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ギルバート・ライル 1949→1987 『心の概念』

 

第一章 デカルトの神話 p.5-22

1 公式教義(the official doctrine)

人間はすべて身体と心をもつ。あるいは、あらゆる人間は身体であると同時にまた心であると述べる方がよいかもしれない。そしてこの身体と心は通常は互いに繫ぎ留められているが、心は身体の死後においても存在し続けることができる。  p.5

○これが公式教義と呼ばれるもので、デカルトに由来し、それ以降の学者に問題点を認められつつも今日まで信仰されてきた「神話」である。

→本書の目的はこの公式教義の論駁にある。

 

○公式教義において、人間の歴史(人生)は以下の2つに分けられる。

(1)公的(public)あるいは外的(external)……他の動物と同様の身体的振る舞いで、外部の観察者によっても認識される。

→こちらで生起する出来事は物的世界における事件である。

 

(2)私的(private)あるいは内的(internal)……人間の心的過程や状態のこと、外部の観察者によっては認識できず、その人しか知りえない情報。

→こちらで生起する出来事は心的世界における事件である。

→外的/内的という対比は比喩的なもので、心のうちに実際に空間があるわけではないため内的という表現は誤っている(がこうした比喩を自明視する言説は多い)。

 

○また上記のことから以下の事実が帰結する。すなわち、物質的領域における出来事は「空間」として、心的領域おける出来事は「心」として表現される。

→そして後者は外部との関わりを持っていないため、我々は心的領域において、あたかもロビンソン・クルーソーのように孤立した生涯を送る。そして公式教義の主張によれば、心は意識といった表現に象徴されるよう、絶え間なく流動している。

 

○問題なのは公式教義の信仰者が、少なくとも通常の状態における心の流動性を直接に把握しており、また誤謬もないと言い張る点にある。

→しかしせいぜい振る舞いや表情からしか他者の心にアプローチできないにもかかわらず―つまり他者の心への特権的接近手段を欠いているにもかかわらず、この主張を行うのは明らかに謬計に基づいている。

→心への接近が保証されるのは、その当人のみである(心は私秘的である)。

 

 

 

2 公式教義の不合理性

○公私教義の概観と問題点が明らかになったところで、以下のところでこれを蔑称として「機械の中の幽霊のドグマ(the dogma of the Ghost in the Machine)」と呼ぶことにする。

→つまり公式教義はディティールの誤謬などではなく、ドグマ化した包括的な誤謬である。

○またその形態としては「カテゴリー錯誤(category-mistake)」とでも言えるもので、すなわち心に適用される従来的なカテゴリーないしは論理的タイプがそもそも間違っているというわけである。

→というわけで論駁に先立って、カテゴリー錯誤の例を以下で紹介する。

[ex] オックスフォード大学を始めて訪れた男が、大学の研究棟やグランド、図書館など隅々まで見て回った後に言った。「私は大学のどこで実験が行われるか、講義が行われるか、事務が行われるか見せていただきました。しかし肝心の大学はどこにあるのですか?」

→この男の勘違いは、「大学」が、クライスト・チャーチやビックベン、アシュモレー博物館などといったメンバーに適用される「建築物」のクラスであると考えた点にある。

 

○この例に顕著なように、カテゴリー錯誤とは、ある概念の適切な適用を知らない人の犯す誤りである。

→興味深い点は、カテゴリー錯誤が我々の日常生活においては全く問題とならないのに対し、抽象的な考察をするときに限って顕在化するということにあるだろう。例えば以下の例のような日常的な錯誤は考えにくい。

[ex] 「ジョン・ドー氏」は「リチャード・ロー氏の親戚、友人、敵」などに含まれる論理的タイプの名辞であると考えることはできるが、「平均的納税者の親戚、友人、敵」といったクラスに含まれる名辞であるとは考えられない。

※この例はまさしくハーヴェイ・サックスのいう「成員カテゴリー化の一貫性規則」。

 

○公式教義における公的/私的あるいは身体的/心的といった二重生涯論(double-life theory)は、まさにこのカテゴリー錯誤が引き起こす誤りである。

→つまり「思考、感情、意図といった心的現象は、物的世界における身体とは異なるカテゴリーに含まれる対象であるため、物理学や化学とは異なる言語によって説明される必要がある」という説明が、「人間を機械の中に住む幽霊」のような把握の仕方をもたらす源泉である。

 

 

 

3 カテゴリー錯誤の源泉

○そもそもなぜデカルトは心身二元論というカテゴリー錯誤に陥ったのだろうか。おそらくガリレオら自然科学が発達していく中で、そうした機械的説明が人間の心的説明と相似形の問題であるということが受け入れられなかったと考えられる。

→この問題を回避するためにデカルトは以下の2つの区分を設けた。

(1)理知的intelligence……機械法則のような、空間的因果が認められる動作

 

(2)非理知的unintelligence……非機械的で、空間的因果は認められない動作

○上述の前者は身体を、後者は心を解するモデルとしてそれぞれ適用された。

→しかし機械的/非機械的という区別は同様に機械的というクラスに依拠している。この点でデカルトらの主張は擬似機械論的仮説であったと結論付けられる(デカルトは非自覚的に力学的モデルを採用してしまっていた)。

○よってデカルトの主張には、身体という機械の中に、心という実体を持たずかつ機械的なもの―すなわち幽霊機械を想定しているという批判が先述の通り可能だろう(「機械の中の幽霊のドグマ」)。

 [ex] 理知的/非理知的が同じモデルから把握されているということは、外的な観察によっては理性的/非理性的の区別も不可能であることになる。

→よって健常者/精神異常者の区別も原理的には不可能である。

 

○整理すると、デカルトの怠慢は身体/心の区別の明確な基準を設けなかった(両者を同じもでるから把握した)点にあった。

→ゆえに理知的な行動/非理知的な行動の間にある因果関係を捕捉することを不可能にしたばかりか、その推論すら不可能にした。

 

○公式教義のカテゴリー錯誤は、ちょうど以下のような異なるカテゴリーに含まれる名辞を、同一の連言命題(選言でも加)に含めるが如く馬鹿げている。

[ex] 彼女は帰宅すると「涙の海∧ベッド」に顔を沈めた。

   彼女は帰宅すると「涙の海∨ベッド」に顔を沈めた。

→つまり公式教義の掲げる「『身体的∧心的』過程が生起した」といった命題は先述の通りカテゴリーの混乱に基づいている。換言すれば身体と心は同一のカテゴリーではなくて、異なるカテゴリーに含まれる名辞である。

○さらに唯物論と観念論も否定されることになる。というのも前者は「¬身体的過程∧心的過程」という問いの立て方をし、後者は逆に「身体的過程∧¬心的過程」という問いの立て方をするが、いずれにせよ異なるカテゴリーの名辞を、同一の連言命題から考えている点においてカテゴリーの錯誤が生じているからである。

※ライル頭いいな。なるほどだわ。ちなみに[{(¬p∧q)∨(p∧¬q)}⊃(p∨q)]だから、選言の場合でも「身体的過程∨心的過程」になって錯誤に陥っていることになるね。

 

 

 

第二章 方法を知ることと内容を知ること p.23-78

1 まえがき

○本書で示されるのは、公的に表出される行為の記述によって明らかになるものとは、何か私秘的なエピソードであるわけではなく、単に公的に表出されている行為であるということである。

→「上の空における行為」と「意図してなされた行為」の相違点は背後に存在する行為規則などではなくて、説明可能で予測可能な主張に基づいている(※EMかよ)

 

 

 

2 理知intelligenceと知性intellect

○最初に説明される心的表象は「理知intelligence」ないしは、それに含まれる一連の概念群である。

○まず注目すべきは「愚かであるstupid」/「無知であるignorant」の区別である。

→「馬鹿である∧物知りである」は成立するため、両者は対立項ではない(両立可能である)。つまり「理知的であること」は知識の所有量に依存しない。

→一般人も哲学者も「知識」という言葉によって心的表象の核を表現するきらいがあるが、これは誤りであるということがわかる(理知は知識と必ずしも相関するわけではない)。

 

 

○ゆえにまず論駁すべきは、理知の正当性を客観的真理と照らし合わせることで確認する理知主義者の主張である。

→彼らは思考を内的な独白として把握し、理知に基づく理論化は無言の実践であると履き違えている。しかし、黙読や暗誦が一般的になったのは中世以降であるという事実が裏付けるとおり、無言であることは理知における本質的な重要事項ではない。

 

○「理論化が心の主要な活動である」という仮定と、「その作業が私秘的な独白である」という仮定は先述の「機械の中の幽霊のドグマ」に基づいている。

→すなわち心が何らかの作業を行う「場所」であると考えてしまっている。

 

 

 

3 方法を知ることknowing howと内容を知ることknowing what

○「鋭敏なshrewd」「間抜けなsilly」や「慎重なprudent」「軽率なimprudent」といった語によって、人は人に理知性を帰属する。

→しかしこれらの語の使用は、「ある人が真理を持っている」ことを述べているのではなく、「ある人が何かを遂行する仕方を知っていることknowing how」を述べている。

→例えば「無知である」という嘆きは、実は「無知を結果としてもたらす愚かさ」を嘆いているのである。

 

○理知的であることの帰属は、一般に「行為者がその行為を遂行しているときに自分がなにを考えているか十分に知っており、またその何を行っているかということも考えられる」際になされる。

→主知主義者はこの一般的主張を論拠にして、「何らかの格率や規範命法が行為に先立っている」そして「行為はそれら前提となった理論に従った帰結である」と主張する(熟慮→実行の流れ)。

→この主知主義者による主張を、以下の3点の論拠から反駁する。

(1)理知的に示されていても、従うべき理論が未だ示されていないような行為が存在する。

[ex1]機知witに富んだジョークを飛ばせる人に対し、そのジョークの格率や規則を教えてくれと

頼んだところで、おそらくその人は答えられないだろう。

[ex2]論理的な繋がり(三段論法)を最初に提示したのはアリストテレスだったが、アリストテレス

以前の人も、おそらくその格率に従うことなくとも、理知的な生活を営めたはずである。

 

(2)「熟慮a→実行」という図式で説明すると、「熟慮a」もひとつの実行であるため、そのための「熟慮b」が必要となり、以下無限後退に陥る。

 

(3)仮に理論を熟慮しているとしても、その理論の適用の仕方を知っていることにはならない。

[ex1]兵士がクラウゼヴィッツの戦略原理を知っていても、その是認だけでは理知的な将軍にな

れるわけではない。

→よって「理知的である」は理論を「知っている」に還元されないことが明らかになった。ある行為がなされるとき、必ずしも特殊な先行者を必要としないのである。

 

 

 

4 主知主義者の説話の動機

○「機知に富んだ」「ユーモアである」といった語の帰属は外的に観察される「筋肉の動き」や「音声」に基づくものではない。それがゆえにドグマに陥っている人々は、「機械」ではなく、その内面にいる「幽霊」にこの語を帰属する。

→しかしそもそも見えない・聞こえないことが「機知に富んだ行為」「ユーモアのある行為」、すなわち理知の判断の基準ではない(これらは帰属に関して重要ではない)。

 

○以下の例を考えてみるとよいだろう。

[ex]「道化師が舞台でつまずく」/「不器用な人が路上でつまずく」

→前者に対しては「機知に富んだ」が帰属されるかもしれないが、後者にはおそらく帰属されないだろう(おそらく「愚かだ」等)。

→両判断の相違は実際に「目で見ている」ことの相違に基づくため、先の反証になる。

→しかし「道化師の仕草は彼の私秘的な心の営みに基づくものだ」とすることで、依然として「機知」の帰属が「見えない(聞こえない)」に依拠するものであるという主張がありえる。

○この反論を捌くために、「心」という語の定義を再構築する必要がある。確かに「心」は私秘的で内的な独白も可能にする。しかし、「心の中in the mind」が公的な表示がされるような場合も十分にありえる(※ここなにげに決定的に重要では?)。

[ex] ある人が何かを考える際、声に出したり、紙に書いたり、一つ一つステップを着実に踏みながら、検討を行う場面においては、むしろ心が外部に表示されている。

→視覚情報・音声情報を伴った心的能力の行使は実際に行われている。

 

○「頭の中でin the head」という表現がなされるが、これはある考えが「浮かんだその人に独占される」ということを意味するのではなく、単位便宜上のプライバシーが意味されているだけある(個人的ではあるが、秘密的ではない)。

○さらに「上の空」であることは単に外部に表示されるだけに限定されず、内的会話においても徒然と言葉が浮かぶことがある。

→整理すると、言語的作業が「知性の行使か/上の空か」ということと、「私的か/公的か」ということは互いに独立しているのである。

 

 

 

5 「私の頭の中」in the my head

○「頭の中」という慣用表現は、「脳の過程」と「知的過程」の両方が含意されているような言い回しである。しかし、これが比喩であるのは間違いない。

[ex]「頭の中にチャイコフスキーが演奏している」といったときに脳を開けても、実際にそこにチャイコフスキーがいるはずはない。

→脳を使わずに計算をすることはできるし、逆に紙に計算を書きなぐっている方が脳を使うこともありえる。

 

○頭の中に響く音は、物質的なもちろん音声ではない。

→耳を塞いで大声を出すと確かに頭に響く音が出る。しかしこれは明らかに「頭の中で」という慣用表現の使用例には該当しない。

○「頭の中で」という表現は、太古の遺跡を発見した際に「私は40万年前の光景を『見た』」の「見た」と同様、実際に起こったことの報告ではなく、比喩的な、いわば洒落た表現である。ゆえに厳密には括弧をつけて書くのが適切だろう。

→またこれらは想像の産物であるがゆえに、目をつむったり、耳を塞いだり、鼻をつまんだりすることによって情報をシャットアウトすることはできない(むしろより鮮明なものにしてしまうかもしれない)。

 

○また比喩的な意味での距離の近さを強調することによって、実際の空間的距離の遠さを否定するような表現もありえる。

[ex] 「外的実在ではなく内的幻想」

「遠くに行っても、近くにいるようだ」

→このことは次の2点の帰結をもたらす。すなわち、

①自分自身の発した音を鮮明に想像する場合、音を表すための適切かつ豊かな表現であるということ。

②自分自身によるものだけでなく、あらゆる想像上の音や想像上の風景を表現すんするためにも適切かつ豊かな表現であるということ。

→「頭の中で」という表現によって、遠隔性が否定され、単に想像上のものに過ぎないということが含意されるからである。事実、「頭の中で」や「心の中で」といった表現は、「想像上の」とほぼ同義で使用されることがある。

 

 

 

6 方法の知識に関する積極的な説明

○以上で理知的知能に基づく行為が、熟慮と実行の二段階から構成されるわけではないこと、また哲学者が往々にしてそのように考えたくなってしまうことの2点が確認された。

 

○規則を知っていること/使えることは先述の通り異なる実践である。

[ex] 少年がチェスのやり方を学び、禁じ手や正しい手に関する規則の正確な記述をすることができなくても、実際に彼がゲームを行えるということは十分ありえる。

→規則をゲームに適用できるということは、規則を厳密に定式化できないということとは全く異なり、対立項でもない。

→実践によって方法howは獲得されていく

 

 

 

7 理知能力と習慣

○第二の天性(アポステリオリに獲得される能力?)はすべて習慣とされることがあるが、理知的な行為は非理知的な行為は区別される必要がある。

→後者が以前の行為の単なる反復であるのに対し、後者は以前の行為に何らかの修正を加えている行為であると整理することができるだろう。

→つまり理知行為は習慣とは区別される必要がある

 

○習慣/理知行為の区別は、そのアポステリオリな能力の獲得過程から区別することができる。

→前者は反復練習drillから獲得されていくのに対し、後者は訓練trainingによって形成されていく必要がある。つまり反復練習は条件付けを繰り返すことで達成されるが、訓練はこの繰り返しに加えて、一つ一つの作業の遂行がそのたびに吟味される必要がある。

→さらにもう一点、習慣/理知的行為の区別における重要な相違点があるが、それを検討するために、傾向性dispositionの概念を明瞭なものにしておく必要がある。

 

 

○傾向性の例は以下のようなものである。

[ex] 「ガラスは砕けやすい」

→ガラスの粉砕が現実化していない状況下においても、その砕けやすさは潜在的にはある。この潜在的な可能性について言明する場合、「ガラスは砕けやすい」という傾向性が含まれることになる。

→傾向性を帰属することの要点は、法則性の帰属と似ている。法則性も傾向性も必ずしもその法則ないしは傾向が目に見える形で顕在化している必要はなく、想定される可能性として言明の中に表れることもある。

 

○傾向性を検討する場合、先のような「ガラスは砕けやすい」あるいは「Aは喫煙習慣を持つ」といった単純なモデルに注目することが第一段階としては有用である。

→傾向性記述のうちに暗黙裡に含意される、仮言命題を明らかにできるからである。

[ex] 「愛煙家である」という傾向性記述には、すでに「一定の状況下で火をつけたタバコを口にくわえる」という仮言的命題が含意されている。

○しかしながら、傾向性記述の検討をさらに一歩進めると、こうした単純な含意では捕捉しきれない仮言命題が想定されることになる。

[ex] 「鉄の塊は固い」

→強度という傾向性から、それに関する仮言命題のみならず「叩いたら鈍い音がする」「高所から落下させると危険である」などなどが導出される。

→様々な切り口から、傾向性を規定する概念は確定可能determinableである。

 

○そして人間の傾向性も極めて高度な形態をとる。

[ex] 例えばジェーン・オースティンは『高慢と偏見』の中で、主人公の「高慢」を単一の傾向性から記述するのではなく、様々な場面における彼女の振る舞いを記述していくことによって、「高慢」な傾向性を表現することに成功している。

 

○認識論者は傾向性を斉一なものとして考えているふしがあるが、これは明らかに経験的事実に反する。

→ある人に「地球は丸いと信じている」という傾向性が帰属される場合、認識論者の見解に従うのであれば、その人は四六時中寝ているときも、食事のときも「地球は丸い」と信じ、考えている必要がある。

○そうではなくて、先述の通り傾向性は潜在的な可能性に関する記述を含み、一般に潜在的である場合が圧倒的に多い。

 

 

 

8 理知の行使

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