるともいえる。
⑤ナショナルアイデンティティは「ナショナルな特性」を要求する
・ネーションの成員として見なされるということは、偶発性によるものではなく、なんらかの共通の特性を有していると想定される必要がある。
→しかし、それを生物学的特性に見出せば人種主義に陥るし、そうでなくとも一義的な規定は排他主義をもたらす。ゆえに本書ではナショナルな特性=公共的文化と規定する(詳細は5章で)
Ⅲナショナリズムの近代性と前近代性
・こうしたナショナリティの特徴づけは、「ネーションが近代的概念か/前近代から存在するか」という論争を解消することにもつながる。
→「①ネーションの想像性」、「②ネーションの歴史的継続性」、「④ネーションの地理的本質性」、「⑤ナショナルな特性」は前近代のネーションにおいても認められる/他方で「③ネーションの能動性」は18-19世紀の啓蒙主義の潮流に端を発する近代的ネーション特有のものである。
Ⅳナショナリティと神話
・ナショナリズムが今日的批判に晒されるとき、その近代的特徴である「③能動性」が批判されているといえる。
→これはナショナルアイデンティティがマスメディアに依存的であるという性質に由来している。
・アンダーソンは『想像の共同体』の中で、ナショナルアイデンティティ-ネーションの歴史的継続性はマスメディア(新聞、小説、ネットなど)によって成員に形成されるとした(つまり能動的に構成される)。
・この点においてナショナリティは神話的であるといえるが、それを虚構や捏造として退けるのは早計である。
Ⅴ神話の機能
・ナショナリズムの批判者は、ナショナリズムが強制的アイデンティティであるとして退けようとする。
→ナショナリティもナショナリズム同様に神話的であるが、だからといってナショナリズムのように強制的ではなく、むしろ①心理的紐帯の提供②共通の道徳の提供という二つの重要な機能を担っており、ネーションの維持という観点から退けられてはならない。
・ゆえに重要なのはネーションの歴史が「真実か/創造か」ということではなくて、それが「討議可能性に開かれたものか(=ナショナリティか)/強制されたものか(=ナショナリズムか)」という区別である・
・ところでナショナリティがこのように神話的であるのは、①ネーションとは偶発的集合ではなく、共同体の文化を共有しており、ゆえに②相互的顧慮の義務が発生するからである。
→②の理由に関しては倫理的共同体としてのネーションを考察する次章で取り上げられる。
・ここまでの議論を整理すると、「ナショナリティ=神話的∧強制的ではない」ということになる。ではそれによって付加されるアイデンティティとはどれほど個人の選択に依存的であるといえるだろうか。
→ナショナリティは非随意的な出生によって規定されるが、それを副次的アイデンティティと見なすか/主要なアイデンティティと見なすかは個人の選択に依存的である。各人は人生の諸段階において、この副次的/主要という間の均衡を省察していくことになる。
【メモと批判】
・ネーション/国家、ネーション/エスニック集団という区別はウォルツァーの「善としての成員資格(membership)」についての見解とかなり近い。あとキムリッカもマルチカルチュアリズムの章でこれに近いこと言っていた気がする。
・ホブズボームが参照されていてもいいように思える。
→むろん、ホブズボームは「ナショナリズム=創造された神話」と定義して、ナショナリティとしての神話も混同したまま十把一絡げに否定するので、ミラー的には論駁の対象なのだけども。
第3章 ナショナリティの倫理 p.91~144
Ⅰ倫理的普遍主義と倫理的個別主義
・特定のネーションの成員に対して、特定の倫理的義務が生じるという主張はいかにして正当化されるか。
→この主張を考察するに際して、義務を正当化する二つの立場―倫理的普遍主義/倫理的個別主義の区別は重要である。
→前者は一般的規則(正義)から倫理的義務を説明する/後者は特別な諸関係性(善)から義務を説明する。
・両者は相容れないが、普遍主義の立場から以下の2つの妥協案が提示できる
①「有益な取り決め」(useful convention)
・個人的関係にある人が何を選好するか知っているし、財の移転も容易である。ゆえに普遍的な道徳義務の遂行には個別的な諸関係性に注目するのが合理的である。
②「自発的創造」(voluntary creation)
・自発的結社への参加は道徳的に価値があり、また結社の規則に各人は従う義務がある。ゆえに普遍的な道徳義務によって個別的関係性は規定される。
・しかしこうした妥協案によっても普遍主義/個別主義には前者に不偏性、後者に偏向性という根源的要素があり、それによって対立が解消されないとされている。
→しかし、不偏性とはそもそも「特定の文脈に」適用される一般規則の上に立脚しており/偏向性とは特定の集団「全体に」向けられるものであるため、少なくともナショナリティの倫理的義務の考察では不当な対立である。
・真の対立は以下の2点である。
①普遍主義からすれば個別主義は、様々な関与を理性の外部にある個別的関係に帰属させるため、行為を合理的モデルから説明できない。
②個別主義からすれば普遍主義は、倫理的義務を個人のアイデンティティと切り離してしまうため、感情や共同体について説明できない。
・以下ではこうした普遍主義/個別主義の対立点を考察し、ナショナリティの擁護に関しては個別主義が妥当な説明を与えることが出来ることが示される。
Ⅱ倫理的普遍主義によるナショナリティの擁護
・倫理的普遍主義はナショナリティを擁護する際、先の2つの妥協案を持ち出すが、以下で示されるようにそれは失敗する。
①「自発的創造」
・1章で確認されたようにネーションとは非自発的に選択されるため、自発的参画が可能な結社とみなすことはできない。ゆえにアンシュタルトとしてのネーションの義務は順契約的なものになる。
②「有益な取り決め」
・こちらでは自発性や同意を合理性によって説明することができる。しかし、なぜそれが国家のレベルで行われなければならないのか/より小さな共同体で行った方がよいのではないかといことを説明できない。
→つまり以上の2つの妥協案が成立しないため、普遍主義によってはナショナリティは擁護できない。
Ⅲ倫理的個別主義によるナショナリティの擁護
・先述のように、倫理的個別主義は個別的な関係性から道徳的義務を説明するが、家族や学校における関係性と、ネーションにおける関係性を同一の構造であると想定してしまってもよいのだろうか。
→その考察にあたって、まず倫理的個別主義の含意としてある以下の3つの基本項が確認される必要がある。
①個人の利益と共同体の義務は鋭く対立しない
・自分自身の利益は共同体の利益であり、共同体によって課せられる義務は諸個人の利益実現のために必要である。
②互恵性から共同体の義務は考えられる
・他の共同体の成員に貢献することは、他の成員から自分も貢献されるということを意味しており、ゆえに義務は互恵的なものとなる。
③集団や共同体が互恵性を実現する場として適している
・集団や共同体は②を実現する場として最適であり、ゆえに①も同時に達成される。
・これらの基本項はネーションにおいても例外ではない。
→ただし、ネーションは家族や学校とは異なり、成員同士がそれぞれ互いを認知しているわけでも、直接的なやりとりの機会に開かれているわけでもない(「想像の共同体」的性質)
→こうした空白を埋めるのが、1章のナショナリティ5つ目の特徴である、「公共文化としてのナショナリティの特性」である。つまり、ネーションにおける諸義務は公共文化によって付与される共通のエートスやアイデンティティを紐帯にして達成されることになる。
・また公共文化およびそれに基づくナショナリティの義務は固定的なものではなく、時代と共に変化する。ゆえに普遍主義による「合理性の欠如」という批判も退けられる。
・またネーションと国家が一致する場合、「道徳的義務/利益の尊重―互恵性」の問題はシティズンシップに関わるものとなる。
→ナショナリティはシティズンシップを内包しており、シティズンシップが達成されたらナショナリティが不要になるという主張は不当である。
・さらにシティズンシップは同一国家におけるマジョリティによってのみ独占されてはならず、マイノリティにも付与される積極的理由がある(4-5章で詳しく)。
【メモ】ここでマイノリティの例として「外国人労働者」が挙がっていることからも、ミラーのいうシティズンシップとは、ウォルツァーのいうmembershipとほぼ同義であると考えられる(ちなみにウォルツァーは外国人労働者が当該国家に貢献している事実から成員資格付与の正当性を主張していた気がする)
Ⅳ倫理的個別主義と人権
・ここまでで確認されたように倫理的個別主義は同胞ネーションにおける義務しか規定しない。ゆえに他ネーションの人々の顧慮を考えるには、やはり倫理的普遍主義が導入される必要性があるのでは。
→同胞に対する義務はナショナリティの、他ネーションの人々に対する義務は基本的人権の問題であり、両者は基本的に両立しうるが、以下の3つの衝突を抱えている。
①ナショナルな成員と、その外部の人への顧慮が両立しない
・外部の人々に医療サービスを提供することによって、成員の医療サービスを受ける機会が削減されるかもしれない。
②外部の人々のニーズと当該ネーションの公共文化の不一致
・公共文化はネーションごとに異なっており、外部の人々のそれと相容れないかもしれない。
→①、②は確かにナショナリティ/基本的人権の間の対立であるが、深刻な問題はもたらすことはないだろう(例えば「餓死させない」といった生命に関わるレベルの基本的人権は依然として守られるだろう)
③基本的人権に対する義務の所在
・個人間なら基本的人権の所在はどちらかに帰属されることになるが、ネーション間になるととたんに所在の特定が困難となる(なぜ他ネーションを救う義務が生じるのか)。
→一般にあるネーションAにおいて基本的人権が無碍にされているのは、Aにおける悪政に起因する。このときBはAの体制を国際的に批難することによって、Aにおける基本的人権を保障するよう努めることができる。
→しかし、これは他ネーションへの内政干渉であり、ネーションによる自己決定権を侵害している点で、本書のナショナリティの議論と矛盾してしまう。
・「他ネーションに対する義務/他ネーションの自己決定権の尊重」という問題は次章以降で詳しく考察されることになる。
【メモと批判】
・この章はなかなか面白かった。特にロールズとの対比が興味深い。
→ロールズが「公正としての正義」の構想にはナショナリティが必要(公知性の議論)としているのに対し/ミラーの方はナショナリティの原理には正義(倫理的普遍主義)は不要としている。
→でも後々わかるようミラーはリベラル推し。
第4章 ナショナルな自己決定 p.145~210
Ⅰナショナルな自己決定の擁護
・本章ではナショナリティ3つ目の命題である「ナショナルな自己決定権」について以下の3つの段階から考察される。
(ⅰ)ナショナルな自己決定の擁護―なぜ国家とネーションの境界が一致することに価値があるのか
(ⅱ)国家間の権利と義務はどのように規定されるべきか、またナショナルな自己決定権を有する国家=主権国家なのか
(ⅲ)ネーションと国家の非一致による問題はどのように理解されるべきか、また分離-独立はいかにして正当化されるべきか
→本節では「(ⅰ)ナショナルな自己決定の擁護」について、「ネーション→国家」/「国家→ネーション」という二つの方向性から考察される。
[ネーション→国家の一致](ネーションは国家という形態において自己決定権の行使が可能となる)は以下の3つの目的達成の観点から価値付けられる。
①前章で確認された「義務/利益―互恵性」の場としてのネーションを実現するために
→ロールズのいうような「公正な協働システムとしての社会」が実現されるために、ネーションは国家でなければならない。
②ナショナルな公共文化を保護するために
→ユダヤ人やグルド人や特定の国家を有さずに公共文化を維持してきたネーションもいるが、少なくとも彼らは常に国家におけるマジョリティの同質化の圧力に晒されていた。
③集合的な自律性を表現するために
→「民主国家という政体においてのみ」という条件付きで自律性を主張することができる
[国家→ネーション](単一ネーションからなる国家の方が自己決定権を行使しやすい)
・まず単純に考えて、ネーションが統一されているほど社会的協働を実現すための心理的紐帯が強力になるため、自己決定権の行使が容易である。例えばロールズの正義原理もナショナリティを暗黙裡に前提化している(【メモ】『再説』では明言されている)
→ただし、ネーションが単一的であるということは、何度も確認されているように人種や言語によるものではなくて、公共文化が共有されていることを意味する。
・ゆえに実際に社会的連帯が達成されるか否かは単に心理的紐帯の強度のみならず、ナショナルアイデンティティと公共文化の内容にも依存する。
→整理すると、人種や言語が統一されていない国家においても、共通のナショナルアイデンティティが保持され、かつ公共文化が互恵性を志向するのであれば、ネーションは単一的であるといえ、ゆえに自己決定権も行使されやすい。
Ⅱナショナルな自己決定権と主権の限界
・一般にナショナルな自己決定は
①国家内部の出来事に対する対内的主権
②いかなる他国家によっても侵害されないとする対外的主権
の2点から理解される。
→しかし、ナショナルな自己決定はどの程度までこれらの行使を許容するのだろうか。一方の極には自己決定権の無制限拡大によって他国への侵略を正当化する立場もあれば/他方の極には国家以上の組織(例えばEU)などに内政の主権を上方移譲する立場も想定できる。
・これらの問題は個別的事例によって異なってくるので、以下で重要な3つの主題における主権の限界を考察する。
①防衛
・ヨーロッパ全体の防衛を集団で行うこと/自国の防衛を自国で行う主権はそれぞれ矛盾しないが、集団防衛に参加するのであれば、部分的に主権が上方移譲される。
②社会政策
・社会政策はネーションにおけるニーズ及び公共文化を再生産する(教育など)。公共文化の規定はネーション独自のものであるはずなので、このとき完全に主権は国家に帰される。
③経済政策
・上方移譲をすることによって国家間レベルの「囚人のジレンマ」化/主権を国家に帰することによる合理性の喪失 という双極的な主張ができ、実際「①防衛」や「②社会政策」のように主権の帰属先が明らかではない。
→ただし、いずれの場合でも権限の外的行使=ナショナリズムは正当化されない。他国への侵略は、以下の5つの他国への義務から認められてはならない。
①他国を物理的に搾取しない義務
②弱小国家を搾取しない義務
③国際協定を遵守する義務
④相互扶助の慣習から生じる相互的義務
⑤天然資源の公正な配分を保障する義務
→このうち⑤が最も困難である。各国はそれぞれ異なる公共文化を有しており、ゆえに再配分される財の価値もそれぞれ異なるからである(例えばイスラエルの人々はエルサレムを単に地価以上の価値から評価するのは間違いない)
・また③の義務も、国際協定が時代と共に不当になったり、効力を失ったりした場合は拒否や再締結されることがありえるため、絶対的であるとはいえない。
・以上での主権についての議論は、「自国の主権の保持/他国の主権の尊重」という2つの側面に要約される・
→ゆえに他国における内政干渉が許容されるのは、他国民が基本的人権レベルで侵害されている状況にのみ正当化される(3章の続き)
Ⅲナショナルな自己決定と分離独立の条件
・ではある国家において複数のネーションがある場合、ネーションによる自己決定権の要求つまり分離-独立はいかにして正当化されるか。
・リベラリズムの見解にたつと、相反する2つの主張が可能となる。
①国家が国民全てを顧慮しているのであれば、分離-独立は不当である。
→自己決定権を求めるマイノリティの暮らし向きがよいのであれば、自己決定権は要求できない。
②自己決定権の要求はそれ自体に価値があるため常に正当である。
→無政府状態に陥るという批判を条件付けによって退けることが出来ても、その条件が示威的なものになってしまう。
・対するナショナリティによる見解は、まずネーション/エスニシティの区別をする(つまり全てのエスニシティが政治的自己決定権を要求するわけではない)
・ネーションはⅡ節での諸義務が破られる場合には(特に資源の持ち去り)、分離独立は不当であり、ゆえに様々な条件が課せられていることがわかる。
・また以下のような場合では、分離-独立は認められないにしても部分的な自己決定権の容認がなされることがある。
①当該ネーションが要求する領土が広大な場合
・例えばアボリジニからすれば、オーストラリア大陸全土は自分たちの土地である。このとき、オーストラリア政府はアボリジニに公正な自己決定権を認めて、要求を取り下げてもらった方が賢明である。
②当該ネーションが既存国家の方に帰属意識を持つ場合
・カナダのケベック人の分離独立を認めると、他のカナダにおける諸ネーションも同様の主張を行うと予想される。ケベック人にカナダの公共文化を共有することで、所属意識をカナダに向けさせるのは有効である。
③広いアイデンティティと狭いアイデンティティが共存する人々がいる場合
・カタロニア人の26%はカタロニア人の、30%はスペイン人の、40%は両方のアイデンティティを有していると調査で明らかになった。この場合、両者の共存が政策によって許容される必要がある。
第5章 ナショナリティと文化多元主義 p.211~274
Ⅰ保守的ナショナリズムと文化多元主義
・これまでナショナリズムは国家間の対立の火種になるということで、対外的側面から批判されてきたが、(少なくとも近代国家において)他国の尊重と両立可能であることが気付かれ、むしろ対内的な問題として扱われるようになった。
→つまり国家間の諸ネーションに対してどこまでナショナリティの要求をするべきか、ナショナリティの要求が個別的アイデンティティを損なってもよいのか?といったことが問われる必要がある。
・これに対して以下の2つの立場を本書ではとらない。
①保守的ナショナリズム
・ナショナルアイデンティティを断固として支持し、国家内のネーション全てに単一のナショナルアイデンティティを要求する。諸政策もそれに準じたものであると主張する。
②急進的多文化主義
・ナショナルアイデンティティを至上のアイデンティティとするのではなく、むしろジェンダーや宗教といったアイデンティティといった私的なものに価値を認める。
→この2つはそれぞれ両極に位置する立場であるが、実際に多文化主義が主張するようにナショナルアイデンティティが数あるアイデンティティの一つであるということは認めざるを得ない(ナショナルアイデンティティにのみ特権的地位を認めることはできない)。
Ⅱ保守的ナショナリズム批判
・保守的ナショナリストは国家の協働の観点から、ナショナルアイデンティティを至上のアイデンティティと定め、国家への至上の忠誠を誓うように要請する。
・このことは以下の3点を含意することになる。
①ネーションの権威が認められる制度の必要性
②ナショナリティに対する批判の排除
③移民の受け入れに対する難色
・しかしこの保守的ナショナリズムの主張は、
①ネーションとは「想像の共同体」であり、その権威は絶対的なものにはなりえない(流動的である)
ゆえに、
②ナショナリティに対する批判は排除できず、③移民の存在はナショナリティを脅かすことにはならない
Ⅲ急進的多文化主義批判