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イヴァン・イリイチ  1971→1977 『脱学校の社会』

 

1,なぜ学校を廃止しなければならないのか p.13-57

「過程と目的の区別が曖昧になると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつかは成功するとかいった論理である」p.13

→「学校化(schooled)」:教授/学習、進級/修学、免状/能力獲得などの混同の源泉

 

「健康、学習、独立、創造といった価値は、これらの制度の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。」pp.13-14

○このように学校化の議論は社会保障/社会状況の改善、警備/安全、武力の均衡/安全保障、などなどの一般的な社会的サービスとその結果の混同にまで拡張される。

○「価値の制度化(value systematization)」:p.56の注釈によれば制度化はパーソンズの役割の議論から引っ張ってこられているもので、特定の制度が特定の価値(教授=学習等)を直截担うことへの期待が、諸個人に内面化される過程であるといえる。

→これによって①物質的な環境汚染、②社会の分極化、③人々の心理的不能化がもたらされる。

 

「私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連付けてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的課題を提起したい。そのための理論的モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選らんだ。」 p.15

→学校の潜在的カリキュラム※の分析を通して、社会の脱学校化(disschooling)は公教育にとってプラスになること、さらに家庭、政治、安全保障、信仰、コミュニケーションも同じ過程になることを本書で示す。

※ここでは「潜在的カリキュラム」と翻訳されているが、おそらく「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」のことだと思われる。

 

「[…]近代化された貧困とは、状況に影響を与える力の欠如と、個人としての潜在能力の喪失とを結合したものである。貧困の近代化は世界的な現象であり、現在の人々の潜在能力を未開発のままにしておく根本的な原因となっている。もちろん、富裕な国と貧困の国とでは、そのあらわれる姿は異なっている。」 p.17

○たとえばアメリカのような貧困が社会保障の対象になっている国家(近代化された貧困)においては、その「面倒見のよい」サービスによって、貧困層が自分たちの生活を組織立てて行く能力をますます喪失していくことになる。

→教育的格差も学校教育への依存度が高い貧困層が不利であるということに起因している。また貧困国もこうした事情を抱えているが、貧困が近代化されていない点では裕福な国よりも根の深い問題ではない。

 

「義務就学を行えば社会は必然的に分極化される。また世界的にみても、義務就学を目安にした国際的な序列付けにしたがって、世界の国々の等級付けが行われる。つまり国々がインドのカーストのように等級付けられるのであるが、その序列の教育上の威厳はその国の国民の平均就学年限によって決められる。[…]学校についての逆説は明らかである。つまり学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校の持つ破壊性を強化する。この逆説は公に問題にされなければならない。」 p.22

○義務就業化のイデオロギーは新たな教育的価値を産出し、それがさらに新たな教育制度を期待させるという堂々巡りに陥っており、これが経済的にとんでもない費用がかかるということや、上述の通り、社会の分極化や知的な無気力を生み出すことが気付かれなければならない。

→ただしこれは教育機会の平等化と同義ではない。

「資格と履歴の結びつきを断ち切るためには、政治団体への加入、協会への出席、血統、性的習慣あるいは人種的背景についての調査が禁止されているのと同じように、個人の学歴調査が禁止されなければならない。また学歴に基づく差別を禁止する法律を制定しなければならない。」 p.32

○また学校の廃止を効果的にするためには、就職や選挙、学習センターへの入社する際に、その人のこれまでの教育的カリキュラムに基づく差別をやめることが求められる。

 

「学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるに過ぎない。」 p.32

○本来的に知識の多くは学外の活動で獲得されているはずであるのにもかかわらず、特に知識が多い人ほど、自分の知識が教授に依拠するものであると考えがちである。

→現在では評判が悪いが、熱意のある人間にとっては、知識を反復して覚える反復学習(drill teaching)の方が有用であり、コストの面から考えても脱学校化を進めていく上で、この学習法は有効であると考えられる。

「社会を脱学校化するということは、学習の本質に二つの側面があることを認めることを意味している。技能の反復練習だけを主張するのならば、不幸を招くだろう。学習のほかの側面にも同じように重点を置かなければならない。しかし、もしも学校が技能を学ぶにふさわしくない場所であるならば、教育を受けるにはもっとふさわしくない場所なのである。」p.40

○反復練習だけでは技能的知識を獲得することはできないが、かといって学校教育が必要であるということにもならない。学校教育は無駄な過程(数学をもっと進めるためには、歴史の授業をもう少し進める必要があるなど)を多く経由しているため、反復学習にも技能知識にも適していない。

→これに対して、習得した技能を探求的かつ開放的に使えるような教育環境を「自由教育(liberal education)」と呼ぶことにする。この自由教育を行うことが現行の学校教育制度では困難であるといえる。

 

○またこうした自由教育を推し進める場合、学習者の周囲には同様の言語や問題で悩んでいる仲間が不可欠である。

→具体的に以下のような方法がありえるだろう。

「同じタイトルへの関心を元に人々を出会わせることは、まったく単純なことである。それは、第三者が記述したものについて議論をしたいというお互いの望みだけをもとにコンピューターで誰であるかという確認をする作業を許すのであって、会合を取り決めるイニシアティブは個々人にまかせておくのである。」 p.45

→これに対して以下のような反論が想定できる。

①なぜ「観念」や「問題」でなく、その「タイトル」が引き合わせる際に参照されるのか?

→前者の主観的なものであってもコンピューターによって解析することは可能であるかもしれないが、これらがカリキュラムの中で取り扱われるものである以上は、やはりどこかに権威者の存在が想定されなければならない。そうではなく、2人の仲間が形式的なタイトルによって出会い、そこから見解を深めていくことが重要なのである。

 

②なぜ引き合わせる際、年齢、背景、能力、経験といった当事者の特性を明かさないのか?

→制限を設けることにも妥当性が認められるが、他方でこうした特性を加味して第三者が「テキストを読めないだろう」といった判定を下すのは、学習者に対する侮蔑に他ならず、ちょうどそれは「読めないテキスト」に学習者が出会うのを避ける教育者のようなものである。

 

③なぜ会合を簡易にする付随的な援助を設けないのか?

→これは現に学校が非能率性の中でやっていることである。またレストランや百貨店などにおける偶発的な会合が起きることによって、それらの従来的サービスが新たな可能性を見つけるかもしれない。

 

「技能の交換も、仲間を出会わせることも、ともに次のことを前提としている。すべての人に教育を与えるということは、すべての人による教育を意味するということである。人々を教育を専門とする制度に強制的に収容することではなく、すべての人を教育的に活動させることのみが国民文化の形成に通じることができる。学習する能力だけでなく名人に教える能力をも行使するという各人に平等な権利は、現状では免状を持った教師に占有されている。[…]

学校化された社会(schooled society)に根本的に取って代わるものは、単位技能を正式に習得するための正式の新構築を求め、また技能の教育的使用を要求するだけではない。脱学校化された社会(deschooled society)は、偶発的な教育あるいは非形式的な教育への新しいアプローチでもある。」 p.49

 

 

 

2,学校の現象学 p.58-72

「言葉の中には、あまりにも融通がききすぎて、役に立たなくなってしまっているものがある。「学校」や「教える」は、そのような言葉である。」 p.58

○教育について学校という言葉に代わるものを模索したいが、そのためには「学校」といった語の定義を確定しておく必要がある。

→様々なアプローチがあるが多くの場合は学校-教育の関係を前提化しなければならないため、「教育」という単語を用いずにこれを考察するために、以下の「学校」の定義と共に「公立学校の現象学」という概念を用いる。

「私は「学校」を、特定の年齢層を対象として、履修を義務付けられたカリキュラムへのラフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程と定義する。」 p.59

 

1 年齢

「学校は人々を年齢に応じて、集団に分類する。この分類は三つの当然視されている前提に基づいている。その前提とは、子供は学校に所属する、子供は学校で学習する、子供は学校でのみ教えられることができるというものである。」 p.59

○これは決して自明のことではなく、そもそも子供時代という区別自体が産業革命以降の近代において成立したものである。※アリエスっぽい

ex)第二次ヴァチカン公会議(1962~1965)まではキリスト教徒は7歳になれば道徳的判断が可能であると見なされ、自由に行動できる年齢に達したとされていた。

→学習の年齢制限をなくすことによって、「子供時代」は消失し、豊かな国の若者は解放、貧しい国の若者は無理に子供時代を与えられなくても済む。

 

 

2 教師と生徒

「われわれが知っていることの大部分は、われわれが学校の外で学習したものである。生徒は、教師がいなくても、否、しばしば教師がいるときでさえも、大部分の学習を独力で行うのである。大変悲劇的なことには、大多数の人々は、全然学校に通わないのに、やはり学校によってあることを教えられることになるのである。」 p.64

○教育学の成果として、子供たちは教師が教えることの大部分を、仲間集団との遊びや漫画や、偶然観察したこと、なにより学校の儀礼に参加しただけのことから学びとり、学習の時間などはそれを妨げるだけに過ぎない。

○また貧しい国の学校に行ったことがない人々は、学校に行っていないことに劣等感を抱き、より学習すべきであると考えてしまう。

 

 

3 フルタイムの通学

「[…]しかし、もちろん、教師は学習を奨励することのほかに多くのことをするのである。学校の制度から得た分別によって、両親、生徒、および教育学者は、教師がもしも教えるという役目をもつべきものならば、彼の権威を神聖な構内で行使しなければならないと思っている。このことは、生徒たちが大部分の時間を学級間に壁のない状態ですごすような学校の教師についてさえも、真実なのである」 pp.66-67

→こうした性質から、教師は以下の3つの役割において、それぞれ異なる要求を果たす。

①「保護者としての教師」

→長い迷路のような儀礼に子供たちを導き、ルールの遵守をめぐる闘争に対して、典礼法規を執行する。

②「道徳家としての教師」

→両親、神、国家を代替し、正誤の教化を行う。子供たちが互いに同じ国家の成員であるということを自覚させる。

③「治療者としての教師」

→子供の成長を助けるために、個人的生活にまで入り込み、上記の2つと合わさることによって、教師の教化に従うよう生徒を説得する。

 

「子供をフルタイムの生徒と定義することにより、教師は学校以外の社会的に隔離された他の制度の監視者が持っている権力よりもはるかに憲法上の制限を受けない権力を、生徒に対して行使することを許される。子供たちはまだその年齢には達してはいないということで、現代の各種収容所――精神病院、修道院あるいは刑務所――の中で大人にとっては慣例となっている保護条項の適用を受ける資格を奪われている。」 p.69

○上記の3つの教師による要求は、子供にとってある意味では憲法法規などよりもはるかに拘束力がある権力として機能し、また上述のように年齢的制限があるため逃げ場があるわけでもない。

○しかし学校の子供たちを日常から隔離してしまう支配構造を抜きにしても、学校は抑圧的で破壊的である。

→脱学校化の議論と併せて、学校が学校である以上不可避なかたちで孕む「潜在的なカリキュラム」に焦点を当てて次章からは考察していく。

 

 

 

3,進歩の儀礼化 p.73~102

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