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Berger,Peter and Thomas Luckmann 1966 『現実の社会的構成―知識社会学論考』

トマス・ルックマン&ピーター・バーガー 1966 『現実の社会的構成―知識社会学論考』

 

 フッサールを開祖とし、その後ハイデガーやサルトルなどの実存主義や、アーレントやハーバーマスなどの「公共性の哲学」に継承されていった現象学であるが、フッサールの直弟子だったマックス・シェーラーによって、より経験的分析を行う社会学にも引き継がれていったという経緯がある。ただしシェーラーによる哲学的人間像の話はどちらかといえば先述のサルトルら実存主義寄りなので、今回はシェーラーの次に出てきたマンハイム、シュッツの議論を簡単に整理した上で、本書の内容を検討する。

 

 カール・マンハイムは、社会学の古典に位置づけられるジンメルの弟子にして、マルクスのイデオロギー論を批判したことで知られる。また「知識社会学」という単語を初めて用いたのも彼だとされる(単に「知識社会」という語ならばシェーラー)。

マルクスによれば、虚偽意識としてのイデオロギー(上部構造)によって資本家たちは拘束されているという。しかしながら、このときマルクスは自分自身の主張に対して、この虚偽意識という疑念を差し向けることはしていない。つまり、マルクスの主張もまた何らかのイデオロギーに束縛されているのではないか、というのがマンハイムによる批判の要点である。マンハイムは「知識による諸個人の拘束」というマルクス的視点を資本家に限定せず、むしろ社会の成員に一般的に観察されるとし、存在被拘束性という概念からこれを説明した。なお「相関主義」という態度によって、存在被拘束性の克服も目指してもいるが、現象学的社会学全体に関わってくる内容ではないのでここでは割愛する。

 

アルフレッド・シュッツはドイツの社会学者で、フッサール現象学をかなり色濃く引き継いだ主張を展開している。シュッツは知識の客観的真理性への問いを放棄し、社会の成員たちが有する共同主観的な世界、すなわち「生活世界」がどのように構成されているかという点に目を向ける。例えば出兵などによって長年故郷を離れていた者にとって、これまで自明視してきた故郷の社会的秩序ないしは知識とは、もはや自明ではない。すなわち「帰郷者」にとって、故郷の生活世界はすでに知識として共有されておらず、ゆえにその秩序形成のあり方に当惑するのである。

こうしたシュッツの主張は「自然的態度の構成主義社会学(constitutive sociology of natural attitude)」と形容され、『現実の社会的構成』の冒頭におけるバーガー&ルックマンも自身をこの立場に位置づけている。

 

さて本題のルックマン&バーガーの主張に目を移そう。彼らは本書の最初のページで、知識社会学ないしは現象学的社会学の課題を方向付ける、極めて重要な命題を提起している。すなわち、

「現実は社会的に構成されており、知識社会学はこの構成が行われる過程を分析しなければならない」 (p.1)

この「現実の社会的構成」というテーゼは(ルックマン&バーガーたちがそこまで著名でないのにもかかわらず)よく知られたもので、構成主義者が二言目には口にする「社会的な構成」という言い回しも、おそらく本書が元祖である。

ルックマン&バーガーによれば、社会とは客観的事実(デュルケムのいう「モノとしての社会」)として存在する他方で、共同主観的な現実(ウェーバーによる理解社会学の分析対象としての社会)としても存在しているという。そして客観的事実としての社会と、共同主観的現実としての社会は弁証法的な関係にあり、この関係性によって行為者の主観的な意味が、社会の客観的事実に橋渡しされると分析している。この橋渡しの過程がいかなるものか、少し詳しく検討しておこう。「個人の主観―客観的社会」間における弁証法の契機は、以下に挙げる3つの循環的関係性から成り立っている。

①外在化(externalization)―内的世界を外的世界へ投影し、社会秩序を構成する過程

②客体化(objectivation)―外在化された世界を、他者と共有することによって客観的な現実として位置づける過程

③内在化(internalization)―客体化した現実を、社会化を通して内面に取り入れる過程

 

私たちが社会に参与する際、発達理論でよくいわれるように「社会化(Socialize)」の段階を踏む。さらにこれは第一次社会化と第二次社会化に区分され、前者から後者に移行するに連れて、現実の意味論的な構成の度合いも高まっていくという(③内在化)。そして最終的には「信憑性構造(Plausibility Structure)」としての主観的現実が出来上がり(②客体化)、他者とこれを共有することによって客観的な社会も成立する(①外在化)ことになるのである。

ここで留意しておくべきは、現実とはあくまで(共同)主観的なものに過ぎず、ゆえに変更可能性に常に晒されているという事実だろう。例えば「信憑性構造」としての宗教世界が、ある日何らかのかたちで崩壊した際、これに依拠した現実認識はもはや維持することはできないはずだ。さらにこれが第一次社会化によって獲得されたものであった時、より根本的な現実の再認識が要求されることになるだとうとも予想される。このような例からも伺えるようバーガー&ルックマンが定式化した「現実」とは、必ずしも唯物論的な世界から構成されているわけではなく、成員の共同主観性に大きく依っているのである。

 

何度か述べているよう、バーガー&ルックマンは本書において現象学的社会学の潮流を整理し、その上でミクロな行為論/マクロな構造論の橋渡しも試みている。こうした功績は評価されるべきだろうが、少なからずその主張は問題を孕んでいるものでもあるため、最後にここを検討して終わろう。

まず彼らの主観世界/客観世界という図式化はデカルト的認識論の伝統に位置づけられると考えられる。二人は主観世界と客観世界の橋渡しをデカルトのように形而上学的領域から行うのではなく、共同主観性から行う点において一線を画す主張ではあるが、そもそも主観/客観という二元論的な対立図式に依拠している時点ですでにデカルト的であるといえる。そしてこうしたデカルト的構図がライルやサールなどの「心の哲学」一派が批判するよう、多くの問題を抱えているのは周知の通りだろう。

例えば「物的世界としての社会」を「内面的世界としての現実」に、いかにして適合させるかという問題。先述の通りルックマンとバーガーは内在化(社会化)のプロセスによって、この適合過程に対する説明を与えていた。しかしながらライルが指摘するよう、主観的現実を上映する心などは、客観的現実の収容施設としては機能し得ない。そこではあくまで主観的現実が「上映」されているだけであって、物質的に外在世界を取り込んでいるわけではないからである。このことを踏まえて端的にいえば、バーガーとルックマンは存在論的レヴェルにあるはずの外在世界と、意味論的レヴェルにある内在世界を(両者のレヴェルの差異を無視して)接続してしまっている。

こうした二元論の問題を回避するため「行為の記述」を突き詰めて検討していくと、二人が想定しているような「構造 対 行為」「客観 対 主観」といった対立軸は、少なくとも相互行為の分析においては不要であることがわかる。例えばエスノメソドロジーという領分での研究がこうした指針に基づいて展開されているが、その詳細は本サイトの別ページに譲ろう。ともかくバーガー&ルックマンの主張は惜しいところでデカルト的ドグマに飲み込まれてしまったということである。そもそも現象学の創始者であるフッサール自身が、デカルト的懐疑論の再検討から論を展開しているため、この問題は最初から不可避だったのかもしれないが。

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