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Hebdige,Dick 1979→1986 『サブカルチャー——スタイルの意味するもの』

ディッグ・ヘブディジ 1979→1986 『サブカルチャー——スタイルの意味するもの』

 

序文 サブカルチャーとスタイル p.11-15

〇我々がサブカルチャーに関心を抱くのは「ジュネの「自然に反する」性的関心と、警官たちの「正当」な激怒が、わずか一個の小さな物体に矮小化されるように、支配グループと下位グループ間の緊迫関係が、サブカルチャーの表面、すなわち二重の意味を持つ日用品でつくりあげたスタイルの中に、反映されているからである。」p.13

→サブカルチャーは多義的な語ではあるが、本書ではその「スタイル」としての意味に接近する。そしてこの過程はジュネが小説で描いたように、「当然の秩序に反する犯罪」から始まる。

 

Ⅰ p.17-37

〇文化の概念は従来的に2つの曲線から構成されてきた。

①古典保守的定義……過去と、階層的に秩序付けられた社会の封建的理想としての

 

②文化人類学的定義……未来を目指し、労働と余暇の区別をなくそうとする社会主義的ユートピア志向としての

→第二の定義はレイモンド・ウィリアムズがいうところの(特定のジャンルに回収されない)「生き方全体としての文化」を意味する。

 「この公式が大学で確立されようとしていた初期のころ、文化研究の当事者たちは、卓越した基準としての文化と、「生き方全体」としての文化という二種の相反した定義のどちらか一方を支持することもできず、研究分野として、どちらの成果が高いか、決めかねていた。」p.20

 

〇リチャード・ホガートは社会の解読には文学的センスが必要なこと、そして研究者が頭を悩ませていた文化の概念が結局は一致するのではないかという仮説を提示した。

→こうした仮説がフランスの構造主義者ロラン・バルトによる初期の研究に色濃く継承されることになった。

「バルトは、ホガートと異なり、現代の大衆社会の中の良いものと悪いものの区別をつけようとはしなかった。彼は、現代ブルジョワ社会の、一見自然発生的な形式と儀式が<すべて>全体的に変形されやすく、いつでも歴史から事実に変化し、「市民権を得て」、神話に姿を変える可能性のあることを証明しようとした。」p.22

〇バルトの功績は、通常目に見えない規則やコードや慣習から、特定の社会集団だけがもつ意味性を明らかにしたことで「旅行ガイドブックのような異質な現象の中に、同じ人為的な本質、同じイデオロギー的な中核を発見した。」p.23

→またこうした理論化の過程の中で、イデオロギーという言葉が拡張された。

 

〇マルクスやホールがいうようにイデオロギーがコモンセンスの形で日常の中に充満しているため、それを単に「政治的意見」や「偏見」として締め出すことはできない。また、「文化のどの面にも記号論的価値があり、最も当然と理解される現象が、記号として、意味に関する規則とコードが支配するコミュニケーション体系の構成要素として機能できる。」p.28

→ゆえに「記号のもつイデオロギー的側面をあばきだすには、まず、意味を構成しているコードを解明する必要がある。「内包(connotation)」のコードが特に重要である。」p.29

→アルチュセールの「イデオロギーに歴史はない」という言葉によって体現されるように、イデオロギーは流動的である。どのグループが、どの特定のイデオロギーを代表するかが問われる必要がある。

 

〇グラムシはこうした考えを基盤として、ヘゲモニーという概念を生み出した。

「ヘゲモニーという言葉が意味するものは、ある社会グループ間に結ばれた暫定的な同盟が「社会的権力」を他の従属グループに対して行使できる状態である。それは、単に強制や支配理念を直接おしつけるのではなく、「同意をかちとり形づくって、支配階級の権力が合法的で当然性があるように見せかける方法」(ホール 1977)で行われる。」p.32

→ヘゲモニーは普遍的に偏在するものではなく、グループ間で奪い合う「移動する均衡」である。また「品物は、もともとそれを作り出した人々のグループが日常生活の中で象徴として「取り戻し」、無言のうちに反対の意味を持たせることができる。」p.33

 

 「ここで若者のサブカルチャーの意味にもどることができる。サブカルチャーのようなグループの出現によって、戦後におけるコンセンサスの崩壊が人目をひく方法で示されたためである。[…]ヘゲモニーへの挑戦は、サブカルチャーによって表現されるものであるが、決して直接表現されることはなく、間接的にスタイルの中に示されている。反対を内部にとどめ否定を誇示し、外観の全く皮相的なレベル、すなわち記号レベルで示される。」p.34

→従属的グループによる秩序への反抗を体現した、「普通であることに逆らい」「正常化」を否定する意味のコードについて接近することができる。

 

 

第一部 いくつかの事例についての研究 p.39-103

Ⅱ p.41-50

〇1976年夏、イギリスでパンクロックブームが襲来する。素性のはっきりしないパンクは、グラムロックやレゲエ、ソウル、パブロックなど様々な音楽を部分的に継承したもので、衣服の面でも独特の“寄せ集め”スタイルを構成するに至った。

 「パンクはこの種の研究のための出発点として、奇妙に最適な存在であるが、それは、戦後の主要なサブカルチャーがすべてパンクスタイルの中で屈折して反映されているからである。しかし、これらのサブカルチャーを発生順序に元どおりきちんと並べなおしてはじめて、その意義が解明できよう。」p.46

 

〇70年代に台頭したパンクには先述の通り「不自然な」合成があった。

→デビット・ボウイやニューヨーク・パンクバンドは本質的に敵対関係にあるはずの「芸術的」源泉から得たものを繋ぎ合わせて、末期的美学を形成していた。

〇他方で「ほとんどすべての面で、この冒涜的美学の命令を打ち消すのは、もう一方の音楽形式であるレゲエの正義の命令だった。レゲエは、パンクに及ぼした幅広い影響の一方の端を占めている。」p.49

→クラッシュに象徴されるように、音楽だけではなく、ジャマイカの黒人街の服装スタイルは注目を集めた。

「パンクとこの黒人英国人のサブカルチャーは、一見したところ別個のもので、互いに自主性を有していたが、ともにレゲエと関係をもち、その構造の奥底で結びついていた。」p.50

 

〇ここまでを踏まえた上で、次節からは以下のような流れで議論が展開される。

[1] レゲエとパンクに先行するイギリス労働階級の若者文化の内部構造と意義の理解

 

[2] 次にイギリス戦後若者文化の歴史を、50年以降イギリスへの黒人移住に対する反応という側面から検討する。

→この検討ではイギリスの学校や警察、マスコミに対する眼差しから、人種と人種関係の問題に目を移す必要がある。

 

 

Ⅲ p.51-70

「レゲエの源の数は少なく―――主として二種類の関連する源から出ている。そのふたつとは、独特なジャマイカの口伝文化と、同程度に独特の方法で自分たちのものにしたバイブルである。[…]レゲエは、一連の回顧的構造で、歴史上の移動の順序(アフリカ――ジャマイカ――イギリス)を逆転させながら、船に乗っている仲間に語り掛ける。」p.52

→1969年の調査では白人の若者の方がホワイトカラーの仕事に約5倍就いており、また黒人には劣悪な住居しか与えられず、警官の嫌がらせなどもあった。

 「このように政治的不満と失業が増大傾向を示し、若い黒人たちと警官との争いが新聞や雑誌に公然と報道されていた頃、輸入音楽である前述のレゲエが、人権問題と階級問題を直接取り上げて、アフリカの伝統を復興させ始めた。」pp59-60

〇こうした背景の中、野外を移動する各都市のサウンド・システムは黒人の表現の場として機能し、「システムが攻撃されることは、共同体自身の象徴が脅かされる」ことと同義としても過言ではなかった。

→服装にも如実にレゲエが反映された。

 

「このような出来事は、黒人と同じ地域に住み、同じ工場で働き、同じ学校で学び、隣接するパブに行く白人労働者たちに伝わった。」p.69

「一連の白人サブカルチャーの形式の変化は、黒人の存在を、象徴を使ってとり入れようとするか、あるいは主人国の社会から抹消しようとするか、どちらかの、深い構造的変革として理解できる。」p.70

→ポール・グッドマンとジョック・ヤングが主張するように、黒人には主流社会の良い中庸と共存しながら、その基礎を取り払ってしまう本質的なアンダーグラウンド性が認められる。

 

Ⅳ p.71-103

〇1920年代に主流なポピュラー音楽が流行ると、白人と黒人文化が融合したジャズの多くはナイトクラブ音楽に変身した。他方でビートとヒプスタは妥協のすくないジャズを目指したが、「これら二グループが取り入れたスタイルに示される、個性の性質は、質的に違っていた。」p.74

→いずれにしてもチェンバレーズが論じるよう「黒人文化、黒人音楽の中に生みこまれていたのは反対価値であり、若者のサブカルチャーの中で実践され、示される矛盾と緊迫状態は、この反対価値によって新しい背景の中で、象徴化・微候化された。」p.75

〇ジャズ以上に「黒人」と「白人」そして「若者」が結節したのはロックにおいてであり、この混合物がアメリカからイギリスに渡ることでテディボーイ・スタイルの核となった。

「60年代初めには、かなりの規模の移民社会が英国の労働者階級の居住地域に設立されて、黒人と、隣接する白人グループの間に、ある種の親密さが存在するようになっていた。」p.79

→特にインド諸島出身者の近くの労働者文化の中で、積極的にそのスタイルを取り入れていったのはモッズだった。そのうちスキンヘッドはホールの研究で以下のように取り上げられている。

 「「サブカルチャーの反応」とは、「親文化が入念につくりあげた順応、話し合い、反抗などの形式」と、「若さと若者の立場生徒活動力により近く、結合力の強い、特殊な形式」を、スタイルのレベルで合成したものである。」p.85

 

〇アンダーグラウンドとスキンヘッドの合成物として誕生したグラムロックは、レゲエやソウルから離れ白人だけの文化として台頭し、70年代初期のデビット・ボウイが特に人気を集める。

→たとえばテイラーとウォールは「ボウイがアンダーグラウンドの伝統をいわば「去勢した」ことに対して、特に腹を立てた。[…]たしかにボウイの態度には明白な政治性や明確な反体制文化などは含まれていなかった。」p.91

「しかし、それまで抑圧されたり、無視されたり、あるいは単にロックと若者文化の中で軽く取り上げられるだけであった性の本質を、初めて話題にしたのはボウイであった。」p.92

 

「パンクの美学は、アーティストと聴衆との間のギャップが拡大される中で明確されたものであり、グラムロックに含まれる暗黙の矛盾を暴露しようとしたと考えることができる。」p.94

→労働者階級がグラムロックから離れるにつれ、その鬼子として70年代中期に台頭したパンクは、労働者階級を「演じ」、積極的に英国性を否認した。

〇クラッシュがそうだったようにパンクは当初レゲエに歩み寄るが、結局のところ両者の間には白人/黒人という人種問題が横たわっていた。

「パンクロックとレゲエとの間に引かれたきびしい一線は、パンクサブカルチャーに特有の「アイデンティティの危機」に現れる微候であるだけでなく、より広範囲な矛盾と緊迫状態のあらわれでもある、と言えよう。強烈な「民族」性をもう移住者文化と、現実の上でそれを「とり囲む」土着の労働者の文化の間で、オープンな対話の発展を阻害するのは、この一般的矛盾と緊迫状態である。」p.101

 

 

第二部 解釈 p.105-197

Ⅴ p.107-127

「本節では、これら人目をひくサブカルチャーと、他のグループ(親、教師、警察、「まともな」若者たち、など)さらには、サブカルチャーを明瞭に定義づける対象としての文化等の関係を調べる必要がある。」p.107

→多くの研究では子どもから大人への移行期における通過儀礼という観点からサブカルチャーを説明するが、こうした主張には歴史的な事実関係を顧みる姿勢が欠ける。

 

〇二次大戦終結後は変動の時期であり、町から労働者階級を想起させる昔ながらの長屋や街角の店が消えた時期だった。また労働党と保守党共に機会均等を確約した。

→しかし階級は頑固に生き残り、マスコミの出現によって家族構成や学校の相対的立場が交替した。

 「これらすべてが労働者階級の共同社会をばらばらに分解して両極化し、幅広い階級体験の隅に、一連の対話を生み出した。若者文化の発展は、この両極化の過程の一部として、理解されなければならない。」pp.108-109

→しかしながら階級が若者文化の中に存続しているということは、ここ最近まで認められてはなかった。

 

〇サブカルチャーを研究する方法論として、「参与観察」が確立されたのは1930年以降の話である。例えばウィリアム・ホワイト“Street Conner Society”では、ギャングの儀式と日常の行動が参与観察によって明らかにされている。

→しかし参与観察による説明は詳細な描写には事欠かないが「階級と権力の関係の重要さを一貫して無視するか、すくなくとも軽視することになる。すなわち、サブカルチャーは、さらに大きい社会・政治・経済の機構の外でそれとは無関係に活動している生きもの、として示されることが多い。」p.110

 

〇アルバート・コーエンは若者文化と親文化のつながり興味を持ち、70年代の調査で若者スタイルが、アメリカ東端の共同社会を混乱に陥れた変化に対する部分的適応であると主張した。

 「彼はサブカルチャーの定義として、「ふたつの矛盾した欲求――親からの自立と、親との相違を、実現したいという欲求と、[…]親との同一性を維持したいという欲求――を妥協によって解決したものである」とした。」p.112

〇コーエンの主張で初めて、スタイルの解読が得られた。「すなわち、イデオロギー、経済、文化の各要因がサブカルチャーに及ぼす完全な相互作用を重視する解読である。」p.113

→しかしこの研究は階級に目が行き過ぎており、親文化/若者文化という世代間の差違については見落としてしまっている。

 

「人目をひくサブカルチャーは、想像上の対立関係そのものを表現する。サブカルチャーを構成する生の素材は、現実的であり、イデオロギー的であり、学校、家族、仕事、マスコミなど、さまざまなチャンネルを通して、サブカルチャーのメンバーひとりひとりに伝えられる。さらに、この素材は歴史の変化につれて変わりやすい。サブカルチャーの個々の事例は、特定の対立状況、特殊な問題と矛盾への、「解決」である。」p.117

→ここではその具体例として前期/後期のテディボーイを検討する。

前期テディボーイ……1950年代に登場。黒人文化に対抗的。ドレープコードなどの服装。

 

後期テディボーイ……1970年代に登場。労働者的で、また西インド諸島の生活様式を支持。

→二代目テッズは親文化に引き寄せられた結果、若者文化と対置される存在だった。

 

〇このようにサブカルチャーのコードは様々な場で有形化される。構造は全体的であるが、そのそれぞれが集合することで構造全体を構成するのである。

 「社会体系の中の異なるレベル間の複雑な交流は、支配グループと従属グループの双方の経験の中で再生される。一方、この経験は「生の素材」になり、文化とサブカルチャーの中で豊かに表現される。」p.122

→特にマスコミによってコードが流布され、諸個人の経験はカテゴライズされる。

 

 

Ⅵ p.128-141

 

 

 

Ⅶ p.142-160

〇容認される言語表現の神聖さは、普遍的な数多くのタブーの裏返しとして成立する。したがって社会的に承認されるコードを破ることは、激しいパワーで人の憤りと混乱を招く。

 「人目をひくサブカルチャーは、禁じられた事柄を禁じられた形式で表現する。」p.130

→秩序への挑戦がこのような経路を通じているとして、ではサブカルチャーは、常に有効に統合することができるのだろうか。

 

〇先述の通りサブカルチャーの形式を類型化し、流布するのはマスコミだった。例えば新聞において「特にスタイルは二重の反応を引き起こす。すなわち、(ファッションの頁では)賞讃され、(サブカルチャーを社会問題とする記事では)あざけられたり、ののしられたりする。」p.132

→このように「マスコミは、反抗を記録するだけでなく、「反抗」を支配者の構造に入れてしまう。そして人目をひく若者文化に入ることを決めた若者たちは、テレビや新聞で描かれているように、コモンセンスが若者たちをはめ込みたいと思っている場所に戻される。」p.134

〇この絶え間ない「反抗→マスコミによる社会への統合」という作用には以下の2つの特性がある。

①商品形態……サブカルチャーの記号を大量生産されるものに変換する。

 

②イデオロギー形態……異常な行動として、警察、マスコミ、司法などの手によって「レッテル貼り」をし、再定義する。

 

〇まず①商品形態においては、サブカルチャーが商業主義に対して嫌悪感を示しているとはいえ、ファッションメーカーなどの手によって商品化されることで、そのサブカルチャーは習慣として「凍結」されてしまう。

「若者文化のスタイルが記号によるチャレンジから始まるとしても、結局、新しい習慣をいくつか作り出すことで終わってしまう。このことは、サブカルチャーが政治的にどちらをむいているかに関係なく発生する。」p.136

 

〇②のイデオロギー形態において、警察やマスコミなどの「良識ある人々」はバルトのいうプチブルに相当する。そしてプチブルは、その存在を脅かす「他者」の想像ができない人々である。

「二つの基本戦略が、この脅威を手なずけるために練り上げられた。まず、他者を平凡化し、当然化し、飼いならすことができる。この場合、相違点は簡単に否定される。あるいは他者は、無意味な異国的なもの、「無色透明なもの、観物、道化物」に変形することができる。この場合、違いは分析できない場所に遠ざけられる。」p.138

〇また商品形態とイデオロギー形態は厳密に線引きできるものではなく、例えばパンクミュージシャンを異質化しつつも、商業的に成功した例として雑誌で扱われたりされた。

 

 

Ⅷ p.161-180

〇前節ではサブカルチャーの反抗から統合に向かうサイクルと、市場およびマスコミの関係について論じた。次にサブカルチャーのスタイルが何を意味し、どのようにコミュニケートするか検討する必要がある。

[a]サブカルチャーのメンバーはどのようにしてそのサブカルチャーを理解するのか。

[b]サブカルチャーはどのようにして無秩序を意味するのか。

 

〇まずサブカルチャーが主流文化と異なるのは、人目をひくアンサンブルとして意図的に「違うもの」というコードを表示する点に求められる。

「サブカルチャーが主流文化とあわないのはこの点である。バルトによれば、主流文化は、その主要な特徴として、自然のふりをし、歴史的形態の代わりに「正常化された」形態を使用し、社会の現実を社会のイメージに変換しがちである。」p.144

「重要な「違い」のコミュニケーション(および仲間との<同一性>の平行コミュニケーション)は、すべて、人目をひくサブカルチャーの背後にある「意図(point)」である。」p.145

 

〇またサブカルチャーによる「差異」の表示の一手段として、ストロースが言うところの「プリコラージュ」を挙げることができる。

「すなわち、基本要素を使って、簡単に組み合わせて新しい意味を体系の中に作り出すことが可能なため、これらの体系を無限に拡張できる」p.147

[ex] 例えばパンクは、レディメードとしてのピンやプラスチックの洗濯バサミ、テレビの部品などを、「切り裂くこと(cut up)」という暴力性を本質的なメッセージとした服装に合わせることで、「違い」を表明した。

 

 

Ⅷ p.161-188

〇パンクは各レベルでの混乱があったが、そうしたスタイル自体は首尾一貫としていた。

→このパラドックスを解くには「ホモロジー」という概念が有用である。ポール・ウィリスは「グループの価値とライフスタイル、グループの主観的な経験、グループが抱いている強い関心等を表現したり強調したりするのに使用される音楽形態などが一つにまとめられていると証明した。世俗文化の中で、ウィリスは、サブカルチャーを無法の形態とする一般の神話とは逆に、個々のサブカルチャーには著しく秩序だった内部構造があることが特徴だと述べている。」pp.161-162

〇またホモロジーとプリコラージュの概念を組み合わせ、サブカルチャーが人を魅了する理由を系統だって解説したホールらは、論文の中で「サブカルチャーのスタイルは、サブカルチャーのメンバーにとって何を意味するのか」と問うた。

 「その答は、サブカルチャーの特異なアンサンブルに再び作り上げられた固有の事物は、「グループ生活の様々な面を、反映し、表現し、反響するようつくられた」という事実だった。」p.162

 

〇パンクはホモロジー的関係をまさしく体現した存在であり、それ自体が明白の不在を繋ぎ合わせたもの――記号表現(シニフィアン)も一致しないものでありながら、秩序をかき乱すというというスタイル自体は一貫していた。

「従来の記号論によって、パンクスタイルの難解で矛盾に満ちたテクストへの「入口」を発見することはできないようである。」p.167

 

〇しかし、やがて、この種の問題を扱う記号論の一派が現れた。この一派は「解読を単純に、ある一定数の隠された意味を明らかにすることとはせず、無限に広がる可能性のある意味が生み出されるようなテクストの読み方をする多義性の考え方を取る。」p.167

→彼らは言語の構造や系統より対話の語り手に、最終的に作成されるものより構造の過程に注目する。

〇例えばクリステヴァは①「言語での位置づけ」を通して従属グループの形成される、②そのような位置づけを習慣的に成功させる過程を破壊するという2つの点で、本書に近しい議論を展開している。

 

 

Ⅸ p.181-188

〇最終分析において、サブカルチャーをオーソドックスな美術用語から解説するのは、得策ではない。サブカルチャーは一般的な意味での文化ではないからだ。

「むしろサブカルチャーはコミュニケーションのシステムとして、表現と描写の形態として、より広い意味での文化を明示する。」p.183

「「永遠の事物」としてあるのではなく、「盗用」、「盗み」、「破壊的な変形」として、「運動」として、認められる。」p.183

〇サブカルチャーは普遍的に存在するものではなく、最終的には他のスタイルにとって代わられるものである。「各サブカルチャーは抵抗し、次におとなしくなる。」p.184

→ゆえに本書がそうしたように事物それ自体の姿というよりかは、変形の事実に注目すべきだろう。

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