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Friedman,Milton 1962→2008 『資本主義と自由』

ミルトン・フリードマン 1962→2008 『資本主義と自由』

 

第1章 経済的自由と政治的自由 p.37-61

〇本章では一般に考えられているのとは異なり、経済的自由と政治的自由が密接に関係していることが明らかにされる。

→自由な社会を目指すうえで、経済は以下の2つの役割を演じている。

①経済それ自体における自由の保証……多くの市民にとってみれば経済的自由であることが、政治的自由を実現する手段としての間接的な意義よりも多い。

 

②政治的自由の保証……自由経済によって権力が偏在しなくなるため、政治権力を抑制することができる。

→後者について、以下では市場との関係から検討する。

 

〇自由主義者にとって自由の意味は①「他との関係における自由」と②「自由を行使する個人にとっての自由」という2つがある。

→複雑化した市場をうまく調整するためには①のように個人が自発的に協力して助け合う必要がある。さもなければ社会主義のように上からの統制という措置をとることになる。

「自発的協力を通じた調整が可能なのは、双方が十分な情を得たうえで自発的に行う限り、経済取引はどちらにも利益をもたらすという基本的な了解が存在するからである。」p.46

→このように強制がなしに行える自由な企業間の交換を、本書では「競争資本主義」と呼ぶ。

〇個人のレベルでも次の条件が満たされるなら、協力は自発的に行われる。

①企業が私企業であり、最終的な契約当事者が個人である。

 

②交換するか否かが個人の自由で決められ、あらゆる契約が自発的である。

 

〇このような自由市場は権力の偏在を解消する方向に作用する。

 「つまり権力の抑制と均衡、チェック・アンド・バランスである。市場は経済活動の運営を政治権力による支配から切り離し、強制力の源を排除する。こうして経済は、政治権力を抑制する方向に働く。」p.50

→以下ではこれを社会主義との対比で考える。

 

資本主義

社会主義

主張

暴力を伴わないのであれば、いかなる政治的主張も認められる。

市民は政府に雇用されるので、体制批判は困難となる。

資金調達

出資に見合う運動であると見なされたら、資金調達は円滑に進む。

体制に大きな権力があるが、国家からの資金調達は困難を極める。

広報

資金さえあればいくらでも可能

政府が運営する製紙工場に頭を下げる必要がある。

 

 

第2章 自由社会における政府の役割 p.63-87

 「自由主義者にとって良い手段とは、自由な討論と自発的な協力である。強制は、どんな形であれよくない。責任ある個人が自由な議論を尽くしたのちに合意に達すること、これが自由主義者にとっての理想である。」p.66

→しかしながら「市場では扱えない分野」や「費用がかかりすぎる分野」など、政治の介入がしかたなく行われる領分の存在についても認める必要がある。

※この時点でミルトン・フリードマンはミナルコ・キャピタリストであることがわかる。

 「自由社会において政府が果たす基本的な役割は次のようになるだろう。ルールを変える手段を用意すること。ルールの解釈を巡って意見が対立したときに調停すること。ほおっておくと試合を放棄しかねないメンバーにルールを守らせることである。」p.70

→まずは「財産権」と「通貨制度」という下地を整える必要がある。

 

〇自発的な交換が規制されるシチュエーションとして以下のようなものがある。

①技術的独占……電話サービスのように自発的交換に任せると法外な費用がかかったり、事実上不可能であったりするようなサービスを、単一の団体が提供すること。

→「民間企業による独占」「政府による独占」「政府の規制」という3パターンの方策が想定できるが、対応力の速さからして「民間企業による独占」が望ましいといえる。

「政府がいったん独占なり規制なりを始めると、民間企業に比べてどうしても変化への対応が鈍く、また排除しにくいと懸念される。」p.75

 

②外部効果……川の汚染のように、人が補償を求めるものであっても、個人の立場からはそれが困難なケース。また都市にある公園のように恩恵を受けた人が特定しにくいケースでも、政府の運営が認められる。

 

③温情的干渉……子どもや精神病患者など自由の裏にある責任が帰せられないような人々の世話は、恩恵を受けるのが誰か特定できない外部効果が作用する。自由主義的には個人の意思をないがしろにしているため望ましいものではないが、温情的干渉は認められる。

「これだけのことをしてきた政府は、明らかに今後も重要な役割を果たすべきだと考えられる。筋の通った自由主義者は、決して無政府主義者ではない。」p.85

※政府が介入してはいけない事業のリストは重要なので該当箇所を確認。

 

 

第3章 国内の金融政策 p.89-118

 景気が悪くなると政府の市場介入が声高に叫ばれる。特に1930年代の世界恐慌では政府が積極的に市場に介入し雇用機会を創出するニューディール政策が措置としてとられた。

〇しかし「経済の安定のためにも成長のためにもいま必要なのは、政府の介入を減らすことであって、断じて増やすことではない。」p.92

→政府の仕事は介入ではなく、経済についての安定した枠組みの提供である。本章では一国の金融政策、次章では国際金融政策、そして続く5章では財政政策について考える。

 

〇金融政策には以下の2つの固定観念がある。

①金準備と通貨供給量を連動させる完全な金本位制の確立は可能であり、この制度の下では個人間・国家間の取引や協力は円滑に進む。

 

②予測不能な状況に対応するためには、一部の専門家集団に自由裁量が認められる。

→これらの徹底的な反駁が本章・次章での課題である。 

 

〇自由主義者の至上課題は権力の分散を避けることにある。「だが、権力分散が必要になったとき、とりわけ厄介なのが通貨の問題である。一国の通過にはいやしくも政府が何らかの責任を負うべきだと多くの人が考えている。その一方で、通貨の掌握が経済運営を左右する強力な手段となりえることも、広く認識されている。」p.94

〇自由主義者の理想を言えば完全なる金本位制は、金の生産状況と需要の変化だけで通貨供給量が決まるため、(政府の介入がない)理想の制度である。

→しかし「完全に自動的な商品本位制は実現不可能であり、また自由社会の通貨制度として望ましくない。実行不可能と考えるのは商品本位制が機能するうえで必要な絶対的な信頼感が得られないからである。そして望ましくないのは、物品貨幣をつくるには資源が必要で、膨大なコストがかかるからである。」p.98

 

〇アメリカでは1913年に初めて通貨量を専門に扱う公的機関「連邦準備制度」が発足した。

→しかしこの制度があったにも関わらず、アメリカでは1929年7月から1933年3月までの間、通貨量が3分の1までに減少し、大きな景気後退も伴った。

 「アメリカで発生した大恐慌は、市場経済が本質的に不安定であることを示すものではない。大恐慌は、一握りの人間が一国の通貨制度に強大な権限を振るうとき、そこで判断ミスがあったらどうなるかを示したのである。」p.111

 

〇したがって求められるのは政治・経済的自由を脅かすような権力を持たないが、市場経済に必要な通貨の枠組みを提供してくれるシステムである。上述の例から望ましいのは「金融政策のルールを法制化し、人間の裁量ではなく法律の規定に従った政策運用を行うことである。」p.113

 「個々のケースを取り上げて検討する場合には限られた範囲にしか目が届かず、金融政策の全体像が視野に入らないため、不適切な決断を下してしまう危険性が高い。」

→具体個別に通貨量の取り決めを行うのではなくて、あらゆるケースを想定した包括的で網羅的なルールが望まれる。

 「望ましいのは通貨供給量についてルールを決めておくことである。当面は通貨供給量の伸び率を決めておき、金融当局はこれを達成するよう法律で定めるのがよかろう。この目的限り、通貨供給量とは「市中銀行の外にある現金+市中銀行にある預金」と定義する。そして連邦準備制度は、通貨供給量の合計が年間X%増加するように、毎月の推移、できれば毎日の推移を調整する。」pp.116-117

 

 

第4章 国際金融政策と貿易 p.119-150

「今日のアメリカの経済的自由にとっての当面の最大の脅威は、第三次大戦の勃発というようなことを別にすれば、政府が国際収支の問題を「解決する」ためと称して、経済に大々的に干渉しようとしていることだ。」p.122

→外国為替を妨げる施策を検討している。

 

〇金の価格維持政策は以下の3点から特徴づけられる。

①国内の生産者だけでなく、国外の生産者にも支持価格で支払われる。

 

②その価格で金を売ってよい相手は外国人だけである。

 

③財務省が金を買うときに支払う貨幣は、財務省がつくってよい。

→ただし政府が金価格を決定するのは、自由主義経済と矛盾する。

 

〇経常支出と金の流出は以下の点で関連しあっている。

①経常収支の悪化は当該国の信用を下げる。

 

②金価格の固定が為替レート固定のためとして、金の流出・流入が国際収支の事前的な不一致を均衡させるメカニズムとして採用されている。

 

〇国家間で収支の均衡が崩れたとき、対応は以下の4パターンの組み合わせになる。

①外貨準備を取り崩すか、外国に自国通貨の準備を増やしてもらう。

→一時しのぎにしかならず、国際収支は悪化するだけである。

 

②自国の物価を他国より押し下げる。

→物価を下げることで、海外での商品売り上げが伸び、通貨供給量も増える。しかし現在では通貨供給量が管理下に置かれているため、こうした反応が直接的に出ることはまずない。

 

③物価ではなく為替レートの変動を利用する。

→「物価が10%増加し、為替レートは同一」の時と同じになるように、「物価は同一、為替レートX%が増加」のXの値を調節すれば、同様の効果が得られる。

 

④政府による貿易統制など介入

〇4つのメカニズムの中で最悪なのは④の統制で、自由市場を破壊する恐れがある。

→逆に自由貿易と矛盾しないのは完全な金本位制の確立か、③による為替レートの調整があるが、前者は前章で見たように不可能だった。

 

 

第5章 財政政策 p.151-167

〇ケインズ以後の財政政策は、呼び水として総支出の安定が掲げられるようになった。

→この最大の弊害は「国の公共事業のとめどない拡大を促し、税負担の軽減を妨げてきたことである。」p.155

〇景気変動に合わせて財政政策を行う場合、予期が必要になるが、あらかじめ計画を精査し、景気安定化メカニズムとして利用できる知識は誰にもない。したがって「金融政策のルールに対応する財政政策のルールは政府予算を立てるときに、その年その年の景気の安定は一切顧慮しないことである。国民が民間より政策を活用したがっているのかどんなことだけを考えればよい。」p.158

 

〇財政政策において、「税収に比して歳出を増やせば景気を刺激し、減らせば景気を収縮させる」というケインズの乗数理論は一般人ならず専門家も支持してきた。しかしこれは以下の2点から不当である。

①初期の投資対象が不明……例えば公園の運営費に100ドル政府が投資したとする。管理者は確かにこの時100ドル分を貯蓄に回すかもしれないが、公園は無料で過ごせるため、全体で見れば消費は落ち込むかもしれない。

 

②投資金をどこから捻出するか不明……借款か100ドル札を新たに刷るかではあきらかに話が違う。

 

〇特に②について、ケインズの分析では政府が借金しても民間の支出に影響をおよばさないことが暗黙の了承としてある。しかしそれは次の2つの特殊な状況下での議論である。

[1]国民が国債を買うか、手元に現金を残しておくか極めて無頓着で、100ドルを調達するための国債が既発債よりも高い利回りで売りさばける見込みがある。

→資金が「遊んでいる」状況だが、このような状況は長続きしない。

 

[2]潜在的な借り手が自分の支出に途方もなく頑固であり、金利が急上昇しても支出を継続するとき。

→投資の限界効率の利子弾力性がゼロであるとき。

 

 

第6章 教育における政府の役割 p.169-206

〇第2章での政府の役割に照らし合わせると、①外部効果と②温情的干渉の2点から、教育に対する政府の介入は容認される。

→教育によって読み書き計算といった基本的技能を獲得することは社会に寄与しうるが「どこのだれかが得をしたか調べ上げて教育費を請求するというわけにはいかない。したがってここには明らかに外部効果が存在する。」p.171

 

〇原則的には「教育を義務化した場合にその費用を大多数の過程がもんだ句引き受けられるのであれば、親に費用負担を求めることは可能であり、望ましくもある。困窮家庭などのケースには、教育補助金を支給して対応すればよい。」p.174

→市民やよき指導者になるような教育の範疇を超えた純粋な職業訓練に出すことは正当化されない。

 

〇また「学校の運営そのものを政府が行うこと、すなわち教育産業の大部分を国営・光栄にすることは外部効果によっても、また私の知る限りの他の理由によっても、まったく正当化できない。」p.177

→政府は最低限の学校教育を義務付け、子ども一人あたりの年間教育費に相当する利用権、すなわち教育バウチャーを支給するべきである。「そして政府の役割は、学校が最低基準を満たすよう監督することに限る。たとえば最小限共通して教えるべき内容が学習課程に組み込まれているかチェックする、といったことである。」p.178

 「これまでに挙げた根拠から最も妥当と考えられる制度は、少なくとも小中学校に関する限り、公立学校と私立学校の共存である。そして私立学校を選ぶ親には公立学校の学費に相当するバウチャーを支給し、バウチャーは政府が認定した学校で使うことを条件とする。」p.182

→私立学校に通わせている親から公立学校にお金を出したくないといった類の批判は消え、各学校はより多くのバウチャー獲得のため競争原理に則って努めるだろう。

 

〇高等学校以上による純粋な職業訓練については先ほど論じた通り、外部効果があるとはいえないため政府の介入は正当化しえない。

→弁護士や医師など高度な専門職においては、人的資本への投資が目的となる。

〇人的資本の投資は一般に物的資本ほど単純なものではないため(例えばリターンが見込めず最悪売りさばくといったことはできない)、あまり盛んに行われたためしがない。

→このようにリスクが大きい投資に最適なのが「株式会社」のモデルである。

 「貸し手は会社の持ち分である株式を買い、その分だけ有限責任を負う方法だ。これを教育にあてはめるなら、個人の将来所得の持ち分を買うということになろう。必要な教育資金を貸し与え将来の所得から一定比率を返済してもらう。一種の出世払いである。」p.198

 

 

第7章 資本主義と差別 p.207-224

「かつて特定の宗教や人種などを機縁とする社会集団は、経済面で不当な扱いを受けてきた。しかし資本主義の発展とともにそうした差別が大幅に減ったのは、誰に目にも明らかな歴史的事実である。」p.209

「差別をする人は、その代償を払わされる。つまり「差別の結果」を「買う」羽目になるのである。差別とは、所詮は受け入れ難い他人の「好み」に他ならない。」p.212

→黒人を雇用しない信念のある人は、自ら選択の幅を狭めている。

 

〇ただし公正雇用慣行法などのように、差別を強制的に撤廃するような制度については反対である。「公正雇用慣行法は、個人が自発的な雇用契約を取り交わす自由を明らかに侵害している。同法の下では雇用契約はすべて州の許認可の対象となるが、これは自由への干渉に他ならない。」p.213

 「自由主義者が求めるのは、言わば自由の意見交換市場だ。[…]その時々の多数派が、この意見は妥当だとかそうでないとか決めるのは望ましくないのと同じように、人間のこの属性は雇用の規準として妥当だとかそうではないとか決めるのは、望ましくない。」p.218

 

〇学校教育においては、人種分離か人種融合かという2つの施策がよく議論されている。自由主義の立場からは分離が望ましいと考えられる。

 「妥当な解決は、人種融合を学校に導入することではなくて、政府による学校運営をやめ、子供を通わせる学校を両親が自由に選べるようにすることなのである。」p.222

→これは前章で扱ったバウチャー制によって達成できることがわかる。

 

 

第8章 独占と社会的責任 p.225-253

 「特定の個人や企業があるモノやサービスの価格条件その他をほぼ決定できるような力を持っているときには、独占が発生する。この場合、個人的な勢力争いがいくらか関係してくるので、ある意味で一般的な意味での競争に近くなる。」p.228

〇独占によって自由市場が被る問題は以下の2つ。

①個人の選択の幅が狭まり、自発的交換が制限される。

 

②独占者の「社会的責任」が問われるようになる。

 

〇また独占の種類には以下の3種類がある。

①産業の独占……経済全体から見ればさほど重要ではない。一般に独占は増加している傾向にあるとされるが、実際は全産業のうち15%程度しか民間による独占はない。残り85%は競争状態にある。

 

②労働の独占……労働組合の力は一般に考えられている以上に強く、賃金の左右を市場原理から乖離する機能を果たしている。「要するに労働組合は雇用を歪めてあらゆる労働者を巻き添えにし、ひいては大勢の人々の利益を損なっただけでなく、弱い立場の労働者の雇用機会を減らし、労働階級の所得を一段と不平等にしてきたのである。」pp.234-235

 

③政府が関与する独占……技術的独占の他に、昨今問題となっているのは民間企業が政府を利用してカルテルや独占の取り決めを行っていることである。また州規模でもこうした例は枚挙に暇がない。

 

〇独占の原因としては以下の3つが挙げられる。

①技術的な要因……第2章で挙げた技術的独占のこと。これもすでに確認した通り、対応力から考えて民間によるものがまだマシである。

 

②政府の直接間接の支援

[a]関税……「保護」を目的とするもの。自由主義者はあくまで個人を最小単位に置くので、これによって自国が有利にあっても、自由競争を阻害している点で批判される。

[b]税構造……株主は極力低い所得税の時に投資を決める。これを避けるために企業側は設備投資などを不必要なまでに行う。その結果、新規参入が困難となる。

[c]労働争議……職業免許や建築条例など。

 

③談合……ただし民間による談合は内部告発者がいることから、あまり長続きせず、そこまで問題視する必要もない。

 

 「政府の施策としてただちに望まれるのは、独占を直接後押しするような措置を打ち切ることだ。産業の独占、労働の独占を問わず、すぐさまやめるべきである。」p.147

→さらなる抜本的解決案として税制改正がある。法人税の廃止など。

 

 

第9章 職業免許制度 p.255-290

 「中世ギルド制の崩壊は、ヨーロッパで自由が誕生するために欠かせない第一歩だった。そして19世紀半ばには、英米両国では全面的に、大陸ヨーロッパでもかなりの程度、誰でも好きな職業につけるようになり、お上に許可を願い出る必要はなくなっている。[…]ところが最近になって、退行現象が起きている。ある種の職業は、国家免許を受けた人だけに制限される傾向が強まってきた。」p.257

→関税、独占禁止法、輸入割当、生産割当などは、職業免許制度と共通して生産者を守るために施行されている。「免許化を求めて圧力をかけるのは、まずまちがいなく当の職業についている人たちなのだ。」p.261

 

〇免許制度には以下の3つの段階がある。

①登録制……タクシーの運転手や、銃の所持など。消費者を不法なサービスから守るという意味では正当性があり、重要。

 

②認定制……市場でも十分この機能を果たすことができるため正当化は困難。市場には様々な民間の認定機関があって、個人の能力や製品の品質などをチェックしている。

 

③免許制……認定制以上に正当化が困難。多くの場合、温情的干渉が論拠として挙げられるが、多くの市民は無能力ではなく、自力でヤブ医者などを見抜ける。むしろヤブ医者がでたらめな治療をした際の外部効果を論拠にするなら正当性があるかもしれない。

 

〇医療免許は現在、米国医師会によって認定される。

→大学院と医療免許という二段構えから新規参入を規制している。

〇しかし参入制限は、画一化を促進する点で実は医師の質の低下をもたらしている。

 「第一に医師の数が減ること、第二に重要でない仕事に正規の医師のかなりの時間が取られること、第三に研究や実験に時間を割く意欲が失われることによって医療の質が低下すると指摘した。今一つの理由は、医療過誤を起こしても、賠償を払わずに済むケースが多いことである。」p.286

 

 

第10 所得の分配 p.291-318

 「平等を重んじる世論動向や、これを背景に採用されてきた平等化政策の是非を論じるにあたっては、まず二つのことを問いたい。第一に社会のあり方として、平等を目的とする政府の介入はどのような根拠から正当化できるか。第二に現実の社会において、実際にとられた政策にどの程度の効果があったのか。」p.293

 

「格差を均す格差」……「つらい仕事ほど報酬がよい」といったように、所得の差が職業や仕事の内容を規定しているという考え方。

→生産に応じた対価が支払われるという資本主義的発想と、平等を重視する社会主義はある点では両立しうる。

 

〇宝くじを買うように、職業選択をするということは不確実性への賭けである。そこに累進課税などを設けるということは、政府の狙いとしてはそうした不確実性を回避する試みであるといえよう。

→しかし累進課税がかけられるのは宝くじの結果、すなわち職業選択の結果が分かった後であり、その点で不当である。「それも累進課税に賛成票を投じるのは、だいたいはずれをひいた人なのだ。」p.297

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