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Francis,David Hester,Stephen 2004 『エスノメソドロジーへの招待』

ディヴィッド・フランシス&スティーヴン・へスター 2004→2014

『エスノメソドロジーへの招待――言語・社会・相互行為』

 

1,言語・社会・相互行為p.3-34

○従来的な社会学

→相互行為を人の外部である社会構造/人の内部である心的現象の2面から説明してきた

○エスノメソドロジー

→相互行為それ自体が構造化されており、観察可能であると考える

→会話分析における隣接ペアやpreliminaryなど

 

○意味の不確定性から、行為者のsemanticsを退ける理論(機能主義とかか?)が隆盛を極めた時期があった。

→意味はコンテクストに依存して状況志向に決定されている language-game的な

○here and now における意味の構成=構造や心理に還元できないsemantics

 

○社会学はこれまで言語を周縁化してきた歴史がある。

○仮に注目したとしても、言語コード(Boorstin)のように社会構造によって言語が規定されているという一元的な視座でしかなかった。

○また逆に心理主義的な言説は個人の心的現象が言語を規定されていると説明する。

→言語それ自体が相互行為を構成しているという構成的な視点の不足

→シニフィアンがシニフィエを構成している

 

○社会学ないし社会科学はこれまで体系的に社会を説明できる理論を考案しようとpuzzling してきた。

→こうした試みによって科学的実践/日常的実践が乖離してしまう

→むしろ既存の社会秩序における、成員たちによるad-hockな秩序構成の方法論について観察していく論理(ethno-method-logy)が求められるのではないか

○ゆえに行為/構造、ミクロ/マクロの二元論はもはや不要である

 

 

 

2,エスノメソドロジーをするp.37-60

○パーソンズに師事したガーフィンケルによって設立

→ガーフィンケルは積極的にシュッツらの現象学的社会学を援用していく中でEMの発想に至る

 

○サックスの会話分析は主に2つのプログラムからなる

①連鎖構造の分析 ……順番交代の秩序 

②成員のカテゴリ化装置の分析 ……成員が自明視しているカテゴリ化を分析

Hot-rodder論文とか有名

 

○エスノグラフィーとはシカゴ学派における第三世代ブルーマーが定式化したSymbolic Interactionology を基礎とし、発展した社会学と人類学に主な手法

→科学的客観性の保持みたいな観点から嫌われたけど、そっちが先に倒れた

社会学における未踏の下位集団(Backer:マリファナ常用者やGoffman:アサイラム)に参与観察していく方向性を決定付けた←都市であるシカゴが土壌だから

 

→EMとの差異として、エスノグラファーが観察を単にリソースとして使うのに対し/エスノメソドロジストは観察それ自体を「観察された知識の受容」「観察された知識の構成・使用」という2点から再定式化していく点が挙げられる

→EMは観察をリソースとして用いる科学的観察をも観察する(二次的観察 Luhman)

 

 

○EMの問題設定の段階は以下の3つからなる

①まずwatchableな秩序に注目する

②そのwatchableな秩序はいかにして、成員にとって “watchable”なものとして認識されるのかを考える

③上述の秩序が観察・産出されるmethodに注目し記述する

→どの段階においても観察者はエスノグラファーのようなoutsiderではなく/insiderとして当該成員の用いる自然言語を習得していく必要がある

 

○EMの原則は以下の4つからなる

①社会学的な記述のrelevanceを明確にする

→従来的な「構造による主体の規定」/「主体による構造の規定」を手放しに想定するのではなく、あくまで秩序や行為の記述が状況志向的に決定されていることがEM的記述には望まれる

②メンバーの指向と理解がもたらす帰結に注意を払う

→「成員によって秩序が構成された」とする際には、それが本当に彼らによって指向され・理解なされていたかを明らかにせねばならない

③トークと状況にembedされた特性に注意を払う

→トークをコンテクストから絶対に切り離さない ガーフィンケルの言葉で”indexical”

④データが点検できる

→EMは日常的実践者の知識を再定式化したものに過ぎないので、必然的にデータは日常的実践者にも十分に理解可能であり、また点検できるものでなければならない

 

 

 

3,エスノメソドロジーと自己省察p.61-93

○社会学者は社会的な現象や秩序を観察する

→社会学者だからといって彼は特権的視座にいるのではなく/社会的コンテクストにembedされているため、自身を観察することもできるはず

→本章ではそうした身近なところで行える自己省察の可能性と方法について

[新聞見出しの分析]

「子ども死亡 母親逮捕」

○この見出しを社会の成員としての私たち見た時、「母親」の「子ども」であるということが一瞥するだけで理解される。

→サックス”Member Categorization Analysis”が自分の眼差しにも観察されるという省察

 

○サックスは成員カテゴリに以下のような特徴づけを行う

[標準化された関係対]

医者-患者、彼氏-彼女 などのセットで用いられる

[適用規則]

一貫性規則……あるカテゴリは一貫して用いられる(家族をカテゴリかするとき父、母、大学生、病人とはならない)

→聞き手の格率……会話秩序において同じコンテクストに登場する同じカテゴリは、別のカテゴリに所属すると考えなくても良い(先の例の「母」と「子ども」は親子)。

○以下では先の見出しを一瞥した際の直観を、同様に省察していく

 

[q1]なぜ母親が「警察に」逮捕されたと理解されるのか?

→サックス「カテゴリに結びついた活動」…「逮捕(charge)」という活動は、「警察」というカテゴリに結びつく

[q2]なぜ子どもを殺したのが「その子の母親」だと理解されるのか?

→「一貫性規則」-「聞き手の格率」から両者が親子関係にあるとわかる

[q3]なぜ「子殺し」が原因で母親が逮捕されたと理解されるのか?

→カテゴリ対になった行為……犯罪が「加害者/被害者」というカテゴリ対から同定されるよう、行為も「逮捕/犯罪」という対になったカテゴリから理解されている

 

 

○次にテレビニュースの視聴者としての自己を省察してみる

[テレビニュース視聴の自己省察]

AF:「夕食の魚をひったくられた77歳の女性が、病院で死亡しました。メアリー・ワトソンは、11日前、ニューカッスルのヒートン地区にあるフィッシュ・アンド・チップスの店を出たところで教われました。彼女は肩を骨折し、顔に大きな打撲傷を負いました。警察ではこの襲撃の目撃情報を求めています。」

 

[q1]なぜ「77歳の女性」=メアリー・ワシントンだと理解されるのか?

→一貫性規則における「聞き手の格率」を適用したくなるが、「メアリー」と「77歳女性」は「同一カテゴリの異なる人」ではなく/「同一カテゴリを担当する同一人物」であるため、「同じ成員カテゴリ(被害者)の担い手」という理解が適切。

[q2]なぜ「襲撃」=ひったくりだと理解されるのか?

→サックスの指摘によれば、会話は最初にtopicが指定され、その指定された情報が派生して会話が広がっていく。ゆえにsen1における「ひったくり」とsen4「襲撃」は対応関係にあると判断される

[q3]なぜ警察の求める情報が「ひったくり犯」のものであると理解されるのか?

→サックスは同一会話における登場人物はcueに従って出てくる。「犯人」ならば対である「警察」の、「妹」ならば同一カテゴリである「姉」の登場がcueとして機能する。

 

 

 

4,家族生活と日常生活p.95-127

○本章では前章のようにmonologueな活動ではなく、相互的な会話における連鎖構造に特に注目して分析される。

→日常的会話/専門的会話は、そのtalk in interactionの組織化のされ方で区別されるが、本章は前者を取り上げる。

 

[朝食をとりながらの会話1]

アンジェラ:ルーシーはもうソーセージはいらないの?

ディビッド:ルーシーはもうパンを食べたんだよ。

 

○まず基礎的なルールである「ターン制」「隣接ペア」が観測される

 

○サックス、シェグロフ、ジェファーソンによればこれは「完了したと聞けるもの(turn終了)」「重なり合い無しの規則」「隙間無しの規則」=「順番移行可能な地点」として同定される。

○アンジェラはディビッドに対して会話のslotを振り当てていると考えることができる。一般的に、会話におけるslotの獲得は、

①相手に受動的にturnを指定される 

②自分から能動的にturnを得る 

③誰も「順番移行可能な地点」に至っても誰もslotを得ないため、turnを続行する 

の3つの場合から達成される。

 

○またアンジェラの発話は「質問」の形式をとるため、「隣接ペア」が観察される。

→first componentによってrecipientによるsecond componentが規範的に請求され、請求に応じない場合は「不在」だと判断される

→同時にこの例ではアンジェラが「親」、ディビッドが「子」という成員カテゴリに属しており、「質問という形式をとることで、(自身の好物ばかり食べる子を)批難する」という家族カテゴリ特有の秩序も(他の家庭の会話にある程度共通見られるのならば)観察されることになる

 

 

[朝食をとりながらの会話2]

クレア:クロワッサンが欲しい?あなた(Baby)?

[1sec;ジョンは躊躇い、あるいは迷っている]
クレア:脂肪分50%カットですって?

ジョン:それなら……

 

○こちらの場合、隣接ペアを構成するパターンが「質問」ではなく「申し出」である

→「申し出」は「招待」や「要求」と同様/「質問と回答」や「挨拶と返答」とは異なり、second componentが複数の選択肢をとりうる。

→シェグロフらによれば、second componentにおいて肯定的選択肢の方が圧倒的に多くとられるpreferenceの規則が観察できるという(「招待」に対するsecond「いいね[肯]、だけど今日は都合がつかないんだ」)。

○またジョンによる1secの沈黙によって、クレアはfirst componentを「再」産出し、前の発話を精緻化している。

 

○クレアの”Baby?”という表現は「人生の段階」を強調する成員カテゴリの1つである

→クレアの幼児性の強調に目をやることで、両者間の親密性をうかがうことができる。

○また「クロワッサンを食べている」といった同一の成員カテゴリの担い手として、ジョンに申し出を行っているとも分析できる

 

 

 

5,公共の場所に出かけるp.129-165

○今回はパブリックにアクセス可能な場所における秩序を観察する

→倫理上・研究機材上の問題から3章のような自己省察の手法を用いる

 

[カテゴリ化と共在]

○通りにいる人々はせいぜい一瞥しあうくらいのもので、互いに関わろうとはしていない

→ゴフマンのcivil in-attainment……「集まり」における関与を最小限に抑えることで、face engagementが生じるのを避けようと試みる

→ただしゴフマンは無関心の規範を社会構造に帰するため、EM的にはよろしくない/成員のrelevanceに準拠した秩序として捉える必要がある

○またこの議論で前提化されている「自分/stranger」のカテゴリ区分は雑過ぎる

→カテゴリもまた状況にembedされているため

 

[知らない人と話す]

○ゴフマンの指摘するcivil in-attainmentがある他方、見知らぬ人と通りで会話をすることもある

→サックスによれば見知らぬ人との会話における開始turnには「こんにちは」などの挨拶よりも/「すいません、○○はどこですか?」などのより限定的なtopicが配置されることが多い

→topicをあらかじめ限定することで、会話にopen-endな性格を付加している

○しかしゴフマン・サックスの両人が主張しているよう、居合わせた成員に共通の志向性が生まれる出来事(例えば災害など)が生じた場合、必ずしも会話はこの形式をとらない。

 

[行列を作る]

○リヴィングストンによれば、行列には参与者によって生成されるorderがあり、諸成員には秩序を乱す「逸脱者」にsanctionを与える/また「逸脱者」にならない義務が発生する。

→しかしながらsanctionの度合い・タイミングは逸脱者の成員カテゴリ(お年寄り、若者、障害者)に依存している。

 

○リーとワトソンは地下鉄の乗車風景をビデオ録画し、一列ではない行列を観察した

→電車に乗り込むにはいくつかの人の集合的固まりが存在し、それが ①いざ乗車するその場で達成される形式で ②多くの場合極めて参与者が協力的に orderを構成する

→「行列作りのunit」……行列に並んでいる各人は他の人々に対して「自分は○番目」という序列カテゴリに配置される。その序列カテゴリに則って乗車は行われることになる。

 

 

 

6,助けてもらうためにトークを使う p.167-194

○2・4章で確認されたよう、会話分析は(会話がすでに儀礼的に組織化されている場合を除いた)特定のコンテクストに注目して分析を行う

→以下の章では様々な「制度的場面における会話」の例を見ていくが、例示される限定的場面の方が、会話の連鎖構造が予期しやすいといえる

○本章では公的機関(自殺防止機関、緊急サーヴィス機関の会話分析)における「救援要請」の場面

 

[自殺と成員カテゴリ]

○サックスの有名な研究「助けを探し求めること」は、自殺志願者-カウンセラーのやりとりが、ほぼ例外なく「相談できる相手の不在/相談できる相手が実はいる」を掛金として展開されていることに注目する。

[事例1]

カウンセラー:あなたには、だれか頼りにできる人がいませんか?

相談者:いません.

カウンセラー:親友も、友人も、ですか?

相談者:いないんです.

 

[事例2]

カウンセラー:えーと教えてください. どちらか近しい人はいらっしゃいませんか?友人とか家族とか、連絡してまぁあの、今晩、あなたが気が滅入っているのを助けてくれるような?

相談者:だからそんな人がいたら、けして、けしてここまで追い詰められなかったでしょう.

→こうした相談者の一点張りに対し、カウンセラーはガールフレンドや家族といった身近な成員カテゴリから相談者の「助けを探し求める」。

 

○また相談者がstrangerとしてのカウンセラーに「助け」を求めることに対し、きまりが悪そうにする発話も体系的に観察される。

[事例5]

相談者:たぶん、電話したのは間違いだったかもしれません. わかりません. でも私が言いたいのは…….

カウンセラー:なんでそう思うのでしょう?

相談者:ええと、ほら、知らない人に助けてもらおうとしている. そんな感じなんです.よくわかりません. とても、あのう […]

 

○サックスはこれらを「標準化された関係対」から構成される「集合R(relationship)」及び以下のサブカテゴリから再定式化する。

集合Rp……カウンセラーは相談者の助けをこの集合から探し、相談者に提案する。パートナー-パートナー、親-子、兄-弟、姉-妹など

 

集合Ri……一般に助けを求めるのがふさわしくないとされるカテゴリ。相談者にとっての全ての人。単一の対であるstranger-strangerから成る。

→さらにカウンセラー-相談者のカテゴリ対が、相談者にとって「集合K(knowledge)」に含まれるのであれば「専門家-クライアント」のカテゴリ対が成立し、相談者のきまりの悪さも観察されないと考えられる(専門家にクライアントが相談するのは当然である)。

 

 

[警察に通報すること]

○recipientにとって「助けが必要か/否か」の判断は、要請者の置かれている状況に依存して下される。次に警察への通報の場面からこれを考察する。

[事例7]D=通信指令係  C=電話通報者

01 D:中央地区緊急

02 C:えーとはい、だれかが、たったいま私の車を壊したんです.

03 D:あなたの住所はどちらでしょう?

04 C:エルム街の、33-22

05 D:ここは一戸建てアパートでしょうか*

06 C:一戸建てです

07 D:えーとあなたのお名前は?

08 C:ミンスキー.

09 D:どう書きますか?

[…]

○ウェーレンとジンマーマンによれば一般的会話のopeningが6-8turnあたりまで延びるのに対し、緊急通報はたった1turnで終了、最短もしくは極力短いやりとり(03)で要件に移るのが特徴だという。

→「openingの行為連鎖の切り詰め」によって、緊急時である/緊急時に対応するといった互いのカテゴリをコンテクストに反映させている。

○シャロックとターナーによれば、通報者-オペレーターは「crass1のトラブル」を早急に伝達あるいは読み取りをしなければならない

→「crass1のトラブル」……万人が認める通報案件かつ通報義務が目撃者に生じる案件でもある

→オペレーターがcrass1か判断に迷う場合は質問を重ね、必要な情報をsecond componentから引き出そうとする。

→サックス「記述語の共選択」

 

 

 

7,教育を観察する p.195-228

○本章では教育活動における実践を観察する

 

[大学の講義]

L:こんにちは.

(4.5)

《先生が配布資料の束を、最前列に座っている学生たちに手渡す。学生は、仲間と話すのをやめ、先生の方を見る》

L:二つの配布資料があるはずです()ひとつは(.)ホッチキスでとめてある2ページあと()1ページだけのもの.

[…]

○ペインによれば教育的実践は、

①教師-生徒という対カテゴリが共在し、それが当該成員に理解されている

②openingは講義の開始として理解される

の2つの特徴からなる。

→このtranscriptでは「①教師の成員カテゴリ」「②開始の合図」が共に「こんにちは」という挨拶によって示されている

→「こんにちは」といった言語には客観的・普遍的意味はなく、ガーフィンケルがいうようにindexicalに規定された意味があるだけである

○また授業開始の合図は”instruction-complaisance”のcomponentから構成される隣接ペアと解釈することもできる

→この場合、次の行為連鎖のための導入―「先行連鎖」の機能を果たす

 

 

[新入生受け入れ学級での相互行為]

01 T :こっち来て、カーペットの上に座って

02  《子どもたちがカーペットに集まる雑多な音》

03 T :私たちはもう少しで準備ができますね.

04 《子どもたちが、カーペットに位置を確保し、座る姿勢になる、

05  このとき、全体にざわざわした音がしている》

06 T :はいそうですよ、さて準備ができたのは誰かな.トニーができた.

07  あとウェンディもできてる. ケビンもできてる. あらあら

08  それからボビー. あらあら. もう準備ができているひとがたくさんいますね

[…]

○先の講義よりも秩序が無いが、教師による01の発話はやはり”instruction-compliance”の隣接ペアにおけるfirst componentを構成している。

→子どもたちは学校に来て1週間しか経っていないため、服従を引き出すよう試みると同時に学校空間における秩序を教示しようとしている

○また06-07におけるリストは、準備ができた子どもを記述し承認/できていない子を注意という2側面から機能する

 

○ミーハンはこうした学校空間における教師-生徒間の教育的行為連鎖を全て「導入-反応-評価(IRE)」の3段構造から説明できると主張する。

→確かに教育的な行為連鎖がこうした構造をとることも多いが、過剰な相互行為の固定化はEMの利点を損なってしまう(現にこの構造には合致しない例もある)

 

 

 

10,科学を観察するp.297-326

○本章ではそれほど一般的ではない実践としての自然科学にEMの眼差しを向ける

→特にコリンズやラトゥールらのSociology of Science Knowledge(SSK)と対比

→EMは日常的実践の延長線上に位置づけた上で科学知識の状況志向性に着目(一般化はしない)/SSKは外的観察者として科学知識の社会的構成過程に注目

 

○17-18世紀以降、近代の歴史において自然科学は客観性・合理性・真理性・絶対性といったアウラに包まれてきた。

→ポパー(60年代)はパラダイムの存在を指摘しつつ、こうしたアウラそれ自体を完全に否定することはなかった

→70-80年代に入りscience warなどの運動に代表されるような自然科学に対するconstructionismが全面化する中、SSKも登場した。

○SSKは科学における ①定義が恣意的に決定されていること(対象と定義に必然的結びつきは認められないこと)②「知識」がいかにして科学者に共有されるかということ の2点を分析していく

 

[Sociology of Laboratory]

○コリンズは自然科学における「理論」と「論拠」の間にある論証過程が外在的要因(研究者の体調、やりとり、その日の天候など)を看過しているとし、当初に行われた実験の完全再現をするためには「研究者の無限交代」に陥ると指摘した(いわゆるontological gerrymanderingの問題)。

○ラトゥールとウールガーはさらに歩を進め、自然科学における「事実」とは当該の研究室の内的営為によって構成され、その成員たちが共有する共同的主観に過ぎないと考える。

→SSKは科学知識が現実世界と必然的結合関係にはない単なる観念であると考える

→ソーカル「物理学を単なる社会的因習に過ぎないとするならビルの21Fから飛び降りてみればよい。」

○このようにSSKは科学知識と自然科学の間にある恣意性を暴露することがあらかじめの当為として前提化されており、ある種のironyな態度を貫徹する

→「いかにして自然科学的知識が構成されるか」といった問題提起に基づいていない点において、観察的であるとはいえない/そもそも観察してみないと両者が癒着関係にあるか否かも明らかでない

 

 

○他方でEMは ①自然科学に対して当為論から接近するのではなく、単にその発生過程のコンテクストに着目する ②そのためironicalな態度をとらず、ゆえにSSKのような外的観察者にもなりえない

→以下ではガーフィンケルらによる著名な分析を見てみる

 

[Garfinkel, Lynch and Livingston 1981]

○ガーフィンケルらは可視光パルサーが発見された際、たまたま記録されていた観測室での会話をtrance scriptに起こし、発見者たちの相互行為を通して「このパルサーがどうやら新しく発見されたものである」と解釈されていく過程を明らかにした

→この時パルサー発見の真理性それ自体は天文学の領分の話なので踏み込めないし、パルサーの観念が観測者によって構築されたということを強調したいわけでもない(SSK的態度との峻別)

→EM的には観測者たちは確かにパルサーを発見しており、その過程がlocalなコンテクストに依存していたというだけの話である

 

○このようにEMはSSKなどとは異なり、科学的知識の産出を実験室というコンテクストに埋め込まれた、科学者たちの能力や推論に基づくものだと考える。

→分析上の問題点として、ある程度は自然科学に精通していなければ―自然言語として獲得していなければ観察が困難であることが挙げられる(実際にリンチは脳科学の分析をしたとき猛勉強せざるをえなかったらしい)。

→このことは再帰的に「社会学の知識」もまた専門化・体系化された科学知識の1つとして問うことができることも意味している。すなわち自己省察。

 

 

 

11,エスノメソドロジーの原初的な性格 p.327-353

○本章で簡単にEMの難解なポイントやそれに基づく批判を整理して本書の幕を閉じる

 

[難解な点]

○ethno-methodologyが社会学領分としての名称であると同時に研究対象も指示している

○indexicalやrefractiveなどの日常的感覚からはやや掴みにくい概念が登場する

 

[不完全だと誤解されている点]

○デュルケム以来、社会学は「社会構造による行為の規定」あるいは「社会構造によって諸個人に内面化された規範」の所在を問うて来た。またパーソンズの理論などに典型であるよう、こうした社会学者「のみ」観察することができる社会構造-規範に、社会学の固有性を求める主張は根強く存在している。

→この点EMは必然的に相互行為にしか注目できないため、従来的な表現でいうところのマクロ社会学的領分を観察できず、ゆえに不完全であるとする批判が往々になされてきた。

→対してEM側からの応答は以下の3点に整理できる

①なぜ社会学者のみが各人の従う規範を認識できるのか?

→ガーフィンケルらの「一物一価の法則(Parsons)」の反証実験や本書で取り上げた例が示しているよう、規範は社会の成員によって自明でありながらも、遡行可能なものである。ゆえにパーソンズらが想定するような特権的な社会学者の視座は存在しない。

②社会構造-行為規範の二元論がそもそも社会学のスキーマである

→あくまで「構造 対 行為」は社会学者の知識に基づくものであり、観念上の話であることは留意しておく必要がある。ゆえにそれを否定したところで普遍の真理を犯したことにはならない。

③EMの射程と棲み分け

→EMは確かに状況志向的な相互行為にのみ注目するが、それすなわち社会学としているのではなく、単に理論的射程に含まれるのが相互行為なだけである。ある概念の歴史的恣意性を看破したいのであれば、EMより概念史を遡行するアプローチの方が明らかに適しているだろう。量的調査やエスノグラフィーなども同様である。

 

○従来的な構造/主体性の脱構築EMは相互行為に注目する点で構造よりも各人の主体性に注目するものであると捉えられてきたが、それは誤解である。

→単に「構造」を想定から排しているだけで、コンテクストによる各人の(発話や成員カテゴリの)規定は考察されており、主体性といった古い概念は他の社会学同様に用いられてはいない。

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