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Roemer,John.E 1994 『これからの社会主義―市場社会主義の可能性』

『これからの社会主義―市場社会主義の可能性』 1994→1997  J.E.ローマー

 

◇序説 p.13~23

・本書の目的は平等と効率を両立する経済体制である市場社会主義の実現可能性を検討することにある。

→かつてハイエクは効率性から市場社会主義を批判した。ハイエクによれば、各人は自身の先天的資質に対して権限を有しており、ゆえに先天的資質とそれに伴う経済的-社会的不平等を許容する自然的自由(Rawls)の肯定が合理的であると主張している。

→しかし、現行の経済体制を支えるのは「普通の」人々であり、自然的自由は相容れない。さらに、再配分原理はほとんど市場の自由を侵害せずに達成する余地が残されており、ハイエクのように自然的自由から自由競争を導き出す新古典的立場はいささか早計である。

 

・以下では本書の構成を確認しておく

[第一章]

・社会主義者が望んでいること―平等主義的理念の素描

[第二章]

・平等主義的配分を達成するために従来的な社会主義が主張するように公的所有が必要か問う。

→おそらく国家管理は必要ないばかりか有害であると結論付けられる。

[第三章]

・社会主義的体制における目標を短期と長期に区分する。長期目標は多くの政治哲学者によって定式化されているので、それを達成するための短期目標を整理する。

[第四章]

・市場社会主義の小史をランゲとハイエクの論争を振り返り確認する。

[第五章]

・中央管理経済の失敗について考察される。

[第六章]

・現代における市場社会主義の6つのモデルが提示される。

[第七章]

・公の害(戦争から自然破壊)に対して、市民の分配原理がどのように関わってくるか確認される。

[第八章]

・市場社会主義の一般均衡モデル―市場の自由と平等の両立が考察される

→おそらくcoupon capitalism だよね

[第九章]

・私的財産の無制限の蓄積が禁止される社会主義において、いかにして市場の自由が保障されるのか、という伝統的な社会主義批判を取り上げる。

[第十章]

・第九章の批判を反駁し、批判において引き合いに出されるユーゴ体制が実はこうした私有財産を認めていたということを確認する。

[第十一章]

・投資の計画化について議論が移される。投資の計画化において政府介入がいかに重要であるか確認される。

[第十二章]

・投資計画が行政的なものであるよりかは、市場原理に則っていた方が成功しやすいということが示される。

[第十三章]

・民主主義に対する社会主義体制の影響を考える。

[第十四章]

・市場社会主義を批判するラディカルな左翼の主張が取り上げられる。

[第十五章]

・今日登場しつつある国民経済の今後の展望について簡単にまとめられる。

 

 

◇第一章 社会主義者が望むもの p.23~30

・社会主義者は以下の三点の機会の均等を訴える

①自己実現と幸福

②政治的影響力 および

③社会的地位

→①は単に自己実現や幸福を遂行するのではなく、その機会が均等になるということが望まれている。つまり先天的資質の不平等が生み出す各人の不平等を穴埋めする何かが望まれているのであって/先天的資質それ自体の解消が望まれているのではない。

・また①,②,③の序列付けは選好の問題になるため、社会主義者によっても異なることになる。

→伝統的マルキシズムは、資本家による剰余価値の盗取の解消つまり「搾取」の解消によって①と②の機会の均等を達成しようと主張する。しかし、コーエンが主張するように、労働者の特徴づけはかつてのようにはできない(『自己所有権・自由・平等』第一章参照)ため、「搾取」についてのマルキシズム的前提は成り立たない。

・また「搾取」についての伝統的マルキシズム的立場は、各人の先天的資質への権原を肯定している点で、ノージックらのリバタリアニズムによる自己所有権を拒否できておらず、ゆえに資本主義的原理を部分的にでも受け入れていることになる(【メモ】これもコーエンが『自己所有権』の5-6章で明らかにしたこと)。

・本書のプロジェクトはコーエンのように自己所有権を否定しつつ/平等主義的配分原理を支持し、かつその効率性を両立したモデルである市場社会主義体制の妥当性を提示することにある。

 

 

【メモ】

・コーエンによれば自己所有権の否定/平等主義的分配の肯定を行うためには、

①各人の人格に正義感覚を想定し原初状態の段階で自己所有権を否定する(ロールズ-ドウォーキン)

②利害関係の対立を避けられる程度の物質的豊かさを達成し、自発的な社会的協働の実現により自己所有権を否定する(コーエン)

の二通りがある

→ローマーがどちらの選択肢をとるか、あるいは資質の自己所有権をうっかり肯定して(たぶん外的資源の自己所有権を肯定はしないだろうけど)左翼的リバタリアンにこけてしまうか見ものである。

 

 

◇第二章 公的所有 p.31~38

・伝統的に社会主義者は公的所有を物神化してきた。

→特に国家による外的資産の公的所有は社会主義の必須条件かのように考えられてきた。

・しかし、社会主義者の至上目的は①自己実現と幸福②政治的影響力③社会的地位の機会均等の実現であり(第一章)、ゆえにその手段が国家の公的所有である必然性はない。

→むしろ企業による公的所有(将来的投資の自由化)やNPOによる公的所有、パートナーシップによる公的所有など様々なパターンが想定でき、国家による公的所有はむしろ手段の一つに過ぎない。

 

 

◇第三章 長期と短期 p.39~41

・ボリシェビキ政権は長期提案(無階級世界の実現)/短期提案(共産主義の実現)を掲げたが、後者の失敗により前者の提案も共に崩れた。

→今日の世界において、この長期提案に相応するのが政治哲学のうち平等主義的配分原理についての理論である。

・分析的マルキシズムならコーエン、アネーソン、リベラリズムならセン、ロールズ、ドウォーキンなどが代表的論者である。

→本書はこれらの長期提案に対し、短期提案としての市場社会主義を提示する。

 

 

◇第四章 市場社会主義の理念の小史 p.42~52

・小史を知るにはランゲとハイエクの論争を振り返るのが有効である。

[第一段階]ランゲの主張

・中央計画所が正確な市場のデータ(投資率や産業用財価格の「模索」)を各企業に与え、企業はそれに基づいて利潤を産出する。→さらに産出された利潤から新たなデータを中央計画所にフィードバックする。

[第二段階]ハイエクの反駁

・そもそもとして産業用材価格は①流動的であり/②複雑であるため、「模索」をすることは原理的に不可能である。

→しかし産業用材の価格はあらゆる生産に関わってくるため、特定されなければならない(ランゲの論拠のない応答)

[第三段階]ハイエクの反駁

・さらに、ランゲの主張に従えば中央計画所はあらゆる企業活動の責任を帰属されることになるため、社会主義における中央計画所はほぼ確実に市場に顔を突っ込んでくる。

→市場の自由が失われる

[第四段階]

・しかし、計画当局が企業を「代理人」に見立て、インセンティブを用意すれば各企業はそのインセンティブによって自由に競争し、ゆえに活動責任を中央当局に帰することがなくなる。よってこの時期は有効なインセンティブの究明が盛んになった。

[第五段階(当時)]

・すでにランゲの主張は撤回され、企業による公的所有すらいまやなされていない。

→一般的公的所有モデルを形成できない(第二章)ならば、この第五段階はすでに社会主義と相容れない市場システムなのではないか。

 

 

◇第五章 集権的経済計画はなぜ失敗したのか p.53~63

・ソ連体制下における中央当局による失敗の一部は先述の「依頼人-代理人」問題によるものであった。

→依頼人Aが代理人Bにある経済活動Zをするように委託する。このときBはインセンティブが確保されなければZではなくYをするかもしれない。ゆえにインセンティブの確保が最重要用件となる。

・毛沢東政権下では、インセンティブは友愛などによって代替されるため不要であるというユートピア的見通しが立てられており、経営者-経営者、国家-企業における「代理人」問題が解決されなかった。この後、ソ連(1930~80年代)も同様の運命を辿る。

→しかしコメコン(1980~)は同様の体制をとっていたのにもかかわらず、一定の経済成功を収めている。

・ゆえに中央当局の失敗は「代理人」問題/インセンティブ以外の要因―おそらく戦争直後の前者が技術に依存できなかったのに対し、後者はそうではなかったことが推察される。

 

 

◇第六章 市場社会主義の現代的モデル p.64~74

・第三-五章で確認した事実を踏まえると、

①社会の広範囲に及ばないと短期提案として機能しない

②インセンティブを国民意識の「改造」(文化大革命等)によって解決することは出来ない

→この二つの条件を満たす市場社会主義のモデルを以下で確認する。

 

[労働者自主管理企業]

①労働者自身による管理のため、「代理人」問題を回避することが出来る。

→ただし資金の調達が外部(銀行)からの信託投資になるという問題がある。

・また、労働者自身の効用の最大化から見るとおそらく不利である。

(【メモ】ノージックは『アナーキー』の8章-6節でサンディカリズム的職場がマルキシズムにおける古き善き労働価値説に立脚していると批判している。労働者の職場環境>効率性とするのは労働に至上価値を置いているから。)

 

[伝統的経営体制を否定しない平等主義的分配]

①企業は自由に経営を行うことが出来るが、半分が公有化されており、銀行から信託を受けることが出来る代わりに、銀行の厳格な管理下にあるため、企業内で過剰なインセンティブの希求が起こらない(Bardan)。

②クーポン資本主義

・社会の成員が成人した際にクーポンを配分し、各企業へクーポンを渡すことで、企業の配当の一部を獲得することが出来る。しかし、株式とは異なりクーポンの個人間売買は認められないため、富裕層によってクーポンが独占されることはない。

・クーポン→貨幣○/貨幣→クーポン×という不可逆的な特徴(Roemer)

 

[所有権の変更を新しい体制の中心的特長とみない]

①権力関係のない資本主義

・重役会の編成を通して、市民全体が市場における発言権を有するようにする。

→所有権を介さずに社会的立場の不平等を解消する

②共同社会的民主主義

・労働組合のみに限定せずNPOなどの市民団体全体の自発的な共同的連帯を達成し、所有の不平等を制度的には肯定しつつ、事実上は否定する(Cohen)

→自発的共同はいかにして可能かが問われていない。

(【メモ】これはコーエンが『自己所有権』の第五章で述べていたモデルだと思われる。ここでローマーは自発的共同の論拠がないと批判しているが、コーエンによればそれは財の希少性の部分的解消によって実現されるという。まあ弱い論拠だよね。)

 

 

◇第七章 公-害と利潤の配分 p.75~79

・自由競争を擁護する古典的立場が主張するように、六章のいくつかの立場における経営者-企業は利潤を至上目的に置くのではないだろうか。

→確かに、企業が最大限の合理的選択をすることによって、社会レベルに「公-害(public-bad)」が生じることがある(いわゆる囚人のジレンマの変奏)

→環境汚染やアパルトヘイトなど

・今日的にはこうした企業の生み出す「公-害」の問題は不可避であるが、制度的にCSRが強制されれば(単に自発的な理念としてではなく)部分的にでも解決することは可能だろう。

 

 

◇第八章 市場社会主義経済の一モデル p.80~96

・本章では資本主義的政治経済均衡(CPEE)/市場社会主義的政治経済均衡(MSPEE)が対比され、後者の優位性が示される。

[CPEE]

・株式経済である

・各企業に「公-害」と「株式の投資-利益率」について選択権がある場合、day1における各市民は自らの期待効用が最大化されるほうを選択する

・各市民に「株式の投資-利益率」について選択権がある場合、各企業に支配的集団が生まれ、支配集団にとって期待効用が最大化されるように動く。

・「公-害」はday1での政治選択の結果である。

・day0における、預金総額と貸付総額及び各企業の株式の需要と供給は均等である。

 

[MSPEE]

・クーポン資本主義である

・各企業に「公-害」と「株式の投資-利益率」について選択権がある場合、day1における各市民は自らの期待効用が最大化されるほうを選択する

・各市民に「株式の投資-利益率」について選択権がある場合、各企業に支配的集団が生まれ、支配集団にとって期待効用が最大化されるように動く。

・「公-害」はday1での政治選択の結果である。

・day0における預金総額と貸付総額は均等である

→前者が株による企業体制であるため、所得に比例して企業に対する権限が大きくなるのに対し(つまり富裕層が有利であるのに対し)/後者においてクーポンは金銭取引の対象にならないため、所得と企業への権限が比例しない

→さらに富裕層、中産階級、貧困層などの「各階層のヒエラルキーがピラミッド型を構成し∧階層における選好が共通である」と仮定すると、最も人数の多い貧困層が、最も多くのクーポンを有することになるため、最も企業に対する権限を有することになる。

→ゆえに自由市場と平等主義的分配が両立される(市場社会主義)

 

(【メモ】なるほど!……とでもいうと思ったか。ローマーは「貧困層が公-害と見なすものは共通している」という前提に立っているが、これはおそらく偽である。というのは、貧困層Aは環境汚染の解消という「公-益」を望むが、貧困層Bは差別の撤回を望むかも知れず、ゆえに貧困によって選好を一元化することはできないためである。要するに「不幸な家庭の抱える悩みの種はそれぞれ異なる」byトルストイ)

 

 

◇第九章 市場社会主義のもとでの企業の効率性 p.97~108

・八章で確認されたクーポン資本主義が市場における自由競争を妨害しないという論拠が示される。

→クーポンの株式価格は企業の経営力によって変動するため、クーポンの株式価格が公的機関(銀行)によって監視されれば、企業は競争の動機を保ち続けることが出来る。

・ただし、このとき銀行は政治的権力と峻別されなければならない/政治的権力と混同されるとそれはもはや国家による公的所有と変わらない(第二章)

・またクーポンの裏売買などは中央管理局による高度情報技術で管理されるため原理的に不可能であると仮定されている。

 

 

◇第十章 ユーゴスラヴィアの実験 p.109~114

・市場社会主義を論駁するためにユーゴの失敗を論拠にする研究者がいる。

→しかし、少なくともユーゴ失墜する手前の数年間では、企業は国家-中央当局の強力な干渉を受けており、自由競争が出来る状況ではなかった。また企業の失敗は貨幣の増産という短絡的な手段で解消されていた(ゆえにユーゴはインフレしている)。

・つまり、ユーゴは市場社会主義体制ではなかったため論拠になりえない。

 

 

 

◇第十一章 国家の経済への介入 p.115~120

・では国家が市場に介入する場合どのような形態ならば許容されるのだろうか。ここまでで何度も確認されているように、市場の自由競争を侵害する介入は旧社会主義圏の二の舞を引き起こすし、またそもそも市場社会主義とも相容れない。

→積極的介入ではなく、企業の投資計画に消極的に関与すべきである。というのは投資が①プラスの外部効果があるため ②公共財を産出するため ③市場の不確実性に晒されているため である。

→特に「③市場の不確実性」は全企業が同等の損失可能性を抱えていることを意味している。ゆえに国家は全ての企業が加入する保険制度を設定し、この有事の際の損失を軽減しなければならない。

 

 

◇第十三章 社会主義と民主主義 p.138~146

・社会主義は(実際はどうだったかは置いておくとして)理念上は民主主義である。社会的-経済的不平等の解消を志向し、またそのためには社会的連帯が必要であると考えられている。しかし、市場社会主義においてはこうした社会的連帯のための共同感情は必要ないと考えられる。

→八章で確認したように「公-害」と見なされるものは階層によって異なっていた/同じ階層では「公-害」は共通だった。

→ゆえに階層の振れ幅が市場社会主義によって狭まるほど「公-害」の公約数も小さくなる―つまり全体の利害が必然的に一致するようになる。

(【メモ】8章でもつっこんだけど、ローマーのこの「公-害」が階層に依拠しているという考え方は明らかに不当だよねー。同じ階層でも性別、人種、宗教など異なるわけで、ロールズ的にいえば「穏当な多元性の事実」を無視しているよね)

 

 

◇第十四章 左派からの市場社会主義批判 p.147~154

・左派が市場社会主義を批判するとき、成員の①自尊心の中傷 ②共同性の欠落 ③外的資産にまで自己所有権を認める支配的見解の拡大 を論拠に挙げる。

→が、これも何度も確認しているように、資本主義的市場原理以外に革新的経済原理を我々は知りえないし、旧社会主義圏の失敗も目撃している。ゆえに、市場の自由と/平等主義的分配が両立される市場社会主義が折衷案として提示されなければならない。

 

 

 

 

【メモと批判】

・思ったけどローマーは資質に対する自己所有権を否定しつつも、外的資産に対する自己所有権は肯定しているのではないか。

→かつクーポンの導入により「階層間の(not個人間の)」平等な顧慮を実現しようとしている。しかし、二回くらい反駁したけどこの主張は「同一階層において選好(「公-害」と見なされるもの)は共通する」という不当な前提に立脚している。

 

・んで、終盤の方で「市場社会主義は本当に社会主義的か」みたいな感じで頭悩ませていたけど、少なくともコーエン的には「自己所有権を否定し切れていない点で」市場社会主義は社会主義ではない。むしろ、ローマーの立場は「右派的分析的マルキシスト」として定式化できるのではないか。

 

→ちなみに元ネタの「左派的リバタリアン」は自己所有権のうち資質の権限を肯定し、外的資産の権限を否定していたよ。

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