top of page

Lacan,Jacques 1966 「盗まれた手紙についてのゼミネール」

ジャック・ラカン 1955→1972 「盗まれた手紙についてのセミナール」

 

 「盗まれた手紙のセミナール」は、代表的フロイディアンであるジャック・ラカンによって1955年に開かれた講義をもとに作成された論文であり、日本語訳としては1972年に出版された『エクリⅠ』の中に収録されている。ラカンといえば臨床心理学はおろか、人文社会科学全体を見渡しても比類する者がいないレベルの難解なレトリックを用いることでよく知られており、例えばフランスの哲学者であるメルキオールは皮肉交じりに「ラカンが死ぬ1981年までに、彼の理論を理解できたのは世界でただ2人だけ。つまり神とラカン本人だけである。」とまで言っている。そして本稿も(そこまで分量があるわけではないのに関わらず)、読解に非常に骨が折れるものとなっている。

 

 まず「セミナール」の内容に迫る前に、前提知識としてエドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』のあらすじを簡単に把握しておこう。ポーはいわずと知れた推理小説作家であり、本作『盗まれた手紙』はいわゆる「灯台下暗し」のトリックを史上初めて用いた、推理小説史における記念碑的作品でもある。

 

ある日主人公であるデュパン(彼はポーの他の作品にもよく登場する)のもとに、フランス王室からの御呼びがかかる。フランス警視庁がいうには、卓上に置かれていた王妃に届いた密書を、王妃が目を通す前に大臣Dがくすねてしまったらしい。手紙の但し書きによれば、特に王様には見せたくない内容であり、現に王妃は王様の目を退けるために「あえて」目に付く卓上に置いて隠すという戦略をとった。この試みはうまくいき、王様の注意を引かないこと自体には成功したのだが、実際に王妃は手紙の内容までは読んでいないため、今回警察に依頼することになった。しかしDの家をこっそり捜査してみても一向に見つかる気配が無い。そこで最終的にデュパンに相談が来たというわけだ。

先述のようにこの話の肝は「灯台下暗し」だ。デュパンは大臣の家を訪問、少しの間談笑した後、大臣が目を離した隙に戸棚近くのドアノブに引っかかっていた手紙を発見、事無く王宮で待つ王妃のもとに持ち帰る。つまり大臣は王妃が王様の眼差しを掻い潜ったのと同じ要領で、手紙をあからさまに隠すのではなく、あえて目に付く場所に放置しておくことで逆説的に「隠していた」のである。

 

大まかにまとめるとこんな感じだろう。ではラカンはこの物語をどのように読み解いたのだろうか。ポイントは『盗まれた手紙』において、物語の鍵を握る手紙の所在が「送り手→大臣D→デュパン→王妃」といった具合に転々としていることだ。ラカンによればアレゴリーとしての『盗まれた手紙』からは、手紙すなわちシニフィアンが、「手紙の伝達」すなわち「象徴界の連鎖構造」を通じて、主体の想像界に支配的影響力を及ぼしている過程を見て取ることができるという。この時点で悪名高い彼独自の概念が登場してくるので、その辺も併せて解説しよう。

まずラカンは主体から見た世界を3つの「界」に類型化した。主体に「近い」順から並べると、人のイマジナリーな領域である想像界がまずあり、次に文字や記号表現によって構成される秩序の世界すなわち象徴界、そして最後に「死後の世界」などにように決して主体が表現・経験できない領域である現実界がある。ラカンのこの三界概念を解説する際には、おそらく最も有名なラカニアンであるジジェクの例え話が引かれることが多い。ご多分に漏れずここでも確認しておこう。

ジジェクは三界をチェスのゲームに例える。まず彼によれば想像界とはチェスに対して抱く我々のイメージだ。チェスは盤上のゲームであり、また駒を用いるという特徴がある。こうしたイメージにおいては、様々なチェスに関する想起(例えば「将棋と近いゲームだ」などといった具合に)が「自由に」可能なはずだ。しかし、そうした自由な想像だけではゲームは始まらない。そのためにはチェスのルールを把握する必要があり、このルールへの参与こそが象徴界への参入に他ならない。ここで我々主体は象徴界の規制の力を受けることになる。チェスをするためには、チェスのルールを破るわけにはいかないのである。

チェスというゲームの説明には以上の条件で事足りるように思える。しかしチェスがゲームである以上、それは必ず盤上を超えた領域での偶発性・不確実性に左右されることになる。例えばそれがプレイヤーの知力や洞察力、あるいはイカサマの技術でもいいだろう。またチェスを行っている環境にもゲーム内容は左右される。野外で楽しんでいる際、いきなり豪雨に見舞われたら中断せざるを得ないのは明らかな事実だ。この予期不可能なコンティンジェンシーこそ、ラカンが現実界と名付けたものに相応する。決して語りえず、また経験もできない領域を逆説的に「現実」と表現するあたりに、ラカンの奇妙さと皮肉な性格が伺えるだろう。

 

先述の通りラカンの解釈に従えば『盗まれた手紙』のアレゴリーからは、象徴界による想像界の支配を読み取ることができる。そして象徴界が(ちょうどチェスのルールがそうであるよう)特定のルールによって秩序だっているのもすでに見たとおりだ。ラカンによればこうした象徴界の秩序を支えるルールとは、端的に言って記号表現すなわち「シニフィアンとしての言語」に他ならない。主体は完全なる主観的世界である想像界を抜け、言語のネットワークに参与する(この過程をラカンは「去勢」と呼んでいる)ことによって、秩序だった「共同」主観的世界を生きることが可能になる(同時に象徴界に回収されない「現実」が残余となる)。象徴的秩序のメタファーとしての「手紙」の連鎖。それによって王妃や大臣らが右往左往している様が『盗まれた手紙』の中では描かれているというのだ。そしてラカンはさらにここから一歩踏み込んで、精神分析への応用可能性も検討している。

 

ラカンによればフロイトがいう「反動強迫」及び「死の欲動」とは、象徴的連鎖によって誘発される事態であるという。フロイトの「反動強迫」の概念は今でこそPTSDとして一般にも広く知られる心理状態となっているが、元来は「過去の苦痛な体験を苦痛だとわかりつつも繰り返し求めてしまう」という、文字通り「死への欲動」にとりつかれた状態を意味していた。そしてこれは象徴界による想像界の混乱―より厳密にいえば象徴の「置き換え」が、諸個人の無意識下において反復されることによって引き起こされるというのがラカンの見解である。また『盗まれた手紙』の登場人物のうち、最後まで冷静を保ち、事件を解決に導いた者がいることもラカン的には特筆に価する。つまりデュパンである。デュパンは最初に王妃が「灯台下暗し」の理屈を逆手にとって、手紙を「あえて」目に付く場所に置いていたことをしっかり認識していた。そして次に大臣が同じ要領で手紙を保管していた事件の核心を見抜いた。このことはつまり、(王妃-大臣間の)シニフィアンの連鎖における「反復」をしっかり彼が看破していたという事実に他ならない。ラカンはこうしたデュパンの分析的態度は、反動強迫を扱う精神科医にとって不可欠な要素であると結論付けている。

 

ラカンの主張は以上として、最後に批判点を検討して終わろう。今回取り上げる批判は、ポストモダニズムの旗手であるジャック・デリダが「真実の配達人」の中で述べている論点に基づくものだ。

前述の通りラカンは「手紙」を通したシニフィアンの連鎖に注目していた。この解釈に基づくと、すでにそこでは象徴的秩序が王妃や大臣そしてデュパンに共有されているため、少なくとも3人にとっての「手紙」の内容は同一のものであるという想定が暗黙裡になされていると考えることができるだろう。デリダが異を唱えるのはこの点である。デリダによれば、イマ-ココで生起するパロールとは異なり、エクリチュールであるテクストは無数の解釈多元性に開かれている。このことはつまり象徴的秩序としての「手紙」は、送り手の意図通りにレシピエントが受け取るとは必ずしも限らないということである。またデリダの解釈は王妃の読解通りにデュパンが読み解くとは限らないということも含意している。その意味でシニフィアンとは「デッド・レター」であり、むしろこうした差延を積極的に受け入れる姿勢がポストモダン的状況下では求められているのではないだろうか。

bottom of page