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Marton,Robert 1961 「予言の自己成就」

http://www.amazon.co.jp/社会理論と社会構造
 本論文は機能主義を代表する社会学者、ロバート・マートンの主著『社会理論と社会構造』の中に掲載されたものだ。『社会理論と社会構造』自体著名な文献ではあるが、「予言の自己成就」単独でも社会学徒にはよく知られた論文である(例えば『社会学辞典』では本論文のみでも一つの辞書項目としてページが割かれている)。また先に書いたようにマートンは機能主義の最右翼と目される社会学者であるが、「予言の自己成就」の内容は、機能主義などの巨視的な社会学とは相対する(とされていた)現象学的社会学の趣もあるように感じられる。

第1節 トーマスの公理

第2節 社会学的寓話

第3節 社会的信念と社会的現実

第4節 内集団の美徳と外集団の悪徳

第5節 社会的機能と逆機能

第6節 計画的な制度の変革

 

 

第1節 トーマスの公理

 マートンによれば「予言」についての考察は、マルクスやフロイト、マンドウィルなどといった先例がありつつも、それを最初に定式化したのはW.I.トマスであり、トマスは「予言」を「もしひとが状況を真実であると決めれば、その状況は結果においても事実である」と指摘した。これはつまり、人はある「予言」の真理性や客観性だけではなく、その「予言」の内容が自分たちにとって有意なものかということにも基づいて判断を行っており、時としては後者の方が主となることを含意している。さらに、一度ある「予言」に意味性が付与されたのならば、それに続いてなされる行為と行為の結果はその意味論的な志向性によってなされ、結果的に「予言」が(例えそれが虚偽であったりや明らかに客観性を欠いていたとしても)実現されることになるとマートンはいう。

 

第2節 社会学的寓話

 では「予言の自己成就」がなされたものとして具体的にどのような例を挙げることができるだろうか。マートンはここでかの有名な「旧ナショナル銀行」の逸話を持ち出して考察をする。1932年、旧ナショナル銀行は比較的銀行資産があったにも関わらず、突如として支払い不能に陥ることになる。預金者が一斉に自身の預金を引落していったからである。ではなぜ預金は一斉に引き落とされたのか。ここに「予言」が作用しているというのがマートンの指摘である。つまり、「旧ナショナル銀行は支払い不能になった」という噂、すなわち「予言」がまことしやかに預金者たちに流布された結果、その「予言」が明らかな嘘であるにも関わらず、人々はこれを信じ(予言が成就し)、旧ナショナル銀行は「実際に」支払い不能になったのである。

 もう一つマートンはここで「試験ノイローゼ」の例も提示する。「自分は試験に落第してしまう」という「予言」を信じきっている者は、「どうせ落ちる」という思い込みのもとで時間を浪費し、そして実際に落第するという話だ。これも客観的な明証性のない「自分は試験に落第してしまう」という「予言」が行為者の行為を変え、「成就」することの好例であろう。

 この二つの例をふまえ、マートンは自己成就的予言を「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えをリアルなものとすること」として定義している。つまり自己成就的予言は最初に登場した誤謬の支配を永続させてしまう機能があるのである。また、併せて重要なのはこれらの予言はあくまで「意図せざる結果」であることだろう。旧ナショナル銀行の利用者はなにも銀行を倒産に追いやろうと企んでいたわけではないし、受験生もまた試験に落ちてやろうと意図していたわけではないのだから。

 

第3節 社会的信念と社会的現実

 時に自己成就的予言は「悪循環」―「ポジティブフィードバック」を引き起こす可能性もある。マートンはこのことを「黒人ストライキ」を例にとって考える。一次大戦後、まだ黒人差別が色濃く残っていた当時、多くの黒人労働者たちが白人の労働組合からスト(罷業)に参加しないという理由で締め出された。白人たちの言い分としては「黒人たちは罷業破りであるから組合から排斥する」というもであったが、ここにも「予言」の効力が働いているということができる。つまり「黒人たちが罷業破りである」という「予言」の真理性などはないにも関わらず、白人たちは黒人を排斥したのである。マートンがの言葉を借りれば「罷業破りだから排斥しているのではなく、排斥しているから罷業破りとされる」ということになる。しかし、現実には排斥が黒人に罷業破りのレッテルを貼り、そしてその罷業破りというレッテルが新たな排斥を生み出すという「悪循環」が成り立ってしまうことになった。

 マートンはこれに対し、そもそもの「予言」という誤謬を撤廃する必要性があると述べる。最初の誤謬を取り除くことができたら、自己成就するものが消滅するというわけである。しかし、これはなかなか容易いことではない。「予言」という現実が当事者たちのレリヴァントに基づいて、主観的に構成されているが故に、一筋縄ではいかない問題なのである。

 

第4節 内集団の美徳と外集団の悪徳

 前節で見た問題をさらに深く掘り下げるため、マートンは内集団/外集団という枠組みを用意する。内集団とはあるアンシュタルト内部において支配的な集団であり、対する外集団はアンシュタルト内部における被支配層である。先の例で言えば前者が白人、後者が黒人であることになるだろう。マートンによれば外集団はだいたい何をしようが、それとは関わりなしに避難をされる。くしゃみをすれば「うるさい」と言われ、街の清掃活動に乗り出せば「でしゃばるな」と言われるのである。つまるところ、外集団に対する差別や排除というものは、実際になしたことの結果というより、むしろ当の社会構造とそのメンバーの社会真理に深く依存的なのである。

 内集団にとって徳とされることを外集団がするとそれは悪徳される道徳の錬金術が働いているとマートンはいう。道徳的徳目とは、それが本来の内集団のみに限定され適用されるのであって、外集団によってそれがなされると栄誉どころか侮蔑が与えられることになるの出ある。むしろ徳を内集団で独占することによって優位性が保証されているのであって、それは社会階層の維持と存続のための意図せざる戦略なのであるという。

 

第5節 社会的機能と逆機能

 内集団による外集団の(根拠無き)バッシング。内集団の徳に沿っていようが反していようが加えられるこのサンクションは、その非難のされ方によって正機能となるか、逆機能となるかは異なってくると指摘されている。その正機能と逆機能を考えるにあたり引き合いに出されるのは黒人のケースとユダヤ人のケースである。

 マートンは具体的な例を挙げつつ、前者が「良い(あるいは非難の必然性のない)ことをしているのに」サンクションが加えられたのに対し、後者は「人種的な業績を挙げたことに」サンクションが加えられたと指摘する。この結果、黒人たちは不当な扱いから自己を防衛するため、外集団の内部で自身の業績を過剰にまで称えるようになり(正機能)、ユダヤ人たちは同じく防衛の反応として自分たちの業績を過剰にまでに低く見積もった(逆機能)という。

 両者とも「予言」がもたらした心的作用は同様の「防衛」だったのにも関わらず、その反応は真逆、つまり「予言」は正反対に機能したのである。

 

第6節 計画的な制度の変革

  最後の節では、ある意味悲劇的ともいえる「予言」の悪循環、ポジティブフィードバックに対する、マートンの処方箋が提示されている。マートンは先の旧ナショナル銀行のエピローグと、黒人と罷業の話のエピローグから、制度と行政的条件が最初にあった「予言」を十分に打ち消してくれるという。仮に景気後退の最中であっても、慎重な制度改革が裏にあるならば、銀行の被害は軽減されるし、「黒人は組合員たるに値しない」という規定が一度破られると、以後のところでは職業上の排斥は見られなくなるというのである。

 このことは、逆を返すと(無根拠な)危惧の念を実現する自己成就的予言は、慎重な制度や行政が欠如した時にこそ起こりうるということも含意している。

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