Nozick,Robert 1974 『アナーキー・国家・ユートピア』
『アナーキー・国家・ユートピア』 1974→1998 R・ノージック
※但し書き
第一部はリバタリアニズムの観点から、「犯罪行為と契約行為のみ公権力によって制約される」最小国家の正当化が行われる。ここでは原理的なアナーキズムに対し、ミナキズムこそが理想であることが述べられる(アナルコキャピタリズム/ミナルコキャピタリズム)。
→しかし、他の政治哲学(主にリベラリズムとマルキシズム)の関係性において重要なのは第二部での議論(拡張国家の否定)であり(分析的マルキシズムのコーエンも第二部での議論に焦点を絞っているし、キムリッカがピックアップしていたのも第二部だった)、今回の要約は第二部以降に限定する。というか厚い。
第二部 最小国家を超えて?
◇第七章 配分的正義 p.253~382
<その1> p.255~306
1,権原理論
・ミナキズム以外における他のいかなる配分的正義も不当であるということを示すために、まず唯一正当である配分的正義原理―権原理論を提示する。
①獲得原理――各人のある財の正当な占有を認める
②移転原理――各人のある財の正当な移転を認める
③矯正原理――各人の占有-移転が不正(暴力的行為、詐欺、恐喝など)によるものである場合、それは矯正される
→よって権原による正義原理は「もし、個人の財の保有が、(獲得原理-移転原理に依存する)矯正原理に反しない場合、それは正当である。もし、各個人の財の保有が正当である場合、全体の配分は正しい(正義である)」となる。
2,歴史原理と結果状態原理
①歴史原理――権原原理のように、各人の過去の行為に焦点を当てて配分を決定する配分原理。
②結果状態原理――現時点での配分における構造的輪郭に焦点を当てる原理。
→A/Bはそれぞれp(構造的輪郭)の配分10を有する。このときAが殺人によって、Bが労働によって財を獲得していようとも構造的輪郭は共にpなので配分は等価と見なされる。
・よって過去の事実に注目できない結果状態原理は不当である。
3,パタン化
・さらに①歴史原理は1節の
ⅰ)権原原理(正義) と
ⅱ)パタン付き原理(非正義)に区別される。
→パタン付き原理――配分に関して「道徳的功績に応じて」「社会的貢献度に応じて」等の範型(パタン)を付加させる原理。多くの配分原理はこのパタンの変数の組み合わせによって規定されている(社会的不平等に応じて、先天的不平等に応じて等)
→こうした限界生産物理論は特別な諸関係へ説明を与えることが出来ない
・ハイエクは資本主義社会におけるパタン付き原理を否定しつつ、「他人に与えた利益に応じた」配分が正当であるという「パタン付き」原理を提示する。
→しかし、「他人に与えた利益に応じて」という「パタン」は(道徳的功績や社会的貢献度などとは異なり)恣意的ではないため、権原原理に反せず/移転原理に適っており、よって正当である(他のパタン付き原理とも区別される)。
→とりあえず獲得原理と矯正原理を無視して移転原理のみを要約するなら、「各人はその選択に応じて、各人へは(他人から)選択を受けるに応じて(配分が決定される)」となる。
4,いかにして自由がパタンを崩壊させるか
・自由な配分においてパタン付き原理は不必要になる
Ex)ウィルト-チェンバレンの正当な報酬(権原理論)
・ウィルト-チェンバレンはプロバスケットボーラーで、一試合に出場ごとに20万ドル稼ぐ。これは観客の誰の収入よりも遥かに高額である。
・観客のパタン付き配分D1を、チェンバレンの収入をD2とする。
・D1が各人の公正な選択によって移転されたとき(2;移転原理)、チェンバレンのD2もまた正当である(1;獲得原理)。ここに不正はない(3;矯正原理)。
→D1がパタン付きであっても、D2の段階で権原理論が達成されれば、D1は崩壊する。
→私有財産の自発的使用によってパタン付き原理は妨害される
・社会主義体制においては、各人のD1が国家によって統制されているため、チェンバレンはD2を獲得することが出来なくなる。
→パタン化のためには個人の活動と選択に不断の介入が必要となる
5,センの議論
・功利主義では効用の最大化の観点からパタン付き原理が正当化されている(効用の最大化に応じて配分される)
→しかし、諸個人の選好は単線形ではなく、複線形を描くためこの場合もパタン付き原理は不当である。
Ex)センの選択可能性(capability)
・Aは選好X-Y間の判定を、Bは選好 Z-W間の判定をするものと考える。
・AはW、X、Y、Zの順で、BはY、Z、W、Xの順で選好する。
・社会的序列付けとしてはW、X、Y、Zの順で選好される。
→このとき、Aの選好と社会的序列付けを組み合わせるとW、X、Y、Zが社会的序列付けとなる/Bの選好と社会的序列付けを組み合わせるとZ、W、X、Yとなる
・つまりAとBの選好が相容れないため複線形なる
→ある配分がパタン付き原理に基づくものであるとき、あるパタン(例えば道徳的功績)が別のあるパタン(例えば社会的貢献度)に優位である論拠は示せない-単線形を描かない。
→パタン化のためには個人の活動と選択に不断の介入が必要となる(2回目)
6,再配分と所有権
・家族という共同体における善がパタン-範型となるとき、社会的配分に二律背反が生じる。
→p家族における(善としての)愛は他の社会的関係にも広がるべき理想的関係である
/q家族における愛は特殊性に還元されないためその関係性において単独的なものである
→「p自分の子どもでもない相手」に「q子どもと同じように」配分を決定することが出来るのか(pとq間で二律背反が生じている)
(【メモ】この問題はリベラル-コミュニタリアン論争における「正義か共通善か」問題と相似形であるよう思える。コミュニタリアンのいうように正に対して善の優位性が決定できないならば、包括的教説としての愛が正義にパタンとして優先されてもよいだろう)
・パタン付き配分原理を支持する者は、配分の「受け手」にしか注目しない傾向にある。
→社会的に不平等を被っているか、先天的不平等を抱えているか、など
→「送り手」―生産者の権原は見落とされがちである。
→こうしたパタン付き配分原理は必然的に再分配を志向するが、再配分は「送り手」の権原を無視して強制労働を正当化する。
Ex)時間と配分間の優位性
・ある「送り手」の配分からnを、社会的不平等を被っている「受け手」の配分nに再配分する。
→このときの再配分はパタン付き原理によって正当化されているが、これが配分ではなく労働時間だったと想定すると、
・ある「送り手」は「受け手」のために労働時間をn時間延ばさなければならないことになる(強制労働の正当化)
・このような結果状態パタンを法制化することとはどのようなことだろうか。
→所有権の中核にあるのは「ある人が所有物AをXする」ということである。このとき、Xが不当である場合は法の下に制限される。
・例えば、ある人の正当な所有物であるナイフを「机に置く」、「庭に置く」、「ゴミ箱に捨てる」などのXは許容されるが、「人の胸に刺す」は制限されるだろう。
・ではこうした強制的配分制度を回避するために外に移住するのはどうだろうか。
→国内の「受け手」は配分を受けることが出来なくなるため、国外移住は不当であることになってしまう。
7,ロックの獲得論
・では誰もある財への権限を主張しなければどうだろうか。
→権原理論からは一見正当であるように思えるが、ここではロック的但し書きが適用される。
[ロック的但し書き]
・ある土地を共有地と定め、誰もその権限を主張しなければ「共有地の悲劇」が起こる。
→共有地であるため、その土地から獲得される資財を誰もが手にするが、誰もが手にする資財のために誰もその土地を管理しようとしなくなってしまう。
→よって、ある財は特定の誰かによって権原が主張されるべきである。
・ちなみにロックは当時のイギリス社会でのエンクロージャーをこの但し書きの論理から肯定的に評価していた。
<その2> p.306~383
・7章後半では当時注目を集めた(この本1974年に出版)の政治哲学の著作ロールズ『正義論』との対比を行う。
8,ロールズ理論
・ロールズは正義原理に基づく「公正な協働システムとしての社会」の実現を『正義論』で訴えており、そこでは社会の成員によって社会的協働が行われる。
①非協働的社会
・協働しないn人のうちi番目の個人の配分はSi、よってその社会全体が有する配分Sは
S=∑(n/i=1)Siとなる
②協働的社会
・協働するn人のうちi番目の個人の配分はTi、よってその社会全体の有する配分Tは
T=∑(n/i=1)Ti となる
→ロールズの仮定に立てば、Tは社会的協働の結果であるためT>Sであり、T-S=Eのうち剰余分Eがいかに配分されるかということが(格差原理にて)が問題化されている。
・しかし非社会的協働において各人が努力のみによって配分を獲得するとき、(ロールズの)正義原理は問題化されない。
→孤島で暮らしたロビンソン-クルーソーの作り出したものは全てクルーソーに権原があり、社会的協働の産物でもないため再配分の根拠がそもそもない/むしろ格差原理はあらゆる生産財を社会的協働による共有財として捉え、その配分をどう考えるかについての理論であるといえるだろう。
・では協働的社会において生産財に対する権原は認められないのだろうか
→諸個人の限界生産能力が認められれば、限界生産物という点で各人の権原は等価となり交換が可能となる(無論この想定は現実的には困難である)。
→またロールズの格差原理では「最も恵まれない人」が最大限に配当を得なければならないことになっているが、このときより多くの生産財に権原を有する「送り手」(6節)にはいかなる追加的インセンティブが保障されているのだろうか。
9,協働の条件と格差原理
・ロールズは格差原理を正当化するために、原初状態-無知のヴェールを想定し、原初状態化ではマキシミンに則って、各人が「最も恵まれない人」を最大限に顧慮するようになると主張した(いつもの話)。
→しかし、原初状態で想定されているのは代表的個人であり、特定の疾患を抱えている人などではない。また代表的個人と想定する場合でも格差原理を選択する動機が不十分である。
(【メモ】これはいくらなんでもロールズの読みが浅いだろ。「無知のヴェール」で各人は各人の相対的特性について「知らない」のだから、疾患の有無は関係ない)
Ex)トートロジカルな状況評価
①グループGは配分A、グループFは配分Bを受ける。このときB>Aである。
・B>Aであるから
②Fの立場がよいからGの立場は悪い、Fが優遇される限りGは不遇である、という状況をとする
→ある貧困者の立場が悪いのは「我々の暮らし向きがよいから」という理由によるものであろうか
→つまりある状態(①Gの配分よりFの配分が少ない)を評価するときに、その状態に依存した尺度(②Fの暮らし向きがよいからGの暮らし向きが悪い)に準拠するとトートロジーを形成してしまう。
→トートロジカルな状況評価を不当としたとき、才能に恵まれていない人/恵まれている人が対称的に格差原理に合意をするのかどうか説明ができない。才能に恵まれていない人/恵まれている人はそれぞれグループに分かれてそれぞれのシステムを形成した方がよいのではないか。
(【メモ】だからなんで無知のヴェールを無視してるの?馬鹿なの?各人は才能の有無についてそもそも「知らない」つってんだろ)
→よって格差原理は不当であり、そこでは「最も恵まれない人」の最大限の顧慮によって社会的優位にある人々の顧慮がないがしろにされている/(ロールズの言う意味ではなく)一般的協働によって社会的優位にある者の配分はさらに多くなる。
・そもそも「恵まれない人」は「恵まれた人」に平等に顧慮するよう申し出るのだろうか、そして「恵まれた人」はそれを拒否することは出来ないのだろうか。ロールズはこれに明確な説明を与えていない。
(【メモ】この話はヴォルフの「耐えがたき恥辱」につながるね)
10,原初状態と結果状態原理
・原初状態という想定によって結果状態原理を正当化してしまう。
Ex)テストの点数の配分決定
・各学生は0~1000点からなるテストを受け、教師はその全体の点数の配分を学生に任せている。
(a)各学生が「自分の得点」について「知らない」場合、各学生は平等な点数配分に合意するだろう
(b)各学生が「自分の得点」について「知った」場合、それでも各学生は平等な点数配分に合意するだろう(無知のヴェールによって自分の得点-権原を主張できないから)
→よって原初状態-無知のヴェールは後者の場合でも歴史原理(勉強を頑張った、遊ぶ間を惜しんだ、計算能力が高い など)を排除しているため、現時点での配分構造にのみ注目する結果状態原理を正当化する。
→「無知のヴェール」はこのように権原理論を阻む概念装置であるが、さらにロールズは権原理論それ自体の議論をも回避しようとしているようにも見受けられる。
(【メモ】さっきから噛み合わないと思っていたけど、ノージックそもそも「無知のヴェール」を勘違いしている説。「無知のヴェール」によって各人が知らなくなるのは相対的地位関係であり、道徳ではない。むしろ「自由で平等な人格」として想定されている(それはそれで不当なんだけどね)。例えばbの場合ではそれぞれが相対的得点を「知った」ため「無知のヴェール」ではもはや覆われているとはいえないのでは。)
11,マクロとミクロ
・格差原理は社会の基本構造にのみ適用される/ミクロなレベルで生じた不具合は格差原理への反証の証左になりえない
→例えば、身体機能の強制的再分配(左目が見えない新生児に健常な新生児の左目を移植すべきか)は格差原理の不当性を訴える論拠になりえない
→しかし、どこからミクロでどこからがマクロといえるのだろうか、ロールズは説明していない。つまり、格差原理が適用される境界線は恣意的である。
12,自然資産と恣意性
・ロールズは各人の自然資産(先天的能力、資産、出自など)を恣意性によるものであるとして、自然的自由を不当であると主張する
→原初状態の想定では「無知のヴェール」によって各人は各人の自然資産を権限として「知らない」ことになっているが、これはロールズが自然的自由を否定するために設けたといえるのではないか。
・以下ではロールズの「自然的自由は恣意的であるため矯正されるべき」という見解に対し、その①肯定論の4つの立場 と ②否定論の3つの立場 をそれぞれ13節と14節で検討する。
13,肯定論
・肯定論は「自然的自由は恣意的であるため矯正されるべき」と主張する。
[立場A]
1)各人は自分の保有物に道徳的に真価を持たなければならない
2)各人は自然資産に真価を持ち得ない
3)ある人がXに真価を持ち得ないとき、Xによって決定されるYにも真価を持ちえない
4)よって各人は自然資産によって決定される保有物に真価を持ち得ない
→ロールズは(意外にも)1の段階を否定している。つまり各人の保有物に対する真価は道徳それ自体に本質化されない―パタン付き原理としての道徳を否定
(【メモ】分配の論拠を外的な道徳に求めてしまうと、定言命法に依拠したカント的義務論になってしまうので、ロールズは契約論を持ち出したってサンデルが書いていたけど、Aがダメなのはそういうことだね。)
・では前提1が否定されると[立場A]はどうなるか。
[立場B]
1)保有物は道徳的観点からして恣意的でないパタンに応じて配分をされなければならない
2)自然財産は道徳的観点から恣意的である
よって
3)保有物は自然資産に応じて配分されてはならない
→しかし保有物は各人の自然資産と何らかの相関関係にあるかもしれない。例えばハイエクのいうように、資本主義における配分は(他者への)サービスの質に比例し、サービスの質は個人の先天的資質(外交的性格など)に応じると仮定すると、保有物と自然資産は相関関係にあることになるので3が否定される。
・では結果3が否定されると[立場B]はどうなるか。
[立場C]
1)保有物は道徳的観点からして恣意的でないパタンに応じて配分をされなければならない
2)自然財産は道徳的観点から恣意的である
3)「なぜあるパタンの差異が保有物の差異を生み出すか」ということが「各人の間の他の差異がこの保有物の差異を生み出す」ということに求められ、かつ、「各人の間の他の差異」が道徳的観点から見て恣意的であると考えられる
ゆえに
4)自然資産の違いは人々の間の差異を生み出すべきではない
→前提3は、どんな「各人の間の他の差異」であっても恣意的であると想定するため、あらゆるパタンも恣意的であると想定されてしまうことになる。
→そもそもパタン付き原意が(権原原理とは異なり)不当である可能性を示唆している。
・さらにあるパタン付き原理が道徳的に正当とされる際、道徳的事実pとqが共に正しいとき―p∧qのとき、両者の説明であるPとQもP∧Qになるとは限らない。
→P∧QであるということはP-Q間に「統一性」が求められることになるが、現実問題p∧qであっても「統一性」は保障されない(いわゆるダブルスタンダード)
(【メモ】なんだか回りくどい解説だが、これはロールズがいうところの包括的教説の対立についての話。pとqという包括的教説が対立し、かつ両方とも道徳的事実として正当であるとき、どちらのパタンを採用した原理が決定されるべきだろうかということ。ちなみにロールズは正義を政治的道徳として特権化することによってこの問題を解決している(そしてコミュニタリアンから批判されている))
[立場D]
1)保有物は不平等でなければならない(重みのある)理由がない限り、平等でなければならない
2)各人の間に自然資産によって生じる差異は各人に真価があるわけではない―人が自然資産において差異が生じる道徳的理由は存在しない。
3)もし各人の差異が道徳的理由に求められないのならば、彼らの有する保有物の差異についても差異が生じる道徳的理由もないことになる
ゆえに
4)各人の自然資産の差異は、保有物の差異を正当化しえない
5)何らかのほかの道徳的理由(例えば「最も恵まれない人の配分の最大化」など)がなければ、各人の保有物は平等であるべきである
→[立場D]がロールズの格差原理における自然的自由の否定の論理。
・しかし、そもそもなぜ前提1のようなパタン(保有物は平等でなければならない)といった言明が必要なのか―なぜ配分はパタン付きでなければならないのか
→こうしたパタン付き言明の根拠は(いかに政治的道徳として特権化しようとも)結局のところなく、ロールズも原初状態における各人の人格(のうち①正義感覚)が平等を志向するから「平等であるべきだ」と主張しているに過ぎない/トートロジーである。
(【メモ】これに関してサンデルも同じつっこみを入れている。ロールズは各人が一番目の道徳的能力である「正義感覚」によって互恵性を志向すると想定したが、契約論は互恵性を志向した結果である平等つまり格差原理の論拠となっている点で、「正義」と「契約」がトートロジーに陥っている。)
14,否定論
・では次にロールズの自然的自由に対する反証への反論―否定論(つまり自然的自由を擁護する)の立場をここでは3つ確認する。
[立場X]
1)各人は自然資産への真価を有する
2)各人はあるものYが、真価を有するXによって産出されたものである場合、Yにも同様に真価を有する
3)各人の保有物は自然資産から産出される
ゆえに
4)各人は保有物への真価を有する
5)もし人が真価を有するならば、それを持つべきである
→ロールズは前提1を「恣意的である」として反論するだろう。そしてこの対立はおそらくアポリアに至るため他の立場を考察する。
[立場Y]
1)もしある人がXをロック的な意味で他者の権限や権利を侵さず持っており(6節「ナイフを突き刺さない」)、そのXがロック的な意味で他者の権限や権利を侵さずYを産出するならば、その人はYの公正な権限を持っている。
2)人々が自然資産を持っているということは、他の誰の(ロック的な意味での)権限や権利を侵さない
→つまり他者の権限を侵さない限り自然的自由は公正である。これはさらに「真価」を「権原」に置換して、次の[立場Z]として再定式化可能である。
[立場Z]
1)各人は各人の自然資産に対して権限を持つ
2)各人はXに対して権限を持つならば、そこから産出されるYにも同様に権原を持つ
3)保有物は自然資産から産出される
ゆえに
4)各人は保有物に権限を持つ
5)もし各人があるものに権原を有するのであれば、それを持たなければならない
→よって権原理論は正当化される。
・ロールズの主張するように、確かに原初状態-無知のヴェールという概念装置は自然的自由を恣意的であるとして退ける。しかしながら、そもそも原初状態-無知のヴェールという想定それ自体が「恣意的」であり、格差原理の論拠として不当であるのではないだろうか。
15,集団資産 p.376~381
・ロールズの正議論において、自然的資産は「集団資産」と見なされるべきであると主張している。
→人々の才能や資質は当該社会において「資産」であるが、それが共有されるべき資産であるとはできないだろう。むしろ共有することによって、個々人の才能や資質が阻害されたとしたら、当該社会の「資産」の和は低下することになる。
・さらにいえば、「集団資産」とするのは単に自然的資産の優位の者に対する嫉妬に依拠しているのではないか。
【メモと批判】
・すごくわかりやすいけど、9-10節はなんでこんなに原初状態の解釈おかしいのこの人。
→『正義論』のロールズがでたらめ言ってるの?少なくとも『再説』の議論からだと明らかにノージックの読みが甘いことになるんだけど。
・あとサンデルはパクリすぎじゃね?ほぼ『限界』の2章の原初状態批判は、この章でノージックが言ってることじゃん。
◇第八章 平等、嫉妬、搾取等 p.383~450
1,平等
・権原理論はある人にある財の権原が認められる場合、その獲得と移転はその人に自由に行われるとする。つまり一切のパタン付き原理を認めない。
→平等に関する配分原理のほとんどがパタン付き原理(リベラル、マルクスなど)であり、「非」パタン付き原理からの平等擁護論はウィリアムズの主張くらい。
Ex)ウィリアムズの「平等の理念」
・医療の内在的目的は「患者の治療」である。
→富裕層と貧困層によって受けられる医療サービスに格差が生じてしまうと、医療の「患者の治療」という内在的目的が否定される。よって各人が平等に諸サービスを受けられるべきである。
・「平等の理念」に則れば、床屋の内在的目的は「理髪サービス」である。
→しかし、なぜ「床屋と世間話をする」「染髪をする」といった他のサービスが内在的目的とされなければならないのか(内在的価値の決定不可能性)。
・よって、ウィリアムズは「送り手」(6節)を無視して、「必要物が平等に共有されるべきである」以外なにも主張していないことになる。
2,機会の均等
・機会の均等を実現するためには二通りの方法がある
①恵まれた人の状況を直接悪化させる
→権限を侵害しているため不当
②恵まれていない人の状況を改善するために、恵まれた人の機会を調整する
→再配分はけっきょく権原を侵害することになるので不当
→恵まれた人の「自発的意志」によって調整されることが唯一の道である。
・このとき、「恵まれた人」が自発的に「普通程度の人」に機会を譲ると、「恵まれない人」はその機会を受けることが出来なくなってしまう。これは不当だろうか。
→「恵まれた人」は自らの権限のもと、自発的に譲渡しているため正当である/「恵まれない人」による不平は不当である。
3,自尊心と嫉妬
・平等主義の根底に自尊心-嫉妬があるのではないかといわれる(2章15節)
→そもそも嫉妬とはどのような状況で(心理学的にではなく)生じるのか
Ex)バスケットと数学の得意な人
A)ある山奥の孤立した村に住む男は1分間に30本のフリースローを決められる。他の者は10本しか決められない。
→ここにプロボーラーがやって来て50本のシュートを決めるとき。
B)ある数学の得意な男はどんな命題であっても解法を見つける。
→さらにはやく解法を発見する数学者がやってきたとき。
→つまり、ある能力の優位性は相対的に決定されるため、嫉妬も相対的な関係性の中で生まれることになる。
・ある特定の能力が評価される次元D1,D2……Dnまであると想定する。
→フリースローはD1で評価され、数学的能力はD2で評価される……などと考えると評価の次元は無数にある。
→このときD2>D1といった次元間の序列を決定し、劣位の次元を抹消していくと、次元数が少なくなるにつれ嫉妬が生まれやすくなる(評価が単一的なものに近づくと、その下位の層が増えるため)。
4,有意義な労働
・「労働体制の従属的立場にいる人は自尊心に悪影響を与える」といった旨の主張は主に心理学を中心によくなされる。
→しかし、オーケストラの構成員は指揮者に従属しているが自尊心を損なわない。工場にいる社会主義のオーガナイザーは国家に従属しているが自尊心を損なわない。
→規範社会学がするように「仕事は有意義であるべき(ゾルレン命題)」ということが暗黙裡に前提化されているため、そもそも「従属的立場にいる人の自尊心が損なわれる」といった主張がなされているのではないか。
・そもそも権原理論においては支配/従属的立場は個人の権限に帰せられ、また支配的立場にある者も「譲渡」によってその立場を得たかもしれないため関心が払われない。
→むしろ、規範理論は市場から見て「労働における有意義性の希求」が非効率的ではないかということを問う。
①労働者が有意義な仕事を求める場合
→労働者は給料よりもやりがいを労働に求めることになる。対価として賃金の一部を諦めることも厭わない。
②労働者自身は仕事に有意義さを求め、消費者が求める場合
→労働者自身は有意義であることに価値を認めない。しかし、消費者は有意義であることに価値を感じ、有意義な職場の商品に購買が集中するため、結果的に個々の消費者が高コストな商品を購入することになる。
③労働者、消費者ともに仕事に有意義さを求めない
→おそらくこの社会では有意義な職場への従事、及びその商品の購買が禁止されている。詳細は別のところで考えられなければならないが、政府がいかにして禁止を正当化するかが問われることになるだろう。
5,労働者による管理
・資本主義下において、会社は労働者を募るために(市場の効率性を落としてでも)有意義な職場を提供するかもしれない。
・さらに職場内において、有意義な労働を保証するために(生産性を落としてでも)労働者による民主主義的体制が確立されるかもしれない。
→おそらくこの企業は効率性が落ちるため、先述の二つの方策―①賃金を落とす ②有意義さを求めさせない を講じることになる
→「労働者による企業」は外的投資の獲得が困難であっても有意義な労働環境保障の選択肢としては妥当ではないだろうか
(【メモ】70年代ならフォーディズムがぎりぎり凋落してない時代なので、ノージックが労働を市場の効率性からしか捉えられないのはしょうがないかも。しかし、サンディカリズムとはいかなくとも、今日では「有意義な労働」はもはや優良大企業の必須条件であり、逆にブラック企業はバッシングにあう。よってノージックの主張とは裏腹に自尊心と効率は「労働意欲の向上」「消費者によるサンクションの対象」の点から比例するといえる。)
6,マルクス主義的搾取
※マルキシズムの基礎おさらい
①マルクスによれば「労働のみが価値を産出する」(労働価値説)が、
②その労働の「剰余価値」は資本家によって搾取されており、また資本家は「剰余価値」がある場合にしか労働者を雇用しない
それゆえ、
③労働者は階級闘争によって資本家を打ち倒すことが科学的に運命付けられている
・前章のサンディカリズム的職場(労働者による労働者のための職場環境)はなぜ実現されないのか。マルキシズム的には資本家の存在は必ず「搾取」を生み出すため、サンディカリズムが実現されなければならない。
Ex)公的セクター/私的セクター
・従来的な職場体制を公的セクター/サンディカリズム的ベンチャーを私的セクターとする。
→このとき私的セクターの登場によって、公的セクターは市場から退けられていくかもしれない。
・しかし、私的セクターはベンチャーであり、起業のリスク(人材確保、投資確保、技術の確保など)があることを忘れてはならない。
→他方でこのリスクと引き換えに実現されるのは「有意義な労働環境」である。これは「労働のみが価値を生み出す」というマルキシズムの不当な「労働価値説」に立脚した思考である。
→正確には「労働それ自体に価値があるのではなく、生産財に価値がある」ため、「労働環境>生産効率」とするサンディカリズム―私的セクターはその点で本末転倒である。
(【メモ】生産財>労働という同様の主張をAMのコーエンもしており、労働価値説を認める者はいまやいないといってもよいだろう)
7,随意的交換
・随意的交換は自然的条件と「他者が権利を持つ行為」によって制限される場合、随意的交換であり続ける。後者の場合を確認する。
Ex)合コンでの随意的交換
・男性26人対女性26人で合コンをし、男性はA、B、Cの順に、女性はA´、B´、C´の順にそれぞれ選好される。
・AとA´はそれぞれ第一選好なのでペアになる。BとB´はそれぞれA´とAを選好したかったが、既にペアなので互いにペアになる。以下ZとZ´まで同様である。
→このとき、AとA´は互いを選ぶ権利があったため、BとB´以下の交換は例え他者の選好に制限されるとはいえ随意的交換であることになる。
→資本主義体制における労働も同様である。ZとZ´の選好が例え叶えられなくとも、仮に飢餓に苦しむことになろうとも、それが他者の権利によって制限されている限り随意的交換である。
→権利とは、他者の権利とペアになったときに始めて実現される
8,人間愛
・ここまでで権原理論以上の拡大国家を諸観点から(リベラリズム、平等、機会、自尊心、マルキシズム)考察してきた。最後に拡大国家が正当化されるかもしれない二つの可能性を考慮する。
・再配分賛成者は強制的再配分が制度的に設定されているから賛成者なのではないか。
→もし再配分制度がなくなったら独力の支援など空しくなるのではないか。
Ex)慈善的献金の賛成者
・政府は強制的再配分制度として、匿名の寄付を富裕層に強制したとする。
・次にその制度が中止されたとする。その際、誰も自発的に加担しなくなくなるのはなぜか二つの理由が考えられる。
①個人では献金の効果が低くなる――献金システム自体が内的相互作用(みんなするから自分もする)を含んでいるから、強制力がなくなると作用も低くなる
②個人では献金の負担が相対的に大きくなる――同様の理由から「自分だけする」ことに対して負担が大きくなる(ように思える)
→問題は「そもそも強制的献金制度すら加担しなくない」と考える社会階層であり、強制の解除は彼らが離脱することを意味している。そして彼らの離脱は①と②を確実に生み出すので献金は成り立たなくなる。
(【メモ】命題「誰も自発的加担したくない場合―正」だけを示すのは論理学的にダメでしょ。反証したいなら命題「誰も自発的加担したい場合―偽」も証明しないと。対偶。)
9,自分に影響することへの発言権
・もう片方の拡大国家正当化の論拠は、「自分に影響することへの発言権」が認められるか否かという問題である。
→例えば、交響楽団は自らが受ける影響から指揮者の自任を阻めるか、狩人は自らが受ける影響から森林の保護を社会に強制することができるか、といった問題系
Ex)バスの一年間
・あるバスはAに正当な権原があるとする
・そのバスには他にAの他に4人の乗客がおり、合計5人で共同生活を送っている。
・一年後、バスから4人を降ろすと突如Aが宣言する。
→このとき4人は「自分に影響する」という理由からAの宣言を拒否することはできない。なぜならバスの権原はAにあるからである。
・ある権原はロック的意味での権利に反しない限り(ナイフを人の胸に突き立てない限り)、私的理由から制限されることはない。よってこの場合でも拡大国家は正当化されない。
10,非中立的国家
・経済的不平等が政治権力の不平等を招くかもしれない。
→そもそも経済的不平等で政治権力の配分が不均等になるのは、経済的不平等ではなく当該政治体制に問題がある。よってそれを防ぐために拡大国家の正当性を主張するのは本末転倒である。
・また権原理論に基づく最小国家は殺人、恐喝、強盗を禁止のみするが、その「判決後」に生じる経済的不平等に焦点を当てない点で非中立的である(富裕層の犯罪が有利に扱われる)のではないか。
→ある犯罪が禁止されているのは経済的不平等とは独立の理由によるものである(強姦の禁止は男性差別につながるという主張は馬鹿げている。強姦から性差に独立した問題である。)
11,再配分はいかに機能するか
・ここまでで拡大国家の不当性を様々な角度から論じてきた。
・実例と照らし合わせてみると(当時のアメリカ)、再配分は中産階級に最も有益であるように思える。
→しかし、中産階級がなぜ拡大国家において優遇されるか、ということについてアメリカの配分原理は説明を与えてくれない。
【メモと批判】
・この章はわかりやすかった。まあ具体例ばかりだから。
→とりわけ重要な議論はたぶん6節のマルキシズム的搾取のところ。ここでノージックは労働価値説を否定し、「労働環境の整備」に対するマルキシズム的擁護を退けている。
→キムリッカが紹介していたように労働価値説の否定は分析的マルキシストのコーエンもしているが、他方でコーエンは『自己所有権-自由-平等』にてノージック批判から本を始めている点でその後の主張は異なっている。
・8節での論拠が弱かったのは、愛つまり包括的教説としての「善」の議論に入ると収拾がつかなくなるからかもしれない。
◇第九章 大衆所有 p.451~478
・本章では①「自然状態→最小国家」さらに②「最小国家→現代(拡張)国家」まで至る拡張のスペクトラムが提示され、②が不当であるということが示される。
1,整合性と平行事例
・事例Aを信じる者に、事例Bを持ち出して事例Bの正当性を訴えるとき、
①事例Aと事例Bが「近い」と、事例Aの評価を事例Bにも適用されがちである(「事例AもBもけっきょく大差ないじゃないか」)
②事例Aと事例Bの間に一連の事例群を設けて順に演繹していくと(つまり事例AとBが「遠い」と)、境界線引きの問題が生じる(ゼノンのパラドックス)
→さらに②の場合、各事例に対する論拠は無数に挙げることができるため、事例Aの論拠aが事例Bの論拠と重複する可能性も想定できる。すると境界線引きはより困難になるだろう。
・本章では「自然状態→最小国家→拡張国家」のスペクトラムが提示されるが、この平行事例の問題を留意しておかなければならない。
2,最小を超える国家の派生
[段階1/原初状態]
・原初状態において、権原理論によって各人はまず財の獲得をし(獲得原理)、次にその財を移転する権原を得る(権原原理)。
・移転において、
①他者に権原のある財は潜在的にこちらの支出である―負の外部性を内部化している
②こちらに権原のある財は潜在的に他者の支出である―正の外部性を内部化している
→二つの内在化によって「他人に利益を与える/他人がこちらに見返りを与える」(交換-市場)が生じ、かつ「他人に利益を与える」ほど「見返り」は大きくなるため、この社会では「他人に利益を与える」ことが大きな利点となりえる。
[段階2]
・しかし、この「交換」はすぐに「他人に与えた利益」の「見返り」の「見返り」を求めるようになり、さらにその「見返り」を求めるようになる(つまりこちらと他人の間で利益の交換の無限ループが生じてしまう)
→無限ループに陥るならそもそも「交換」を行わないということが合理的だろう(そもそも社会において他人が不要になる)。
・よって、財は全ての外部性を内在化できるわけではない。
[段階3]
・財が全ての外在性を内在化できないことが判明すると、所有権(ownership)が単に財を所有することではなくて、財に対する人の財を侵害しない―ロック的な意味での権利の保障であると理解されるようになる(ナイフは床に置いてもよいが、他人の胸骨の間に置いてはいけない)。
・さらにより多い財の獲得を望む者が会社を設立し、これら所有権を諸権利(自由な服を着る権利、マリファナを吸う権利、どんな本を読むか決める権利、結婚相手を選ぶ権利などなど)に分割して、分割した諸権利のうちいくつかを市場に出すようになる。
・権利株は膨大な数売りに出され、中には自分の持つ権利をほとんど売りに出す奴隷のような人が登場する。
→この人の権利が特定個人ないしはグループに独占されると、ほぼその特定個人ないしはグループに対して隷属状態にあるといえる(特定個人ないしグループの「発言権」を他者の権限を侵さない限り全面的に受け入れなければならない)。
[段階4]
・特定個人ないしはグループによる独占を避けるために、新たに会社を設立する者は権利株を一定以上有する者にはもう権利株を売らないという但し書きをつける。
→これによって権利株の拡散が広まり、独占は事実上の終わりを告げる。
→しかし同時に「発言権」の拡散も生じるため、権利株の代表者(筆頭株主)のみが株主総会で「発言権」を手に入れる代議制が採用される。
[段階5]
・代議制によって問題となるのは、「権利株を持たない次世代」―つまり子どもである。
→彼らへの株の分配は若者になる際、自身を会社にする(つまり権利株として販売する)という条件のもと行われる。
→ここで、社会の成員全体が全体を所有する状況に至る。そして筆頭株主の「発言権」の大きさも正当である。
・しかし、若者の中には株主ギルドへの参入を拒む者がいるかもしれない。それに対して、ある者は「親は子どもに対する権原を有する」から「若者の権利株の権限も親にある(ため参入は拒めない)」と主張するかもしれない。
→ロックは「親は子の権原を持たない」と主張したが、その論拠は曖昧なものであり、実際に親の子に対する権原を否定すると、親が子の世話をする義務はなくなる(未解決問題)。
[段階6/拡張国家]
・ある協調性のない若者が株主ギルドから離脱すると、他の自発性のない若者がそれにつられて離脱し始める。すると、一人でやっていくのが苦手な若者だけが株主ギルドに残留することになる。
→すると次世代への権利株システムは受け継がれないことになり、破綻を迎える。それを防ぐために、株主ギルドからの離脱は社会的制度によって制約(【メモ】これがたぶん最小国家以上の拡張)され、「全体が全体に対して権原を持つ状態」―つまり民主主義政体―大衆所有が実現される。
3,仮説的歴史
・では逆に、このようにボイコット(若者の株主ギルドからの離脱)によって、最小超過国家が実現されることはあるだろうか。
→ボイコットが成功するためには、社会の成員(の多く)がボイコットを正当なものであると見なさなければならないため、事実上、最小超過国家においてボイコットは成功しないし、それによって最小超過国家が生まれることもない。
・ある社会制度が社会の成員によってどのように評価されるかは、現在の社会構造と仮説的歴史の相対性に準拠している。
→仮説的歴史と照らし照らし合わせてみて、現行の社会制度が多くの成員にとって不正義である場合、ボイコットは成功するかもしれない。
【メモと批判】
・本章でのノージックは社会の成員による「自発性」を無視している(3,仮説的歴史で間接的に言及しているけど)。
→ノージックの想定では(高確率で)ロールズのいう「公正な協働システムとしての社会」が「大衆所有」の理念系となっているはずである(拡大国家なので権原理論から見て不当である)。
→他方でロールズによれば、社会の成員は「秩序だった社会/基本構造」において「公知性の原理」に従って、教育システムによって世代間を超えて社会的協働への自発的参加を促されるという。つまり「若者は株主ギルドを離脱するどころか積極的にコミットする」。
→「公正な協働システムとしての社会」の世代間維持
・自発性に対する回答をノージックは用意できてないよね~でもロールズの公知性の議論は『再説』以降のものだから後出しジャンケンではあるよね~というお話