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Garfinkel,Harold 1967→1987 『アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか』

ハロルド・ガーフィンケル 1967→1987 『アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか』

 

「どの社会でも。人々がある社会的地位から別の社会的地位に移ることは、厳重にコントロールされている。男から女へという性別(sexual status)の移動は、特に厳しい制約をうけている。それが許されるのは、儀礼的な色彩の非常に強い場合だけである。しかもその場合でさえ、ふつうそこでの性別の移動は、その人の「結局のところ本当の姿」の「単なる一時的なお遊びのバリエーション」とみなされる。こうした、おのおのの社会はそれぞれの社会集団の性別人口構成とその変動の在り方を厳重にコントロールしている。」p.1

→誕生、死、移住という3つのみが社会的に承認された性別変化の通路である。

 

〇性別の移動を経験した人々は「自分が選んだ性別で生きていく権利を獲得し、それを確保していく一方で、社会生活において男あるいは女として通っていく際に生じるかもしれない露顕や破滅の可能性に備えること、それを私は通過作業(passing)と呼ぶ」p.4を行うことが多い。

※メモ:passingはゴフマンが『スティグマの社会学』の中で同様の使い方をしている。

→彼らは通常の者とは異なり、性別をルーティン化することができない。逆を返せば「両性的な経験によってのみ、ふだんは見逃され、把握するのも困難な、このあらゆる場面の背景にある性別の関連性(relevance)を正しく評価できる。」p.5

 

 

アグネス

「アグネスは、正常な男性器をもった男の子として生まれた。出征証明書は男性として発行され、男の子にふさわしい名前がつけられた。17歳になるまでは、誰からも男の子として認知されていた。何時間にもわたる会話の中で、彼女は私たちに自分のこれまでの生活史を述べた。そのなかで何度も強調したのは、男性的役割は自分に向いておらずなかなかしっくりこなかったということだった。」p.7

→見た目は誰もが認めるスマートで美人な女性。1956年に「移住」を計画していた滞在先で性転換手術を受けた。

 

 

アグネス、あたりまえの女

「アグネスは、自分が女性としての十分なセクシャリティーをもっているかどうかを、実際いつも気にかけていた。彼女が自分のセクシュアリティーに対してもち続けていた関心は、一種のちぐはぐさを「常識」との間に生む。彼女のこうした関心のありようから、逆に私たちは(少なくともとりあえずは)正当に性別化された人間の示す奇妙な特徴を記述できるようになる。そうした特徴は、自分たちが男であるとか女であるとかということを自明視できる人たちの目には、ふつうはただ単にそこにあるものとして映っているのである。」p.10

「次にあげるのは、文化的対象としての、「ごくあたりまえのノーマルな性別をもつ人間」の特徴に関する予備的なリストである。この特徴を読むときは、つねに「私たちの社会の一人前の成員の視点から見ると」という前置きをつけて読まなければならない。この前置きは、成員の信念を人類学的にパラフレーズしたものである。」p.11

①「常人」から見れば、まわりの世界は「男/女」という2つの性から成り立っている。

 

②「常人」の集団は「男/女」に道徳的二分されている。

→こうした集団を正当な秩序として認め、それに服従するよう動機づけられている。

 

③また一人前の成員は、自らもそうした集団に帰属される存在だと考える。

→自己充足のためではなく、単に不要なリスクや障害を避けるために。

 

④正常な集団の成員は、本質的に、今でも、徹頭徹尾、「男」か「女」のいずれかである。

 

⑤正常な人々はあるシンボルが自らの性別を規定する本質的な機能であると考える。他方で、その他の行為や特性、関係などは一過性の付随的なものであると考える。

→ペニスやヴァギナの所有は本質的シンボル。

 

⑥正常な人々は「男/女」であるかを、成員の誕生の時点——つまり新生児に対して認定する(場合によっては、胎児の時点でも認定)。また死によっても認定は揺るがない。

 

⑦正常な人たちにとって、周りの世界の性別化された対象は「自然な事柄」という特徴をもっている。この自然という言葉の中には、正しさや正確さというセンス、すなわちこうすれば道徳的に適切だという意味が含まれている。

「私はこれまで何度も、真正の成員にとって「正常」ということは「しきたりに従う」ということだと強調してきた。だからごく自然でごくあたりまえのこととしてのセクシャリティーとは、自然でありかつまたそうであるべき道徳的な事柄としてのセクシャリティーを意味するのである。」p.14

→性別化を理論化することで、道徳的な要請から自由になることはできる。しかしながら「実際には、正常な成員は、自分あるいは他人のセクシャリティーを純理論的な関心事としては扱わない。」p.15

 

⑧性別化された集団を、ある時点でその男女の数を調べ、また別のある時点で調べるとする。常識的視角からすれば、性別間をまたいだ移動による数の変動は認められない。

→パーティーでの仮装や、スパイの変装など、一過的なもの——「演技をやめる」ことが前提化される場合が例外としてある。そのほかの場合は、前述のとおり「誕生」「死」「移住」の3つの場合に限定される。

→アグネスは先の通り「移住」とともに性転換を試みた。だから「彼女は、正常人のものの見方から逸脱しているわけではなかった。だからそういうことを知っているアグネスには、自分の行った選択を正当化しなければいけないというやっかいな宿命があったのだ。」p.17

 

⑨正常人による文化的世界では、男はペニスを、女はヴァギナを持っている。したがって、ヴァギナを所有する男、ペニスを所有する女という転倒も、分類困難だが原理的にはどちらかに区分される。

 

⑩アグネスは、手術以前はペニスを持った女性だった。そして手術後は、人造のヴァギナを持った女性だった。だがにもかかわらず彼女は、性別を持った人間の属する自然の集団のなかで自らのメンバーシップを主張することができた。「自然の代理としての役目を果たすものだとしたら、手術もまた十分にそうした資格の根拠となる。」p.20

「正常な成員にとって、性的メンバーシップのしるしとしての役目となっている性器は、それらとまったく同一の仕方で、<性別をもった人間の道徳的秩序におけるペニスとヴァギナ>から成っているのである。」p.20

→⑤や⑦の「自然」や「本質」といった表現は、こうした正常人による性の帰属の実践に関してで、哲学的地平における「性別」がここで問われているのではない。

 

「アグネスにとって、自分は自然な女性か男性同性愛者のどちらかだというよりも、自分は男か女かのどちらかだった。女性的な生活史、ボーイフレンドの男らしさ、それにマヒしたペニス等々の過度の誇張は、つねに彼女が主張していたこと、すなわち自分は一貫して女性であったということに対する身分証明を与えた。」p.23

「彼女は性器を、自分の女らしさを示す本質的なしるしから除外した。そして性器の代わりに、女性としてのセクシャリティーを示す本質的で自然なしるしを求めて、女になりたいという生涯にわたる願望と豊満な胸をあげた。」

→「女性」の帰属先として、アグネスは「120%の」女性呈示を行う。

 

 

自然で正常な女性としての帰属的特性の達成

  「自然な女性は、アグネスにとって1つの帰属的対象だった。正常な人たちと同様、アグネスは、自分の女らしさ(femininity)を、それを出現させている条件に対して独立しているものとして扱った。[…]それは、たとえ現実の外見や時間や環境を想像によって変化させた場合でも、本質的にまったく同一のものであり続けた。それは、あらゆる事態にも変わらなかった。」p.31

→他方でここには深くて暗い秘密が伴っていた。(元)男性が帰属されうる露呈である。

「アグネスは性別を変えるとき、自分の新しいアイデンティティーを過去の経験から予想できる出来事やさらには思いもしなかった偶発事に対して確保することに、特に慎重な注意を払っていたからである。アグネスのそうした作業は、他者の眼前で自分の外見を一つの対象として積極的に操作していくことによってなされた。」p.32

 

 

通過儀礼(passing)

 「社会生活を織りなす様々な条件の中で生ずるやもしれない露見や破滅の危険に備えながら、自分が選択した性別で生きていく権利を達成し、それを確保していく作業を、私はアグネスの「通過儀礼(passing)」と呼ぶことにしよう。」p.33

→彼女は人生を回顧して、通過儀礼によって自らを女性と思えた「本当に良い状況」も、逆に操作に失敗して露呈の恐れがあった「本当にひどいとき」も経験している。しかしここ問われるべきは「その事態が起こっている最中に処理されなければならなかったケース」である。このことを考えるにあたって、次のケースは有用だろう。

[ex1] 彼女がある保険会社に就職する際に、健康診断を要請された。問診で医師が下半身に触れるのを、「恥ずかしさ」を訴えることで回避しようと計画。それでも無理ならば、その場から言い訳せずに離れることも事前に検討していた。

→このように「彼女は女性としてのアイデンティティーを守るか、それともふつうの人並みの目標の達成の方を選ぶか覚悟を決めなければならなかった。そうした選択の機会がしばしば生じるということが、彼女の通過作業における特殊な状況だったのである。[…]世間並みの満足はアイデンティティーの確保という選好条件が満足された場合にのみ得られるものだったのである。」pp.37-38

 

 

通過作業の機会

〇アグネスの通過作業は以下のようなゲームによって整理できる。ただしあくまで便宜上のためで、多くのデータは構造的不一致を起こす。

※これについては後述される。肝心なのは、構造的不一致があるということは、ゴフマンのドラマツルギー論ないし社会学における合理的選択理論に対する強力なアンチテーゼになるということ。

①ゲームは時間的構造を持ち、プレイヤーはゲームの終わりを潜在的に推し量れる。

②ゲームが不利になれば、プレイヤーは降りたり、別のゲームに移行したりできる。

③「ゲームの中にいる」ということは、シリアスな現実上の手続きを一時留保している。

④プレイヤーはゲームのために、互いの生活史を与えられる。

⑤プレイは当初、閉ざされた断片的なものになる。実際にプレイの過程で関連性の構造(texture of relevance)に基づく全体像を与えられていく。

⑥ゲームは成功と失敗が明確に決定可能で、めったに再解釈を与えられることはない。

⑦プレイヤーがゲームの基本的規則に従うことに専念する限り、規則はプレイヤーの行為に首尾一貫性や効率性など、場面において合理的で現実的な定義を与える。

⑧ゲームに用いられる戦略は高度に即興的であり、成否の条件もプレイヤーにはわからないことが多い。他方でプレイヤーは進行状況や戦略から独立した規則を知っている。

⑨プレイヤーは規則に基づく効率的な手を打つ。プレイヤーは規則を知っているため、互いに打つ手を予期することもできる。

→こうしたゲームという枠組みはアグネスの通過作業を明らかにするのに役立つ。

[ex2]アグネスは秘密の露顕というリスクをおかすことなしに、友人と海岸に遊びに行った。しっかりフィットするアンダーパンツを履き、着替えに利用できる施設があることがわかると水着を着た。そうした施設がなければ着替えはしない予定だった。

※他にも例はあるが割愛。

 

 

ゲームモデルでは適切に分析されない通過作業の機会

〇ゲームの枠組みには収まらない例としては、以下のようなものがある。

[a]「秘密の見習い(secret apprentice)」……「レディーのような振舞い」の学習。

「前節で述べた単発のエピソード的な性格をもった機会とは対照的である。さらに、こうした機会においては、「規則」は、現実の相互作用の過程を通して、実際にその場面に参加し、しかしそこに含まれているリスクを受け入れることによってしか学ぶしかなかったのである。」p.41

 

[b]「察知による追随」……彼女は周りの人に対して、その人が出した質問にその人自身が応えるように仕向けていた。これはインタビューを録音したテープを解析することで、明らかになった。

 

 

状況操作のための道具立て再考

〇アグネスは同性愛者や女(男)装癖者とは異なり、「正常人」と同じ態度を共有していた。しかし「自分は当たり前女だと主張しても、他人がそれにどう反応するかはまったくわからなかった。彼女は、当たり前の女なのだという自分の主張を、たえずまわりのことに気を配りながら、考え考え、いろいろな工夫を盛り込みながら支えていかなければならなかった。」p.34

→確かにこうしたアグネスの通過作業は、ゴフマンによる印象操作の議論に親和性があるように思える。しかし、このなじみやすさは実のところ表面的なものに過ぎない。

※おそらく本稿はゴフマン流のアプローチに対する反駁の意図が強い。したがって、印象操作/通過作業の区別は極めて重要だと思われる。

 

〇まずアグネスの通過作業は合理的に行われる「演技」などではなく、むしろ「アグネスは、ゲームプレイヤーではなかった。「あたりまえの女性」は、彼女に課せられた制度的制約の1つであり、彼女が「非合理的に背負わされたもの」であった。[…]それは合理的選択を実際に実行するさいの「制約条件」となった。」p.66

〇したがって彼女の戦略(strategy)分析だけでは不十分であり、「状況操作のための道具立て」という表現も「アグネスが、実際の行為過程において、自分の実際的な環境をその関連性の構造をうまく操作することによって、どうにかして統御しようとしたというまさにそのこと」p.38が抜け落ちたものである。

→戦略分析は出来事がエピソード仕立ての場合しか通用しない。つまりアグネスのように長期にわたって継続して「女性である」ことを呈示する必要があるケースには適切ではないのである。

「こうした批判は、アグネスについて語るとき、彼女が女性として通過した(passed)という表現の不正確さを指摘することによって、不十分ではあるがまとめることができる。むしろ、彼女は、女性としての通過作業を行い続けた(passing)という能動態で表現することが必要なのである。」p.67

 

 

関連性の網の目をうまく操るための状況操作の道具立て

〇伝統的に社会学者は人々の合理性の条件として、慣行(rooting)を掲げてきた。しかし「人は水面に浮かんだ氷山の一角に過ぎない10分の1の部分を合理的に扱うために、水面下に隠された10分の9の部分を疑いのないものとして扱わなければならないのである。そして興味深いことに、この隠れた部分は、彼の行為計画に明らかに関連がありながら、気づかれることさえなく、決して疑問にふされない、出来事の背景として扱われるのである。」p.70

 

「もしゴフマン流の社会成員を現実の社会に住ませることによって、現実の社会の特徴を再構成しようとするなら、この論文の前半で論じたような構造的不一致にみまわれてしまうのである。」p.71そしてゴフマンのアプローチが孕む難点とは「思慮深さや事前の予測や、アグネスのいうところの「自覚」が、ゴフマン流の成員による印象操作の作業が持つ特性においては、一般的に欠如しているのである。」p.72

→そうではなくて「アグネスにとって、ルーティンは、特に慢性的に問題を孕むものだったのだ。ルーティンこそが、実際的環境を、思慮深く、計画的に、かつ効果的に操作するための一つの条件となるものだったのに。」p.74

 

 

アグネス、日常的な方法論の実践者

「彼女のおこなった実践活動によって、正常なセクシャリティーは、ことばや行動の目に見える表示を通して、場面場面において常に行われ続けている実際的な対人認知の過程として達成されるということが観察できるようになったのである。」p.84

→固定的な「正常なセクシャリティー」なるものではなく、対面的な力学の場における貴族の実践によって、セクシャリティーは規定される。

「ある成員が、ある状況において「正常なセクシャリティーとはどんな現象なのか」という質問をする際には、実はそのようにして達成された正常なセクシャリティーについての日常的な認知が、その質問自体の中に、その質問と互いに互いを織り成しあい映しあう(refractivity)ものとして織り込まれているのである。」p.85

→こうした日常的実践の中で、アグネスの特殊性は「社会的に認知され、社会的に操作されたセクシャリティーという「日常生活においてごくあたりまえになっている事柄」を、操作によって生み出されたものとして扱った」p.86ことに求められる。アグネスは多くの人が自明視する日常生活の活動を、「女性であり続ける」ために研究していたのである。

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