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Cohen,Gerald.A 1995 『自己所有権・自由・平等』

 

『自己所有権・自由・平等』 1995→2005 G.A.コーエン

 

◇序論 歴史-倫理-マルクス主義 p.1~23

 

第1節

・マルクスの史的唯物論は「科学」に基づく言説であり、よってあらゆる価値から独立しているとされてきた。

→よって規範理論とは少なくともマルクスの時代から考えれば峻別されるものである。

・コーエン自身は自身の境遇から社会的不平等を抱える人々に対する「正義」とこうした「科学的な」マルキシズムが峻別されていることに懐疑的であった。

 

第2節

・ドゥオーキンの講義でノージックによる「ウィルト・チェンバレン―自由がいかにしてパタン付き原理を崩壊させるか」(『アナーキー-国家-ユートピア』)の考察について解説を受けると、それがマルキシズムにとって核心的な批判であるということにローマーは気づく。

→詳細は第1章

 

第3節

・マルクスの「平等」は二つの科学的論拠の上に立脚している。

①労働者による階級闘争

→資本主義的メカニズムにおいて資本家は剰余価値を必ず労働者から搾取しており、よって労働者は資本家に対して反旗を翻す

②財の希少性

→財の希少性はいずれ生産技術の発達によって解決される。よって、財が無数に獲得できる社会において各人は平等に顧慮される。

 

 

第4節

・今日においてマルクスの「科学性」は論拠としての耐用年数を失効している。

①労働者による階級闘争の反証

→マルクスによるプロレタリアートは (1)社会を支える生産者である (2)マジョリティである (3)搾取されている (4)貧困を抱えている の4点から定義されるが、今日の世界にこの条件を満たす労働者はもはやいない。むしろマルキシズムの光芒はこうした労働者像が前提化される世界だったからということに起因するだろう。

 

②財の希少性の反証

→今日、化石燃料の深刻な枯渇が国際問題となっている。よってマルクスが極めて楽観的に予見したように、財の希少性が解決されるという未来を描くこともできないだろう。むしろ、マルクスは「財の希少性が解決されないという事態に極めて悲観的であった」が故に、深い考察を避けたのかもしれない。

 

・よってマルキシズムはもはや「科学」に依拠することはできない。

→『空想から科学へ』『科学から正義へ』(分析的マルキシズムの基本理念)

 

 

第5節

・ノージックを筆頭とするリバタリアンは自己所有権から正義原理を訴える。

→自己所有権は標準的マルキシズムにおける搾取問題への潜在的批判も含むため、マルキシストはこれを回避できない。

・以下ではそのリバタリアニズムからマルキシズムに対する潜在的批判の回答として書かれた本書全体の構成が整理される。

[第1章]

・ノージックによれば、パタン付き配分は自由配分によって崩壊するという(「ウィルト・チェンバレン」)。ここではそれに対するコーエンの(未完成の)批判が取り上げられる。

 

[第2章]

・さらに第1章から踏み込んで、ノージックによる「権原に基づく獲得-移転はいかなるものでも正しい」という主張、及び自由と私的財産の混同を反証する。

 

[第3章]

・ここでは自己所有権は個人の資質について雄弁だが、実は外的資産についてほぼ何も語っていないということが批判される。

→権原理論において「ロック的但し書き」が外的資産の所有を正当化するが、実は原初取得まで遡ると「ロック的但し書き」では説明しきれない問題に直面することになる(【メモ】これはたぶんキムリッカが取り上げていた「土地の原初所得」の話だろうな)。

 

[第4章]

・第3章で示されたように自己所有権と外的資産は両立しえない。よって外的資産の集団所有―平等と自己所有権は両立するということになる。

→ここで「外的資産の集団所有は自己所有権を形骸化させてしまうのではないか」という問題が生じる。確かに集団所有は自己所有権を弱めるが、しかしリバタリアンの批判するマルキシズム体制における労働者の自己所有権と同等レベルであるため、少なくともリバタリアンには許容されるはずである。

 

[第5章]

・第4章の末で生じた問題系は同時にマルキシズムへの批判としても機能する。

→「自己所有権の手放しの肯定∧外的資産の平等分割」を訴えることはできない。こうした「左翼的リバタリアン」からマルキシストは以下の2点で区別されなければならない。

①労働価値説が不当であるとしても、剰余価値の搾取が起こる構造は自己所有権の上に立脚しているのは間違いない。よって搾取を否定するマルキシズムは自己所有権を否定しなければならない。

②マルキシズムにおける善き社会は、財が集団所有されている他方、財の希少性が解決されているので「各人は各人の必要なままに」共有財を求めることが出来る。しかし、財の希少性の解決は先述の通り不可能である。よってマルキシストは代わりに自己所有権を規制しなければならない。

 

[第6章]

・第5章では「リバタリアンの自己所有権をマルキシズムが拒否しそこねている」と弱く主張されたが、第6章ではよりポジティブに「マルキシズムが少なからず自己所有権を肯定している」ことが明らかにされる。

→リバタリアンの資本主義的前提を無自覚にマルキシストは肯定しており、故にリベラルよりもリバタリアニズム批判が困難になっている。

 

[第7章]

・マルキシズムにおける労働価値説が不当であるということが明かされ、かつロックの『統治論』に労働価値説の雛形のようなものが確認されることが明らかにされる。

 

[第8章]

・マルキシズムが内在する不整合性に焦点が当てられる。

→実はマルキシズムにおいて、資本主義の不正は (1)生産財の初期配分における不平等に基づく経済的不平等(第5章での議論) (2)資本家による剰余価値の搾取(第6章での議論)の2点が挙げられており定まっていない。

→根本的不正/規範的不正として整理可能である。

 

[第9章]

・自己所有権が、

①日整合的であるという主張(カントのロック批判)

②政治哲学の関心としては空疎であるという主張(アネーソン、ドウォーキン)

に対して自己所有権概念を論理的に抽出する。また併せて、リバタリアンによるロールズとゴティエへの批判が正当であるということも主張される。

 

[第10章]

・自己所有権の問題(自己所有権の否定は奴隷制の肯定や人間的自律性の否定につながらないし、逆にその肯定が人間の自立性を脅かすことにつながり、人間の功利主義的使用への解法になりえない)ということを体系的に整理する。よって自己所有権は消極的にではあるが論駁される。

 

[第11章]

・ソ連の核実験の社会主義への影響。この10年(初版1995年)の社会主義の展望について。

 

 

【メモと批判】

・第4章の集団所有って結局「ロック的但し書き」に反していないか?

→原初所得の議論によって外的資産の所有について論駁できても、「共有地の悲劇」を論駁していることにはならないため、集団所有を正当化できないのでは?

・まあまだ読んでいないからなんとも~。

 

 

◇第1章 ロバート・ノージックとウィルト・チェンバレン―いかにパタンは自由を維持するのか

第1節

・本章ではノージックが『アナーキー』において展開した例話「ウィルト・チェンバレン―いかにして自由がパタンを崩壊させるか」の反駁を通し、社会主義と自由について考察される。無論、社会主義における配分原理はパタン付きである。

→ノージックの反応としては①(権原理論から)正義を資本主義的自由とし、社会主義の平等的正義は不当である ②社会主義的平等は不当でないとしても、依然社会主義的平等と資本主義的自由は相容れない の二つが想定できる。この二つは第2節以降で①、第5節以降で②がそれぞれ論駁される。

 

 

第二節

 

[おさらい]ウィルト・チェンバレンによるパタン付き配分の破壊(『アナーキー』7章-4)

・観客はあるパタン付き配分原理によって獲得した配分D1を持っている。

・他方で、チェンバレンは人気選手であり、一試合で25万ドルの大金を稼ぐことが出来る。これをD2とする。

→D1が25セントの観戦料として観客に自発的に払われ、そしてそれがチェンバレンのD2を構成しうるとき、パタン付き配分のD1は自由配分D2に変換されている。

・ゆえにパタン付き配分原理は自由配分の前に崩壊する。

→ここでノージックは、

A ある財の獲得が公正なものであるならば、そのすべてが公正である(獲得原理)

B 公正に獲得された財の自発的移転は、そのすべてが公正である(移転原理)

という二つの(権原理論的)正義原理を前提化している。

 

・Bの移転原理において、自発的であることが強調されているのは重要なポイントである。

→ノージックはそれが自発的意思に基づくものであれば、仮に奴隷制という財の移転の方法であっても権原理論からは正当化されると主張する。

・しかし、自発性条件は「移転の際の予期の違背」という問題について無自覚である。

→ある人は自発的に25セント支払ってチェンバレンのプレーを観戦したが、その内容に満足しないかもしれない。「予期の違背」はある人の自発性を曇らせるのではないだろうか。

ゆえに、

C公正に獲得された財の自発的移転は、「移転の結果が当人によって予期されている限り」そのすべてが公正である。

→獲得原理の修正版だが、これではほとんど自由移転など起こりえないだろう(完全な予期など不可能なのだから)

 

第三節

・またチェンバレンの例え話ではパタン付き配分D1が権原配分D2によって崩壊させられていることが明らかにされていた。しかし、このとき証明されていたのは「D2がD1を崩壊させる」ということであり、「D1というパタン付き配分それ自体」の妥当性は否定されてはいない。

 

・ノージックが言うとおり、権原はある私的財産の配分を巡る議論において「単一の」役割を担っているのは間違いない/私的財産の配分は他のパタン付き原理によって制限される。

Ex)チェンバレンと社会主義者

・バスケットが好き∧社会主義者がいたとする。

・彼は彼の選好からチェンバレンの試合を観戦しにいくが、D2が物凄い額であることに気づき25セントを支払うのをためらってしまう。

→この社会主義者的選好(反資産-権力集中)を持つ者が大勢いたとき、おそらくノージックの意図通りには自由配分が達成されないことになる(ゆえにパタン付き配分原理によって社会主義者かチェンバレンのいずれかが制限される)。

→ノージックの例え話は、観客が特定社会を生きているという事実を無視している。

 

 

第4節

・チェンバレンの例え話の後にはこのように続く、

「誰かが何かをチェンバレンに譲渡した後でも、第三者の配分は依然正当なままである。彼らの配分は変化しないのだから。」

→これは明らかに誤りである。自己の配分と他者の配分は相互依存的であり、チェンバレン-観客と第三者間にもその関係性は存在している。このことをノージックは「随意的交換」についての説明(『アナーキー』8章-7)で解説を付け加えている。よって本章7節で扱われる。

①ノージック本人が示唆しているように「第三者の配分が変化しない」という主張に対して、「移転の媒介的影響力がチェンバレンと第三者に及ぶ場合」を想定すると反証が可能である。

→第三者はラディカルな社会主義者たちでチェンバレンの25万ドルに批難をするかもしれない、チェンバレンはそれを防ぐために給与を非公開にするかもしれない

 

②次にノージックは①を解決するために「媒介的影響力によって第三者がチェンバレンに贈与をするのであれば、チェンバレンのD2はいずれにせよ影響力によって否定されない」と想定する。

→先述の通り、媒介的影響力は「チェンバレンの贈与」という形式で顕在化するとは限らないため、この想定はかなり弱い。

(【メモ】資本主義的自由の正当性/社会主義的平等の不当性をここまでで反証できていない点において)

 

 

第5節

・次に「②資本主義的自由と社会主義的平等が相容れない」という主張を論駁する。

→ノージックは以下の三点の社会主義における「非現実的」道徳実践を論拠として挙げる

⑤すべての人が社会主義的配分パタン付き原理を目指す

⑥自らの行為が配分パタンを覆すことになるのはいかなるときか、各人は自らの行為と他者の行為についての正確な情報を入手できる

⑦広範囲に分散した人々が、パタンに適合するために自らの諸行為を調整できる

 

・このうち⑤はノージックのいうように「非現実的」であり、これは社会主義側が間違っている。

→少なくとも渇望―エートスが必要なのは社会主義の形成期においてであり、以後も必要あるとは考えられない。

・しかし、⑥と⑦を論拠として挙げるのはノージックの誤りである。

→これらは社会主義が「完全に」達成されるための条件であり、標準的社会主義においては、⑤市場の乱数が部分的にパタンを崩すこともあり得るし、⑥よって各人は正確な情報を持ち得ないため行為を調整することが出来ない。

→つまりよほど厳格な社会主義ではない限り、ある程度の資本主義的自由は保障されている。

 

 

第6節

・前節で見たように、資本主義的自由と社会主義的平等は部分的に両立する。

→むしろ社会主義では特定の条件化における多数者の自由のために、少数者の自由を制限するが、これに対しては逆にノージックが権原の侵害―「横からの制約(side constrains)」として異を唱える。

→例えば、ノージックによれば「栄養失調の赤ん坊を抱える家庭」が多く存在するときであっても、少数の「富裕層」に課税することは権限の侵害であるという。

・ノージックによればこの手のパタン化原理はカント的義務論(目的自体の人間に対する定言命法)に依拠しており、正当化されている。

→ノージックがカント的義務論を肯定/否定しているかは彼の『アナーキー』からの記述からは判別できないため、この問題はノージックにとって未解決問題である。

(【メモ】サンデルが書いていたけどリベラルとリバタリアンの分配原理はカント的義務論に依拠している。リベラルが「目的自体の人だからこそ平等に顧慮されるべき」であるとしたのに対し/コミュニタリアンは「目的自体の人間だからこそ自由が認められるべき」と想定するため袂を分かつことになる。ゆえに、ノージックの権原理論がパタン化を否定しているとしても、ここでコーエンが指摘するようにカント的義務論を肯定している可能性は十分にあり得る。)

 

 

第7節

・最後にノージックの「随意的交換」(『アナーキー』8章-7)について反駁する。

→「随意的交換」についての主張は間接的にマルキシズムの核心に触れるものであり、ゆえにその誤謬も看過できるものではない。

 

【おさらい】

・それぞれ26人からなる男女が合コンを行う。

・男子は女子A´、B´、C´……の順に選好し、女子は男子A、B、Cの順に選考する。

→最初のAとA´のペアは不満なく成立し、次に男子Bと女子B´のペアが消極的に成立し、以下Zまで続く。

・このときZとZ´がペアになることは、それぞれ「他者の正当な権利によって制限された」選択であるため、(それが消極的であっても)随意的選択であることになる。

→この論理に従うと資本主義体制における抑圧されたプロレタリアZ が飢えるか/搾取されるかという選択肢に立たされ、搾取される選択をしたとしてもそれは随意的交換となる。

 

・随意的交換の論理において、反駁されるべきは「他者の正当な権利によって制限された」選択が全て随意的交換になるという点である。

Ex)フレッドとヴィクター、ジルズとウィリアム

①農民フレッドはある土地を所有し、ヴィクターはその土地を横断する権利を持つ

→フレッドがその土地に超えられない柵を作ったとき、ヴィクターは道路を迂回することになる。これは「不当な権利によって制限された」選択であるため非随意的である。

②農民ジルズはある土地を所有し、ウィリアムはジルズの好意からその土地を横断できる

→ジルズがその土地に超えられない柵を作ったとき、ウィリアムは道路を迂回することになる。これは「正当な権利によって制限された」選択であるため随意的である。

→しかし正当/不当に関係なく、「結果的には」ヴィクターとウィリアムの選択は強制されているため随意的/非随意的の線引きも行えない。ゆえに「随意的交換」は偽。

 

 

第8節

・このように随意的交換によるZの記述は明らかに不当である。これは資本主義的自由が社会主義的自由と相容れないということばかりか、「そもそも資本主義はそれ自体の原理のために自由を犠牲にしている」、とまで言い切ることが出来る(Zの労働の強制)。

 

 

【メモと批判】

・疲れてたからこの章あんま頭入ってないぽよ。

→でも6節(ノージックのリベラル的平等批判の反駁)と7-8節(ノージックのマルキシスト的格差是正批判の反駁)が核なのはわかる。

・6節のメモでリベラル(公正としての正義)/リバタリアン(権原理論)がともにカント的義務論に依拠していたと書いてるけど、これはあくまでサンデルによる定式化なのであんまし鵜呑みにしないよう。というかノージックは古典リベラルだとロック寄りだよね。

→ついでにロールズも定言命法的な形而上学的論拠は避けて、わざわざ契約論を持ち出してるのであんまりカント的ではないかもね(サンデル曰くヒューム的らしい)。

・7-8節のコーエンは見事。この反証にはエレガントさすら漂ってる。確かにノージックの随意的交換は「正当/不当な権利による制約」というけども、そもそも「強制」とは行為の結果なので、行為の前提である権利の問題には帰属できない。

 

 

 

第2章 正義・自由・市場取引 p.55~94

※本章では第一章で取り上げられた問題のうち、

①取引の正義とその結果の正義―権原理論の二(三)原理の反駁(前章2-4節)が本章1節で、

②ノージックの自由概念の不安定性(前章5-8節)―権原理論から派生する自由の問題への批判が本章2-3節で取り上げられる。③4節ではチェンバレンの例話の中で潜在的に中心化されていた自己所有権の原理について触れられる(以後8章までが自己所有権についての議論である)。

 

 

第1節a

・ノージックの権原理論の第一原理(獲得原理)によれば、

(G)「正しい手順を踏んで、正しい状態から生起することは、何であれそれ自体が正しい」 という。

→この命題はノージックの権原理論の根幹をなすものであるが、「強制力」と「詐欺」という2点の問題系を無視している点で不当である。「強制力」については2節j項で、「詐欺」については「正しい手順」を狂わせる(例えば風説の流布によるインサイダー取引)要素の一つであるということを確認するに留め、以下ではもう問題化しない。

 

・本節における(G)の反駁は以下の手順で行う

[項b]まずリバタリアンが(G)を正当だと考える(誤った)論拠を確認

[項c](G)のうち「正しい手順」に対して問題提起

[項d](G)のうち「正しい状態」に対して問題提起

[項e]現実のくじ/くじとしての市場、の差異を明らかにし、後者において「正しい状態」≒「結果の正義」が損なわれているということを確認する

[項f]「正しい手順」(≒「取引の正義」)が「正しい状態」(≒「結果の正義」)に帰結するには―つまり間違っていた(G)を修正するためにはどうしたらよいか、考えられる。

(【メモ】「正しい手順」と「正しい状態」という語句は(G)の権原理論に対して、「取引の正義」と「結果の正義」という語句はそれが現実の市場に適用される場合に対して、それぞれ用いられている)

 

・つまり[b]~[d]で(p)「正しい手順が正義を保持すること―つまり(G)の論駁」が行われ、[e]~[f]で(q)「取引の正義が市場での正義を保持することの論駁」が行われる(思考実験の論駁→理念系の論駁)。

 

 

第1節b

・リバタリアンが(G)を正当であるとするのには、以下のような思考が見られる

「正しい手順を踏んで(f)、正しい状態から生起すること(f´)は、何であれそれ自体が正しい」

・fとf´が共に真理命題であるとするならば、(G)において(f∧f´)もまた真理命題である(不当な直観)。

→しかし、これは素朴な感覚から見て不当である。真理値fに「極上のラーメン」、真理値f´に「極上の蜂蜜」をそれぞれ代入したとき(f∧f´)は成立しない(どう考えてもミスマッチである)。

 

・そもそも(f)「手順が正しい」ということは、

(a)手順の中に不正が存在しないこと または、

(b)それに加えて手順がいかなる不正をもたらさないこと

→aが真理命題でも(G)を即座に肯定できない(「手順の正しさ」が「状態の正しさ」につながらない)/(b⊃G)だが、それは瑣末である(b⊃f´でありf´⊃bゆえにb∧f´⊃Gつまりトートロジーである)

・ゆえに(G)が真であるためには、(f)手順と(f´)状態の概念がうまく接続されるように再構成しなければならない。

 

 

第1節c

・まず(G)における(f)手順と(f´)状態が本来的には無関係であるどころか、むしろ組み合わさることで不正義である場合(蜂蜜×ラーメン)があるということが理解されなければならない。

Ex)転がる麺棒

・ある人の家の玄関から麺棒が転がって行き、近所の別の人の家の前で停止した。

・近所の人はその麺棒を「自分がかつて置き忘れたもの」として保有する。

→このとき、(f)手順は不正だが/(f´)状態は公正であり、fとf´が組み合わさってもGは成り立っていない(f∧f´¬G)

→この例が示すように、財の獲得-移転は(ノージックの主張とは異なり)常に「正しい手順」に則って行われるものではない/むしろ財の獲得-移転は様々な不確実性や予備知識の欠如の上に立脚している(1章-2節)。

 

 

第1節d

・ノージックによる「状態の正しさ」概念はノージックにとってダブルスタンダードな問題である。

Ex)AとBの奴隷ゲーム

・AとBはコイントスによって両者の間に奴隷関係を設けようとする。

・このときAが賭けに勝ち、Bは奴隷となる。

→f手順は正しい、しかしf´状態は少なくともノージックの観点に矛盾する。

・ゆえに(f∧f´)¬G

→ノージックによれば、奴隷ゲームは「正当な強制」ではないため、「f´状態は(権原理論からみて)公正/f´状態は強制可能性から見て不正」という二つの帰結をもたらす(ダブルスタンダード)。

(【メモ】ここでコーエンはノージックの強制可能性についての議論を引き合いに出していない。1章-7節の随意的交換の説明な気がしないでもないけど、随意的交換を不当だとしているのはノージックではなくてコーエン自身なので、別にノージックは矛盾を抱えていないことになる。)

 

 

第1節e

・c-d項で(G)獲得原理(及びそれに従属的な移転原理)における「f手段の正しさ」と「f´状態の正しさ」の概念的誤謬が確認された。次に市場をくじとして捉えることで、権原理論だけではなく、リバタリアンによる理念系としての市場が抱える問題を確認する。

 

・リバタリアンは市場の正しさを(正当であると考えている)(G)に基づく思考実験から導き出す(Gの誤謬はすでに確認したがここでは真と仮定する)。

→「現実のくじ」(思考実験)は参入も回避も自由である。しかし、「市場のくじ」は「現実のくじ」とは異なる以下の要素があるため、正当性を演繹できない。

→例えば、「市場のくじ」では予期が違背したときのリスクなどの不確実性が加味されなければならない/「現実のくじ」はその必要がない。

・ゆえに市場での正義はGによって演繹されない。

(【メモ】この論駁はいささか無粋であるのでは。リバタリアンのいう「現実のくじ」(思考実験としての側面の重きを置くならばチェンバレンの例話が最適だけど)/「市場のくじ」という対応関係は、いわば「原初状態」/「秩序だった社会」に相応していて、ロールズがいうように思考実験は単に概念装置なので、それとそれによって導き出される構造を比較すると確実にズレができる。一方でリバタリアンはその差異を埋めるために後者を補強していかなければいけんよね。)

 

 

 

第1節f

・ではf手段の正しさ/f´状態の正しさをどのように修正すれば、G及び「市場のくじ」は正当化されうるだろうか。

→f⊃f´であるためには、とりあえず前提化される「f手段の正しさ」が修正されればよいはずである。

→1節cで確認したように、「f手段の正しさ」が偽となるのは、各人が不確実性によって予期違背を起こすからだった(無知が麺棒を拾わせる)。

・ゆえに、理屈の上ではfに「各人が正確な情報に基づいた上で(手段を選択するとき)」という但し書きを付言すればf⊃f´であり、(f∧f´)⊃GゆえにG⊃「市場のくじ」となる。

→しかし、各人は「誰もがすでに状態についての情報を持ちえている状況下」でわざわざ取引をするだろうか。なぜ、結果の正義が予期できるのに取引にコミットするのだろうか。

→つまり市場とは予期不可能性(利潤が出るか/出ないか不明)だからこそ各人がコミットするのである(妥当な修正案は提出できない)。

(【メモ】なんというルーマン的展開!経済システムは支払うか/支払わないかというコンティンジェントな二値コードに準拠してコミュニケーションが(再)産出されている、というルーマンの主張と、コーエンが権原理論の修正とその修正案への反駁を通して導き出した市場の予期不可能性の議論は完全に一致している。おいちゃん驚いたよ。)

 

 

第2節a

・ノージックの正義(権原理論-自然的自由の実現)の中心的課題は各人の自由の保護であった。

→しかし、前章8節で見たように、ノージックによる資本主義体制下の随意的交換は結果的にZの自由を制約していた(他者によってZの行為が制約されるとき、権利の公正/不正問わず強制力は働いている)。

・本節では自由と正義概念をさらに精緻に考察する。

 

 

第2節b

・パタン付き配分原理であるD1の支持者からすれば、チェンバレンの自由な配分D2に課税することで平等が実現されていることになる/他方でリバタリアンはチェンバレンに配分には権限があるためこうした課税を自由の侵害として認めない。

→ここで究明されるべきは「課税が真の意味で自由を侵害しているのか」ということである。

 

 

第3節c

・確かにチェンバレンのD2への課税はチェンバレンにとって不都合であり、「25万ドルの獲得」という自由を侵害していることは間違いない。しかし、このチェンバレンの自由を阻害すれば、「より多くの自由」が達成されるのではないか。

Ex)二人の水夫

・水夫Aが無人島に流れ着き、小屋を見つけたとする。後に水夫Bが流れ着き、同じ小屋を生存のために使いたがるがそこには既に先客Aがいる。

・このとき、

[AがBに使用条件として奴隷になるよう命じる場合]

・Aに小屋の権原があるため、奴隷制のよってBの自由は侵害されることは権原理論から見ても正当である。

[寛大なAがBに無償で小屋の使用権を共有する場合]

・Aに小屋の権原があるため、Aは若干の不都合を被るが、こちらも正当な許可であり、かつBの自由も侵害されていない。

 

 

第2節d

・「水夫の例」において、後者の場合Aの自由は前者の場合よりも弱いが、それによってBがより多くの自由を獲得できている場合、後者を規則(チェンバレンの例なら課税)によって正当化することができるのではないか。

→つまり課税はチェンバレンの自由(収入)を以前より少なくするが、観客は課税によって賄われるより大きな自由(給付金)を獲得することができる。

 

・さらにこの自由とリバタリアン的正義の両立不可能性は、ノージックの中心的主張である「アナーキズム(厳密にはアナルコキャピタリズム)の否定」と「個人的自由の尊重」が両立しえないことも示唆している。

Ex)私有地にテントを張る

・Aは「私有地にテントを張りたい」(自由意志)と思い、実際に私有地にテントを張った。

→このとき、国家権力は当然Aのテントを撤去するが、これはノージック的には個人の自由が否定されていることになる/かといって国家権力の介入を阻めば、アナーキズムを認めることになる。

・ゆえに「アナルコキャピタリズム∧個人的自由」の真理値は偽であり、「アナルコキャピタリズム∨個人的自由」となる(つまり二者択一である)。

 

 

 

第2節e

・ここで一旦立ち止まって今度はリベラルによるリバタリアン批判の確認を通して、「介入」というレトリックの問題に触れておく。

・反リバタリアンのネーゲルは「累進課税」を「政府による個人的介入」の例として認め、かつそれが社会的政治的不平等の解消のために必要であると主張している/他方でリバタリアンは政府によるこうした「干渉」を「介入主義的」と呼び批判する。

→しかし、先述の通り、課税は特定の立場の自由を侵害しつつも、より多くの人々の自由を達成するために不可欠である。よって、そもそも「干渉」や「介入」といったレトリックを用いること自体がリバタリアン的なイデオロギーに染まっており、中立的ではないのである。

 

 

第2節f

・こうした「介入」というイデオロジカルなレトリックは、右派による貨幣に対する物象的眼差しに由来している。

・「ある自由を行う許可」が貰える切符(切符を使うとオペラに行ったり、お菓子を手に入れたりできる)を各人に配布する。各人はその切符を使ってAやBやCやDの選択肢から選好に基づいてそれぞれ自由を選ぶ。

→貨幣とはまさにこの切符、「何かを行う自由」のことであり、古きマルキシズムが想定したような物象ではないのである。ゆえに自由と私的財産は異なる。

 

 

第2節g

・2節dにおける正義(≒権原理論)と自由の両立不可能性に対するリバタリアンの特殊的な自由の定義

→「水夫Aに小屋をシェアする権限があろうとなかろうと、水夫Bに小屋のシェアに干渉する権利があろうとなかろうと、水夫Bは水夫Aの行動を制限(干渉)したので不自由である(権利的定義)。」

→ただし、「私有地の無許可テント」の例は、私有財産に対する正当な権利の保護を行っているため、国家の介入は誰か(無許可テントの人)の自由を制限していない。

 

 

第2節h

・権利的定義に対しては二つの応答が可能である。

①まず「自由」の定義が非日常的である。権利的定義「自由」は(私的財産への)干渉が「公正/不正」に焦点を当て、「前者ならば自由/後者ならば不自由」とする。

→日常的な自由の定義からすれば、殺人犯が「公正な」国家の干渉によって逮捕された場合でも、殺人犯は「不自由」になっているはずである。

②「自由」の権利的定義を認めたとすると、さらにリバタリアンは隘路に追い込まれる。

→他者が公正な権利から私有財産に干渉する場合、「自由」である/他者が不正な権利から私有財産に干渉する場合、「不自由」である

→なぜ「私有財産への干渉」における権利の有無が、「自由」に関わってくるのか説明できていない。

 

 

第2節i

・ここまでを整理すると、ノージックは

・権原理論に基づいて、

a「自由」に対する制約がないときに正義(私有財産の非侵害)が達成される

・権利的定義に基づいて、

b「自由」は私有財産の非侵害(正義)によって定義される     と想定している。

→a正義についての説明/b自由についての説明がトートロジカルな循環を形成している

 

 

第2節j

・ここでは、

(G)「正しい手順を踏んで正しい状態から生起することは、何であれそれ自体が正しい」

という獲得原理の中における正義と自由の循環性を発見する。

→まずノージックの「正しい手順」とは「随意性が保障」されていることにあった。では次に「随意性」とはなにかと問えば「他者の公正な権利によって制約されうる各人の選択」との答えだった(随意的交換)。

→移転の正義は随意性に依拠しており/随意性は移転の正義に依拠している

 

 

第2節k

・2節-hの①の語法の問題に立ち戻る。

・法律は「強姦者の自由」(freedom)を禁じるが、他方で強姦の自由(liberty)などはそもそも存在しえず、ゆえに法による介入は強姦の自由(liberty)を禁じられることはないとノージックは反論するかもしれない(先の例ならば殺人者「の」自由は制約されるが、殺人の自由は制約されない)。

→しかしこの場合、後者の自由(liberty)についてノージックは性格付けを新たに行わなければならない。

 

 

第3節

・本節からはコーエンによるノージック批判に対して、さらにグレイが行った批判を検討し、権原理論と自由の関係性について再度考える。

・グレイの主張の論点を整理すると、

①ノージックのいうように各人はそれぞれ自由を持つ。

②しかし、その自由に対して道徳的分裂を避けるために何らかの制約を課すことは、正義に適っている(チェンバレンのD2への課税は正義に適っている)

③ノージックが「自由」を特殊に定義したのは、ロールズ風にいえば「弱い反省的均衡」であり、その特殊な定義が「秩序だった社会」の中で反省されていくか否かが問題である。

→しかし、ロールズの反省的均衡は言語の用法レベル対立の議論ではなく(包括的教説の対立の話)、よって反省的均衡によってノージックの権利的定義を正当化することはできない。

 

 

第4節

・2節以降のところでは、「リバタリアン的正義(権原理論)を遂行するとリバタリアンが至上の価値を認める自由が制約されるという逆説(チェンバレンのD2に課税すると観客により大きな自由が保障されるという反証)」及び「それに対する様々なリバタリアン側の応答が悉く失敗すること」を確認した。

・ではリバタリアン的正義と自由の両立は結局いかにして可能だったのだろうか。

→ここまで権原理論が立脚している自己所有権の議論は(意外にも)登場していない。チェンバレンの例話からは、「チェンバレンは自身の資質を自己所有する」という事実以外を教えてくれない。ゆえに次章以降からは自己所有権の議論に移る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【メモと批判】

・コーエンの反駁は粘着質過ぎて怖い上に論理が入り組んでいて難解だ。

・本章では、

①権原理論のうち獲得原理の反証(手順→状態はうまく接続できない/修正版ではそもそも市場が不要になる)

②リバタリアン的正義と自由の両立不可能性の論証(チェンバレンの自由を縮小させると観客により大きな自由をもたらす/これを退けるために自由の定義を変更するのも無理ですよ/あとグレイ氏ね)   

③リバタリアン的正義/自由の両立問題(②)のためには、自己所有権について考える必要がありそうだ(つづく)

ということ3点が確認された。

 

 

 

◇第3章 自己所有権・世界所有権・平等 p.95~130

 

第1節

・ノージックの理論は自由に至上価値を認めているとよくいわれるが、これは明らかにミスリーディングである

→ノージックのいう「自由」は常に自己所有権に依拠しており、ゆえに自己所有権に反するような自由は認められない。

・自己所有権はノージックのリバタリアニズムの超強力な論拠であり、例えばリベラルは自己所有権(に基づく権原理論)によって経済的-社会的不平等が生じている/平等な顧慮の必要性を主張するが、「新生児の左目の移植」の問題を提示されると押し黙ってしまう(『アナーキー』7章-11節マクロとミクロ)。

→ゼノンのパラドックスにより『隷属への道』(ハイエク)へ

 

・他方で、ノージックは自己所有権のうち「自己の先天的資質に対する権原」を中心的に取り上げ、「外的資源に対する権原」についての議論をおざなりにしている傾向がある。

・自己所有権から「外的資源に対する権原」を正当化する場合、

①原初的世界における世界的所有権の不平等を(「ノージック的但し書き」によって)正当化し、自己所有権の根拠とする

②次に自己所有権の観点から経済的-社会的不平等を正当化し、リベラルなどによる平等的配分原理を退ける

という二段階をとる。

→このうち本章では「①原初的世界における世界的所有権の不平等の肯定」の反駁に割かれる。

 

 

第2節

・権原理論に従えば、

(a)原初的世界における獲得が正当ならば、

(b)その後続いた移転は全て正当であることになり、

ゆえに

(c)現代における自己所有権における外的資源の所有は全て正当化される

→このうち(a)の論拠としてノージックが掲げるのが「ロック的但し書き」である。

・ロックは「共有地の悲劇」を避けるためにエンクロージャー=「ある外的資源の権原が誰かに帰属されること」の必要性を主張した。

→しかし、ノージックは「ロック的但し書き」に「ある外的資源が所有後も使用され続けること」という条件を(不当にも)追加してしまっている。

→そのため次節ではノージックの但し書きをロックのそれと区別するために「ノージック的但し書き」とし、その追加条件によって生じる反証可能性を論じる。

(【メモ】「土地の原初所得はどこかで暴力的手段を伴っているから必ず不当である」ゆえに「自己所有権は外的資源に適用されない」という反駁はここでは取り上げられないっぽいね。序論での読みが外れたぽよ。)

 

 

第3-4節

・「ロック的但し書き」に「外的資源が使用され続けること」という条件を追加することで「外的資源を専有することの非合理性の無視」という問題が生じる。

Ex)AとBの経営能力

・AとBがおり、Aは土地pに対する権原を持つ。AはBを土地pにて雇用する。

・このとき「AよりもBに経営能力がある」と仮定すると、「外的資源(土地p)が使用され続けること」という条件によって、産出される利潤は「Aが経営者の場合」>「Bが経営者の場合」となる。

→ゆえに原初的所有において「ノージック的但し書き」は論拠になりえない。

 

 

第5節

・さらにロック的但し書き以前に、「原初的所有において外的資源が自己所有権に帰属される」というそもそもの想定が誤りである可能性もある。

→同じ水準から「原初的所有において外的資源は共有物であった」と主張することも可能であるはずである。その場合、各人はノージックの権原理論よりもロールズの格差原理を支持することになるだろう。

 

 

第6節

・2章-2節dで確認されたように、リバタリアニズムは私有財産と自由を混同する傾向にある。

→ノージックからすれば外的資源の配分に対して国家が「介入」することは一種のパターナリズムであり、ゆえに自己所有権を否定している。

→しかし、「ノージック的但し書き」に従えば、Bの自発的意思は無視され、Aへの従属の強制によって配分が規定されていることになるため、結局ノージックもパターナリズムに陥っていることになる。

 

 

 

 

【メモと批判】

・読了&まとめの所要時間約10分。キムリッカが超わかりやすく本章をまとめていた(『現代政治理論』第二節A 2「ロック的但し書き」)おかげである(コーエンは見習えよ。キムリッカは弟子だろおい。)

 

・一応キムリッカ風に定式化しとくと、

原初的所得の議論は以下の三点から自己所有権を正当化できない。

(a-1)物質的な福祉―本章6節(Bの意志の無視/パターナリズム)

(a-2)選択肢の恣意的決定―本章2-4節(合理的選択可能性の無視)

→「ノージック的但し書き」の否定

(b)世界の原初的取得―本章5節(原初的世界が共有地だった可能性の無視)

 

・ちなみにキムリッカが上記(a1-2)でエイミーとベン(Amy&Ben)という登場人物を出していたのは、師事したコーエンによるAとBの登場人物名に由来すると思われる(クソどうでもいいけど)。

 

 

第4章 自由と平等は両立するか p.131~163

Ⅰはじめに

第1節

・前章1節で確認したように

・自己所有権から「外的資源に対する権原」を正当化する場合、

①原初的世界における世界的所有権の不平等を正当化し、自己所有権の根拠とする

②次に自己所有権の観点から経済的-社会的不平等を正当化し、リベラルなどによる平等的配分原理を退ける

→前章ではこのうち①の反駁が行われたのだった。

・本章では②に焦点を移し、「外的資源に対する権原」に対して、実は自己所有権(自由)/平等的配分原理(平等)がノージックのいうほど対立しないということが明らかにされる(よって前章で確認した自己所有権の論拠が不当である事実は留保される)。

(【メモ】ちなみにコーエンの立場としては、

①自己所有権を認めている上で、

ノージックに賛成/ロールズ-ドウォーキンに反対

②平等的配分原理を認めていうる上で、

ノージックに反対/ロールズ-ドウォーキンに賛成)

 

 

Ⅱ集団所有下のおける能力と非能力の応じた報酬

第2節

※以下からは、ノージックの体制と本節-6節で明かされる「集団所有体制」、7節-9節で明らかにされる「スタイナー体制」が対比され、自己所有権と平等的分配についての両立可能性についての議論が展開される。

 

[集団所有体制]

・エイブル(有能者)/インファーム(虚弱者)という二つの階層が集団所有モデルにおいて生活している。両者と外的資源の関係性は以下のような段階から整理される。

①エイブルは自分の才能ゆえに必要分以上を自分で生産(これをpとする)できる。

②インファームも生産(これをqとする)に加わると、虚弱者ゆえに効率は悪いが(ゆえにp>q)、結果的に(p+q)は両者にとっての必要分を超える。

③このとき、(p+q)の配分を巡って、エイブル/インファームはなにかしらのパタン付き分配原理を決定する。

→よって、ノージックのいう「先天的資質に対する権原」としての自己所有権を認めても(①エイブルの才能)/結果的にパタン付き分配原理が両者に合意される(③(p+q)の配分をめぐる)

 

 

第3節

・さらに第2節のモデルは自己所有権が「個人の資質」ではなく「外的資源」に適用された場合でも通用する。

・「集合農民」は全ての土地を集団で所有する/「複合農民」はそれぞれ各人が異なるサイズの土地を私的に所有しており、それとはまた別に集団で所有する土地も有する。

→ノージックの仮定が正しければ私的所有と集団所有は両立しないが、「複合農民」においては成立している(「複合農民」のモデルはエイブル/インファームに依拠している)。

 

 

第4節

・第2-3節によって、自己所有権と(平等的配分原理としての)集団所有が両立するかもしれないということが示された。しかし、集団所有と自己所有権の間には深い溝が横たわっている。

→つまり、あらゆる資財(資質&外的資源)が集団所有されているとしたら、実質的には自己所有権が否定されていることになる(なぜある財の利用に他者の許可が必要な世界で自己所有権など認められようか)

→集団所有体制下にては、実質的自己所有権の否定/形式的自己所有権の肯定がされていると定式化することもできる。

 

 

第5節

・第4節の集団所有/自己所有権の批判に対してさらに、形式的自己所有権の観点から批判を試みることもできるかもしれない。

→しかし究極的には、形式的自己所有権が適用されるのは「自己を死ぬがままにする権利」という極めて限定的な範囲においてであり、事実上はやはり否定されている。

 

 

第6節

・ここで一旦本章の目的に立ち返ってみよう。ここでは、自己所有権(自由)/平等的配分原理(平等)が「ノージックが言うほど」対立しない、ということが示されればよかった。

→つまり両者が両立することではなく、ノージックの主張の反証さえ示されればよい。

 

・形式的自己所有権はかなりおそらく実質的自己所有権を推進するノージックにとって限定的である。しかしながら、ノージックはノージックで形式的自己所有権を部分的に認めざるを得ない。

→「随意的交換」(『アナーキー』第7章-8節)は、本書第2章-8節で反駁されたように、「Zが資本家に従属し、労働が強制されること」を否定しない。このとき、Zは実質的自己所有権を(少なくとも集団所有体制下と同等程度に)否定されている。

・ゆえにノージックの議論からは形式的自己所有権を否定することができない。

 

 

Ⅲスタイナー体制

第7-8節

・次に第3の体制であるスタイナー体制について考える。コーエン曰くこれが最も自己所有権と平等的配分原理を両立している理想系である。

・スタイナー体制とはドウォーキンが自身の「オークション体制」の正当性を主張する際、比較対象の一つとして取り上げ、捨象したモデルである。

→オークション体制は自己所有権に関わる財(資質/外的資源)を初期段階で分配するのに対し/スタイナー体制は外的資源のみを初期段階で分配してしまう。

また、

・集合所有体制が外的財の生産後に分配をしたのに対し/スタイナー体制は外的財の生産前に分配を行う点で異なっている(平等分割的である)

→平等分割体制においては、チェンバレンやイチローのような天才と凡人である我々に、その資質関係なしに外的資源の分配が行われる。

→このように往々にして平等分割が(資質の不平等を無視している点で)資本主義的不平等を生み出してしまうのに対して(ノージック寄り)/スタイナー体制は厳格な外的資源の統制を通してそれを防ぐ。

 

 

Ⅳドゥオーキンのスタイナーに対する評価

第9節

・ローマーはドウォーキンのオークション体制やスタイナー体制の関係性を整理し、以下の表にまとめている。

 

厚生平等主義

資源平等主義

資質に関する

包括的厚生平等主義(ドウォーキンのオークション)

包括的資源平等主義(ドウォーキンンのオークション)

外的資源に関する

包括的厚生平等主義(ローマーのクーポン資本主義)

部分的資源平等主義(スタイナー体制)

→ドウォーキンがこのうち否定的なのは下二つであり、それを「スターティング-ゲート理論」(【メモ】たぶん最初の段階startで平等分割gateがされて終わりだからこの名前)と呼んで批判している。

・確かに、スタイナー体制は「最初の外的資源の分配」にしか注目しないため、自由放任的かもしれない。

→厳格な外的資源への統制を図れば、資質による資本主義的な不平等は解決される(チェンバレンやイチローには外的資源が少なく分配される)はずなので、ドウォーキンによる捨象は不当である。

 

 

第10節

・「自己所有権の保障」というリバタリアン的自由と「平等的分配原理の実現」というリベラル的平等は往々にして対立図式の中に置かれてきた。

→ノージックはパタン付き配分として後者を切り捨て、ロールズは「公正としての正義」の観点から、ドウォーキンは「資質を反映する」として前者の自己所有権を批判した。

・しかし、ノージック、ロールズは自己所有権が「資質/外的資源」に区別されるということに大きな関心を払っておらず、ドウォーキンはその区別の仕方を誤っていた。

→ゆえに外的資源の管理を徹底すれば、自己所有権と平等的配分原理は十分両立可能である。

 

 

【メモと批判】

・コーエンいいこと言ってるようで、これもうリベラルじゃねーか。リベラルとリバタリアンの折衷案を探った結果、ドウォーキン(のオークション)から「資質」の配分だけ抜いたやつ(スタイナー体制)に落ち着きましたって納得できるかボケ。

 

・あとコーエン/ドウォーキン共にだけど、個人の「資質」ってお前らどうやって測量するつもりなの?

①自己所有権に資質/外的資源が含まれるのはわかる

②そこから資質の要素を初期分配から抜きます/資質の要素も初期分配に含めます

→資質というものは測量できない変数なのに、スタイナーなら抜く時点で/オークションなら初期分配する時点で測量する必要が生じる。ゆえに両者とも現実的には不可能。

→どうしてチェンバレンの能力は配分対象になって、ナッシュの能力は配分対象にならないの問題(資質は比較できないよ問題)

 

 

◇第5章 自己所有権・共産主義・平等 p.165~202

Ⅰ自己所有権

第1節

・リバタリアニズムは一般に右派の思想であるように思えるが、前章で確認されたとおり、平等主義的配分原理と十分に自己所有権は両立可能であった。

→両立的立場を以下では「左派的リバタリアニズム」と呼ぶ。

・ロールズ-ドウォーキンのリベラリズムは自己所有権を「恣意的であるために道徳的に不同な配分」を生み出すと(考え、格差原理やオークション的体制を提示)した。

→リベラルはこのように自己所有権を否定できたが、他方でマルキシズムは完全に自己所有権を否定できていない。

・本章ではこの問題を

①マルキシズムは左派的リバタリアニズムと同様に自己所有権から平等的分配原理を訴える(2節)

②マルキシズムが共産主義における平等的分配を自然財の希少性の解消(技術的解決)に由来すると考えたこと(3節―)

の二つの論拠から考察する。

 

 

第2節

[①マルキシズムと左派的リベラリズムの自己所有権]

・リベラルが恣意性を根拠に社会的-経済的不平等の解消を訴えたのに対し/マルキシズムは「労働者は不当に搾取されているから」(剰余価値の議論)ということを根拠に平等的配分原理の必要性を訴える。

→これは原初所得における自己所有権のうち①資質における不平等を肯定し②外的資源の不平等を否定している点において「左派的リバタリアニズム」に近い論拠である。

・ゆえにマルキシズムは自己所有権を否定し損ねている/資質における自己所有権は少なくとも肯定している。

 

 

Ⅱ共産主義

第3節

[②共産主義における財の希少性の解消]

・マルキシズムは1章で確認したように、単に財を集団所有しているだけの社会主義から、共産主義に移る段階で技術革命によって「外的資源の希少性が解消される」と想定している。この想定によってマルキシズムは自己所有権を否定し損ねることになる。

→社会主義は財を「不完全に」集団所有する社会(劣位)/共産主義は財の希少性が解消され「完全に」集団所有が達成された社会(優位)

 

 

Ⅲ平等

第4節

・マルキシズムが平等的配分原理を訴える際に使用するだろう論拠は以下の3点に区別される。

①共産主義体制における財の希少性の解消/技術革新の達成

→利害関係の完全な解消(反証される)

②高い水準の物質的豊かさ

→利害関係の部分的解消/成員の自発的社会的協働(推薦される)

③低い水準の物質的豊かさ

→利害関係の未解消/動機の社会化による成員の社会的協働(反証される)

 

・まず①は明らかに不当である。今日の世界規模のエコロジー危機を鑑みるに、技術革新どころかますます財の希少性は高まり、エネルギーは欠乏していくだろう。マルクスは楽観的過ぎたのである。

・次に②は正当である。完全な希少性の解消/ゆえに利害関係の解消はユートピア的であるが、部分的にでも利害関係が解消されれば、少なくとも社会全体に強制力を伴わない平等主義的配分が可能である/各人は自発的に社会的協働に参画してくれるはずである。

・③の低い水準の物質的豊かさでは(利害関係が解消されないゆえに)成員に「動機の社会化によって」社会的協働が求められることになるが、これは自己所有権を否定しない。確かに②は③よりも楽観的であるが、①ほどユートピア的ではないため、②がやはり妥当である。

(【メモ】おいおいお……。ここに来てコーエンがロールズ「公正な協働システムとしての社会」の主張(の6つめの基本観念の「公共的理性→社会的協働」)しつつあるんだけどどうしてあげたらいいの。分マル/リベラルの境界線が見えないわ。)

 

 

第5節

・②の自発的協働は自己所有権を退けつつ/平等的分配原理の実現に成功している(【メモ】そりゃそうだろ。正義に訴えていないだけでロールズの格差原理とほぼ同じだもん。)。

→平等的分配原理に反した者に対する「罰則の強制」は不当であるかのように左派リバタリアンやマルキシストの目には映るだろう。

→しかし、寛容の精神(③動機の社会化)に頼るだけでは弱者の救済は不可能であり、ゆえに「罰則の強制」は正当化される。

 

 

第6節

・マルクスはそもそも「①財の希少性の解消/技術革新の達成」―共産主義というユートピアを楽観的に夢想したのだろうか。

→おそらく労働者の救済というマルクスの至上目的において、自己所有権が不可避の問題系として立ちはだかったからであり、それを超克するためには「財の希少性の解消」という切り札(いわゆるデウス・エクス・マキナ)を半ば不当なまでに使うしかなかったからと予想される。

 

 

第7節

・「③動機の社会化」は確かに個人主義を退け「社会的個人」の完成によって、平等主義的原理を達成することが可能である。

→しかし、こうした社会はおそらく全体主義的-完成主義的であり、解消されることになる利害関係の対立以上の問題を抱えることになるように思われる(第9節で再訪)

 

 

第8節

・ここまでの議論を簡単にサムナーが作った図式に依拠して整理する。

[強制のない平等は以下の理由から達成可能である]

(Ⅰ)利害関係の対立が

→①財の希少性の解決によって(マルクス本人)/③動機の社会化によって(マルクス主義者)   解消されるから

(Ⅱ)自発的社会的協働が

→②ある程度の財の豊かさによって  達成されるから

→そして(Ⅰ)の立場は自己所有権を肯定し/(Ⅱ)の立場は自己所有権を退けられている。

・前節で問題になっていたのは(Ⅰ)-③である

 

 

第9節

・③動機の社会化は確かに「社会的個人」という語句を使うが、混同されがちなのは社会間の対立は解消されるが/個人間の対立は解消されていないということである。

→ゆえに自己所有権が否定されていないため、社会は同じ方向に進もうとするが、資質に基づく分配の差異は生じることになる。

 

第10節

・マルクスの平等的分配的原理は正義を「超えているのか」と問うことは有用である。

→ヒュームによれば、

①財の希少性が解消される場合―正義は不必要となる(財が豊かなら正義に訴えなくてもよい)/③動機が社会化される場合―正義は不可能となる(愛などに代替される)

という。

→ゆえにマルクスの平等的分配原理がどちらのものであっても正義を「超えている」ということができる。

 

 

【メモと批判】

・ちょいこの章は規範理論全体に関わるかなり重要な議論なので丁寧にメモるよ。

・まず大まかに三つの立場が登場しているので表にしてみた。

立場\自己所有権

資質の不平等を

外的資源の不平等を

(ⅰ)リベラル

分析的マルキシズム

否定

否定

リバタリアン

肯定

肯定

(ⅱ)左派リバタリアン

伝統的マルキシズム

肯定

否定

 

・そんで本章の中心的問題はⅱを明らかにすること(つまり伝統的マルキシズムがリバタリアンと区別できない→自己所有権を肯定している)だった。

→それで3-9節の「①自然財の希少性の解消」/「③動機の社会化」から論証した(本当は(2節「労働者顧慮の至上主義」も言及されているけどそれはまあいいや)

・思うに、「③動機の社会化」を推す立場にコミュニタリアンを加えてもいいのではないか。

→ここで問題化されていたのは、つまるところ共同体-共通善信仰であり、ヒュームの「正義が不可能になる」という説とも合致する(ロールズは、包括的教説の乱立は「穏当な多元性の事実」として、政治的道徳としての正義と両立可能であるというが、サンデルらが批判しているように、政治的/非政治的を区別するのは「負荷なき自己」ゆえに不可能であり、ロールズの弁解である「政治的リベラリズム」も歯切れが悪い)。

→じゃあコミュニタリアンが「資質を肯定し/外的資源を否定する」かといえばそうでもないんだけどねー(図に入れれないんだけどねー)

 

 

・中心的課題になってはいないけど重要なのがⅰのリベラル/分析的マルキシズムの区別について。

→リベラルは「恣意性」と「最も恵まれない人の平等な顧慮(格差原理)」によって/分析的マルキシズムは「ある程度の自然財の希少性の解消」によって「平等的分配原理の採用∧自己所有権の否定」を主張する。

→しかし、結果的に着地点は同じであり、確かキムリッカも指摘していたようにアプローチとしてもほぼ大差ないんだよねローマーとかアネーソンとかパージスとか。だからもう素直にコーエンはリベラル自称すればよかったと思う。その点弟子のキムリッカは懸命だよー。

 

 

 

 

 

 

第6章 マルクス主義と現代の政治学 p.203~232

 

第1節

・本章の課題は、伝統的マルキシズムに対して分析的マルキシズムがなぜ規範や正義の問題に取り組むようになったかということを明らかにし、かつマルキシズムがリバタリアニズムに対して抱える困難性ついて考察することである。

 

 

第2節

・伝統的マルキシストは「搾取」を「資本家による労働の剰余価値の盗取」と考えてきた。

→おそらく、コーエンの解釈によれば、根底には「資本家による労働者の労働時間の侵害」という直観に依拠した主張であるという。

・マルクスは封建制における農奴/領主における関係性を、資本主義における労働者/資本家の関係性に置き換えて搾取を強調した。

→しかし前者では、形式的な離脱すら認められていないのに対し、後者では形式的には労働からの離脱が認められる点において決定的に異なっている。

→ゆえに伝統的マルキシズムは労働者の形式的離脱―形式的自己所有権を暗黙裡に認めており、これは労働者のみに限定されるものではないため、少なくともマルキシズムは(リバタリアニズムと同様に)自己所有権原理に基づいているといえる。

・マルクスは①労働者は労働報酬に対して正当な獲得権限を持つ(自己所有権の肯定②労働力に対する労働者の権利は侵害されていない(自己所有権の否定)という二つの想定によって明らかに矛盾が生じている。

 

 

第3節

・ここまでを整理すると、

①伝統的マルキシズムは自己所有権原理の上に立脚している。

②マルキシズムを労働時間の取得を不正とするパタン付き配分原理と一般的に解するならば、自己所有権原理が不可欠である。                        

 

・ここでは②の確認のために「資本家が生産手段の所有によって生産時間と生産財(の剰余価値)すること」-搾取は不当であるという主張を以下の例から検討する。

Ex)陽気な労働者と病弱な資本家

・陽気な労働者は、病弱だがわずかながら生産手段を有している資本家のもとで労働している。労働者が冷淡にも労働から離脱すれば、資本家はおそらく死んでしまう。

→このとき、陽気な労働者と病弱な資本家の関係性はマルキシストのいう搾取の例に漏れない。なぜなら労働者の「生産財と労働時間」という自己所有権が侵害されているからである。                      

→マルキシストが自己所有権を肯定しているという事実は、このような搾取の過剰な一般化をもたらしてしまう。

 

 

第4節

・リバタリアンは自己所有原理を反動的に利用し資本主義体制の妥当性を訴える。

→これに対してマルキシズムは反駁を試みなければならないのにもかかわらず、自己所有権を暗黙裡に肯定しているがゆえに、(自己所有権を否定する)リベラルよりも遥かに困難な場所に立たされていることになる。

 

 

第5節

・次にコーエンの主張に対して予想される二つの反論について考察する。

→一つはマルクス主義者の政治的活動(本節)、もう一つは共産主義的な未来の描写(次節)についてである

 

[マルクス主義者の政治的活動]

・恐慌時代アメリカの有名な詩『相棒よ、10セントくれないか』に見られるように、「労働者は自身の生産物に正当な権限を有する」という感覚は当時の社会で一般的だった。

・しかし、昨今のイギリス労働党などで顕著であるように、社会階層の多元化-多様化によって、もはや労働者/資本家という二項対立の想定は困難になっており、ゆえにマルキシズムは労働者ではなく、社会的弱者の集合体に自己所有権の原理を求めるようになった。              

 

 

第6節

[共産主義的な未来の描写]

・共産主義における分配原理「各人からはその能力に応じて、各人へはその必要に応じて」と自己所有権は相容れないという反論―共産主義的反論がなされる。

→①本章では単に「マルキシズムが自己所有権を肯定している」(ザイン)ことを述べているだけであり、「マルキシズムが自己所有権を否定すべきだ」(ゾルレン)を主張していないため、別に相容れなくともかまわない

→さらに共産主義的反論は、コーエンの応答が自己所有権を内在的に用いている点で対人論的な説得論法でしかないとして退ける

→②事実、なんども確認しているよう共産主義は自己所有権を内在的に(暗黙裡に)用いている。

 

 

第7節

・もし分析的マルキシズムが伝統的マルキシズムと完全に分断されていたと想定すると、おそらく分析的マルキシズムの多くはロールズやドウォーキンなどのリベラリストになっていたと考えられる。

→むしろリベラルはマルキシズムを介さずに平等的分配原理の正当性を主張しているがゆえに、自己所有権の問題を理論の初期段階で回避することが可能だった/分析的マルキシズムはそれが出来なかったがゆえにリバタリアニズムに悩まされることになった

 

 

第8節

・マルキシズムが糾弾する「労働者の搾取の問題」をeとし、「自己所有権原理」をsとすると、マルキシストはeの正当性を主張するためにsに依拠しなければならないが/資本主義下におけるsの利用を反駁するためにeを訴えないといけない というトートロジーに陥っている。

→先述の通りリベラルではeが問題化されないため、故にsも回避される。事実、分析的マルキシズムに比べると、ロールズやドウォーキンによるリバタリアンへの批判の回答は淡白なものとなっている。

 

 

【メモ】

・この章いらなくね?5章だけで事足りているように思えるぞなもし。でもまあ理解はしやすかったし、ロールズのノージックに対する塩対応っぷりも納得できたよ。

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