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Derrida,Jaque 1967→1996 『グラマトロジーについて』

ジャック・デリダ 1967→1996 『グラマトロジーについて』

 

 本書はポストモダニズムの旗手ジャック・デリダの初期の代表的著作であり、若書きでありながらも「現前の形而上学批判」といった思想的プロジェクトや、それに伴う「差延」といったキーワードはすでに本書において展開されている。上・下に及ぶ大著でありかつポストモダニズム特有のジャーゴンも多く使用されているため、要点をかいつまみつつ、デリダの思想における原型を確認していこう。

 

 デリダは本書で従来的な形而上学的問いに転換を引き起こすと高らかに宣言している。その中でも特に仮想敵として想定されているだろう哲学的潮流が、ポストモダニズムより一世代前の哲学とされる構造主義であると考えられる。

構造主義といえばソシュール言語学に端を発し、ストロースやバルトといった哲学者によって牽引されたことで知られている。一元的に括ることは抵抗を覚えるが、あえていうならば「人々を規定している構造を、記号体系すなわち言語体系を中心に分析していく」ことがその目的とされているとでも言えるだろうか。ちなみに完全に余談であるが、日本では内田樹の悪書『寝ながら学べる構造主義』のせいで、構造主義を最新の潮流であると勘違いした「学問にわか」が量産されてしまい、私は一時期非常に迷惑を被ったことがある。それはさておき、構造主義の特性を把握するためには、構造主義と競合した実存主義と比較検討するのがよいだろう。

実存主義はニーチェ哲学とフッサール現象学の考え方を取り入れた思想であり、サルトルやヤスパース、ハイデガーらが中心的な論者として知られている。サルトルの有名なテーゼである「実存は本質に先立つ」が象徴するように、理性や本質、あるいは科学や実証主義といった近代哲学の枠組みを離れ、実存や主体性といった人間本性に注目する思想であると整理できるだろう。先の構造主義が実存主義と対立する理由は、両主張を比較すれば明らかであるように、実存主義が想定するような主体性を備えた「自由な主体」は、実際には構造に規定されている「不自由な主体」に他ならず、ゆえに人間の実存というものは虚妄に過ぎなかった点にある。この「自由な主体」に対する批判は、実存主義/構造主義の対立に限定されるものではなく、むしろ社会科学の歴史の中では繰り返しなされてきており、社会学ならば行為論に対する構造論からの反駁、政治哲学ならばロールズ的リベラリズムに対するコミュニタリアンらの反駁などといった具合に枚挙に暇がない(そして往々にして「不自由な主体」を想定する立場が論争に勝利する)。

 

 さていささか脱線したが、先述の通りデリダが本書の仮想敵として想定しているのは構造主義である。これも先に確認したことであるが、実存主義が掲げる主体性や実存といったものは、構造主義が掲げるような構造の規定によって、近代人の生み出した虚構に過ぎないことが明らかになった。しかしデリダの見解に従うのであれば、実存の否定も不十分である。というのは、構造主義とりわけその始祖であるソシュールが、「現前性」を前提化しているからに他ならない。

 

「それは表音文字のモデルに、つまり表記法の排除をより容易にし、より正当化するモデルに、特権を与える甚だしき民族中心主義である。だが、この民族中心主義は、逆に自分は反=民族中心主義だと思いなしているのであって、解放的進歩主義の意識における民族中心主義なのだ」  上巻 p.244

 

ここにある民族中心主義とはデリダが本書を通じて反駁を試みている「音声中心主義」ないしは「ロゴス中心主義」を包含しており、この表現によって従来的な哲学が西洋の音声言語を中心軸に想定し、諸々の考察を展開してきた事実が強く批判されている。事実、先のソシュールは言語実践すなわち「ランカージュ(langage)」を、「語(langue)」それ自体と、それが音声という形式で具体化された「パロール(parole)」という二側面から定義しているため、この批判は回避できないだろう。さらに本書の同様の文脈ではストロースの名も挙がっており、デリダがやはり構造主義を目の敵にしているのは明らかだ。

 

 ではそもそもデリダの音声中心主義を批判する意図は何なのだろうか。あるいはなぜそれが問題になるのだろうか。端的に言えば、音声中心主義において、現前に音声として表出化する意味性以外の解釈可能性を排してしまう、<暴力>が働いているからに他ならない。例えば先の例であるならば、現前に顕在化している西洋的言語以外は正当ではないものとして周縁化されることになる(まさに民族中心主義といえるだろう)。

 デリダはこのように絶対化された現前性のことを「神」というメタファーによって表現している。すなわち解釈を一義的に規定しまう規範的要請を行う存在がそれである。さらに残念ながら従来的な形而上学的哲学の多くは、この現前に表れる「神」を中心としたものであり、その点においてそれは「現前の形而上学」と呼ばれるものに過ぎない。そして本稿の冒頭に書いたように本書で展開された思想的プロジェクトの1つがこれの批判であり、現にデリダは現前性に重きを置く形而上学を指して「ヨーロッパの知のエピステーメーの閉域」と呼んでいる。余談だが、この「現前の形而上学批判」はまさしくポストモダニズムを象徴しており、いわば絶対性の剥奪が企図されているように見受けられる。他の論者ではリオタールの有名なテーゼ、「大きな物語の凋落」などがまさしく同様の関心に基づくものであると言えるだろう。

 

 このように言語は現前に表出する絶対的なものではない。デリダによれば言語はパロールというよりかは、むしろ「エクリチュール(écriture)」的である。エクリチュールすなわち書き言葉は、伝統的にパロールの下位・劣位に置かれ、あくまで音声の代補に過ぎないと見なされてきた。確かに生物学・歴史学的の成果を参照するのであれば、人が書く能力を獲得する前から、音声によるコミュニケーション能力は獲得していたとされており、上述のような伝統的な考察は一見すると正しく思えてしまう。しかしながら実際には間主観のやりとりの現前において、「空間的差異」と「時間的遅延」、つまりデリダが言うところの「差延(différance)」が存在しているため、先の現前性の議論と併せてパロールの有意性はもはや正当な主張になり得ない。

 エクリチュールはパロールのように決して現前に表出することはない。それがパロールの原型として参照された痕跡、すなわち「原-エクリチュール(archi-écritur)」は確認することはできるが、その所在自体はやはり差延という特性によって隠蔽されているのである。逆にデリダの功績とは、本来的には知覚することができないにもかかわらず、存在の間にある「隔たり」の可能性を暴露したことに求められるとも換言できるだろう。

 

 ここまでの留意点としてデリダは決してパロールに対するエクリチュールの立場を転覆してしまおうと画策しているのではないことが挙げられる。先述の通り伝統的な西洋哲学において、確かにエクリチュールはパロールに従属するものであると捉えられてきた節があった。しかしながらその転覆は単に形式的な二項対立を反復するに過ぎない。また上述の二項対立は、パロールが残す差延の痕跡―原-エクリチュールによって可能となったエクリチュール/パロールという対立軸が引き起こしている。

 さらに議論を拡大すると、自己/他者、中心/周縁、男/女といった旧来の二項対立も、パロールのエクリチュールに対する(不当な)特権性と排他性を内包している。事実、伝統的な西洋哲学の文脈では、この両者を対立項とした上で議論を展開してきた。しかし先述の通り存在は本来的に差延を孕んでおり、ゆえに一義的に解釈することはできないどころか、その所在を規定すること自体不可能である。デリダはエクリチュールが解釈の「種」を「散」らす性質を持っていることから、これを「散種」と呼んだが、まさに差延が意味するところは、「種」の多様性にあると言えるだろう。

 そしてこの二項対立をうまく回避し、言説の意味を宙吊りにしてしまう戦略こそ、デリダが提起したメタファーの中でおそらく最も有名な「脱構築(deconstruction)」に他ならない。この脱構築のアイディアは哲学の領域に留まらず、芸術や文学においても広く浸透していったことからその影響力の大きさを推して知ることができるだろう。ただ諸領分における脱構築でも目的は概ね同じであり、先述の通り形式的な二項対立に潜在的に含まれる特権性と排他性を暴露し、確定的な意味を回避することがやはりそこでは志向されている。勿論「現前の形而上学」に対しても脱構築は有効な戦略であり、ある存在に特権性を与え、排他的な真理を希求してきたこれまでのテクストを、特定の解釈に縛られることなく自由に往来することが可能になるだろう。

以上で本書における最も有名な問題提起、「現前の形而上学批判」および「脱構築」の概観を駆け足ながら整理した。以下で本書に対する批判を簡単に整理して解説を締めくくろう。

 

 デリダに対するというよりもポストモダニズムに対してよくされる批判であるが、彼らは近代の終焉に対して悲観的過ぎる上に、その帰結として相対主義的世界観を強調する傾向にある。例えば本稿の途中で紹介したリオタールの「大きな物語の終焉」などはまさに決定的な「物語」の否定であるし、同じくポストモダニズムの筆頭に数えられるドゥルーズ(とガタリ)なども、これまで国家権力などに象徴される<オイディプス>に決定されてきた欲望の開放を訴えた。さらに日本のポストモダニズムの文脈で言えば浅田彰や東浩紀などもこうした世界観を支持していることで知られている。そして本書のデリダも差延や脱構築といった概念によって絶対的な力の剥奪/相対主義的な力関係を強調していると言えるだろう。

 しかし相対主義は決定的な欠陥を内在している。つまり「あらゆる決定性を否定するのであれば、自身の主張も決定的になりえない」という自己否定のパラドックスである。これはまさしくバートランド・ラッセルが発見した「自己言及的パラドックス(paradox of self-reference)」の一形態であると考えられ、ゆえに以下のように極めて論理的にその誤謬を指摘することができる。

 まずデリダの主張に従い、命題「すべての言明は多様に解釈される」を真と仮定する。「言明」を変項x、「多様に解釈される」をφによって表記すると本命題は、「(∀x)φx」という関数になる。しかしながら変項「言明x」の代入項に本命題もなりえる(φ(φx))ためここで先のラッセルが提起した論理学上のバグが生じることになる。換言すれば命題「『すべての言明は多様に解釈される』は多様に解釈される」が導出される。

デリダはテクストの特権性を否定する主張を本書で行ったが、仮に自身のテクストにも差延を認め、特権性を排してしまうのであれば、結局のところ何も言っていないに等しいことになり、よって論理的に上述の「『すべての言明は多様に解釈される』は多様に解釈される」は承認されてはならない(実際に本を執筆した事実と辻褄が合わない)。

 ちなみにラッセルのパラドックスに関しては解法が存在しており、言明の階層(type)を区分するというものであるが、その場合「『すべての言明は多様に解釈される』は多様に解釈されてはならない」という命題が導出されることになる。しかし今度は『すべての言明は多様に解釈される』に本命題が含まれない理由を正当化する必要性が生じるため、いずれにせよ本書のデリダの議論からはこの問題は解決されることはないだろう。

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