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Coulter,Jeff 1979→1998 『心の社会的構成―ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』

ジェフ・クルター 1979→1998

『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』

 

序章 p.9-20

○社会学による行為の記述は、従来的に行為者の心理と結び付けられ分析されてきた

→こうしたデカルト的パラダイム(心身二元論、主観/客観の対立項)を離れ、本書はライルらの「心の哲学」やヴィトゲンシュタインらの分析哲学にエスノメソドロジーの視点を接続することによって一つの回答を提示する

→この試みにおいて肝心なのが論理文法分析である

 

 

一、論理文法と心

○論理文法とは、ある概念と別の概念の文法的結びつきを意味する(初出は確かウィトゲンシュタインだったはずでは?)。

[ex1.]概念「犬」―概念「吼える」「飼う」「愛でる」などと結びつく

[ex2.]概念「声」―概念「出す」「大きい」などと結びつく

→概念は普遍的・固定的な定義があるのではなく/自然言語習熟者の有意性(relevance)に基づき規範的に構成される(「行為とは概念の下で行われる」 -Wittgenstein)

→概念がどのような別の概念の結合しうるか考察していく必要がある。

 

○本書では概念の論理文法の議論に依拠し、「心」という概念がどのような述語と併せて自然言語の中で用いられるかを観察する。

 

 

二、操作主義の限界

○「心」という概念の操作化は困難が付きまとう

→心理学的な定義を与えることによって、「心」の概念は恣意的に境界付けられてしまう

→概念は先述の通りそもそも言語使用の中に観察されるものであって、普遍的な定義に基づくものではない。ゆえに本書は「心」の論理文法を分析することによって、その概念を明らかにしようと試みる。

○従来の心理学的分析が「存在論的問い」であるならば、論理文法分析の試みは「意味論的問い」であると定式化できる。

 

 

 

 

第1章 人間行為の規範的基盤 p.21-69

○諸個人にとって社会的営為とは、自身らが説明可能・記述可能・解釈可能なものであるはずだと予想される(EMのAccountable-Available)。このことからシュッツやウィンチらが指摘しているような社会科学のジレンマが生じる。

→つまり社会科学者は、自然科学者のように自身の分析対象に対してメタな視点に立つことはできない(研究者であることによって中立性が保障されない)。

○これに伴う下位問題を以下の3点に整理することができるだろう。

(ⅰ)「人間の社会的行為を記述すること」とはどういう実践か?(一節)

 

(ⅱ)人間行為はそもそも因果論的に説明できるのか?(二節)

 

(ⅲ)相互行為の分析はどのようなレヴェルで行われるべきか?(三・四節)

→序章で明らかにされたよう、本書では心理学的な立場によってではなく、EMや分析哲学に依拠してこれらに回答を提示する。

 

 

一、行為の帰属・行為の個別化

○社会科学が行為の記述を行う際、一般的には当該の行為がなされる周辺環境に目をやることから始める。

→従来的には行為者の心理やアイデンティティ、獲得された規範などといった内面に注目されることが多かった。しかしながら、記述に際して社会科学によって、行為に対する価値帰属や帰責や評価が半ば不可避なかたちで行われていることは看過されてはならない問題である。

[ex1.]フーコーの観念としての「狂気」に対するアルケオロジーにおいて、すでに歴史的構造内部に健常者が前提化されている 

 

[ex2.]ベッカーのラベリング理論における「逸脱」は、「ラベルを貼る者の眼差し」における健全な状態(「逸脱者ではない」)がすでに前提となっている。      など 

→これは先述の通り、社会科学者に(自然科学者とは異なり)完全なるメタな眼差しが補償されていないという事実に起因する。

 

○行為の記述はこのように特定の価値判断から自由ではなく、行為の心的帰属によっても回避されない。むしろそうして心を「覗けば」行為の意味性が明らかになるという認識は、明らかな「心」の機能の誤認の上に立脚している。

→ライルらが指摘するよう「心」は容器であって、行為それ自体ではない。ゆえに「行為の動機は心にある」という定式は、明らかに行為/心における存在論的レヴェルの差異を無視している。

 

○また行為の記述に対する価値の侵食が不可避な事態であるのであれば、そもそも何故そのような事態が起きるのかを解明することによって、無意識下の偏向を回避することが重要になってくるだろう。

→行為に対する評価は常に相互行為が行われる文脈に依存しており、そのため常に変動する可能性に開かれている。

 

 

二、行為の因果説明

○行為の記述における規範的性格を批判的に吟味するとなると、行為モデルが確立しにくくなってしまう

→このとき因果的説明は捨象されるか否か、本節ではマッキンタイヤーの主張を検討することで明らかにする(結論からいえば因果説明は切り捨てられる)

 

[a]行為者の持つ「行為の理由」/実際になされる「行為の遂行」の区別

○マッキンタイヤーによれば「行為者が行為の理由を持っている状態」と「実際になされる行為」が因果関係にある

→しかし「私」が(当初)理由を持っていなくても、他者によって・あるいは自身によって「事後的に」行為の理由が見出される状況は容易に想定することができるだろう。ゆえに理由の所持と行為それ自体を因果的に結ぶことはできない

 

[b]特定の状況化と行為の因果関係

○マッキンタイヤーはゴフマン(たぶんアサイラム)を引きつつ、精神病院などといった特定の状況下において、各人はドラマトゥルギーとしての行為を規定されていると主張する

→確かに状況が特定の行為を誘発することはあるだろうが、これを決定論的な物言いによよって、断言することは必ずしもできない(そうした規範を内面化していない個人も想定されうるため)

→因果論というよりは規範論的な認識である

 

[c]行為規則からの逸脱とその傾向性

○マッキンタイヤーによれば行為者の逸脱は、行為の理由からは独立した一様性が認められるという。

→それは単に一様性の統計的記述に過ぎず、行為理由から独立した一様性を想定するのが困難である

○確かに行為者の理由-行為の間に因果関係「らしい」ものが観察されたとしても、それは物理学などにおける因果関係とは程遠く、というのも行為者自身が上述の因果を説明できるとは限らないからに他ならない。

 

 

三、日常活動へのエスノメソドロジー的関心

○これまでシンボリック相互行為論にしても機能主義にしても、社会学者が行為を「勝手に」因果論的に説明したり、行為者に対する恣意的な活動の帰属を行ったりしてきた。

→社会学者は決して認知的エリートではなく、ゆえに社会構造や諸個人の心理分析は不要である。むしろ行為者が抱いているリソースとしての(自身のものを含めた)「常識」にこそ目を向ける必要があるだろう。

 

○エスノメソドロジストはこうした共有された「常識」及びそれに準拠して組み立てられる言語行為・相互行為に着目する。

→より具体的にいえば、「発言の組み立て方の一致の方法」、「前提化された情報の一致の方法」、「発話に対するレシピエントの推論がどのように許可されるかの一致の方法」、それぞれ共有された「常識」に基づいて構成されている

→専門化された知識(医療、科学、政治)ですら、「常識的な」相互・言語行為の延長線上に位置づけられるため特権化はできない

 

○EMはただ単に行為者による文脈依存的(indexical)な秩序形成のあり方を解明することを目的としている。

→ゆえに主観や心理といった内面のカテゴリは不要だし、原因を解明するものでもないため因果論的説明にも関心が無い。さらに行為の客観的真理性や、事実関係の正しさを明らかにするわけでもないため、行為記述における規範的性格も排されることになる。

 

 

四、規範的描写と分析的解明

○以下ではエスノグラフィーとエスノメソドロジーの差異を明らかにするために、以下のトランスクリプトを両者の視座から検討する。

※M―精神障害福祉事務職員 P­―患者 W―患者の妻

[01]M:医者のK先生に,あなたのところへ行って,あなたをお連れするように言われました.

 

[02]P:えーと,わたしはなんともないですよ.

 

[03]M:でも,K先生とS先生が昨夜あなたとお会いになりましたよね?

 

[04]W:はい

 

[05]M:先生方があなたに今日の午後おいでいただくようにということで,わたくしどもがあなたをお訪ねするようにと言われまして, で車を用意してありますので

 

[06] P:ああ,じゃあ,適当にこちらから伺いますので. よろしければ.

 

[07]W:適当な時になんて言ってたら,けっきょく行けないわよ.

 

[09]P:行くさ.

 

[10]えーと,そのー,つまりK先生はとてもお忙しい方で,今日の午後あなたと病院で会う約束になっているんです.

 

[11]W:先生と会いに行ったって,別に困るわけではないんでしょ?

 

[エスノグラフィー(ゴフマン)的解釈]

○ゴフマンならばここで「裏切りの漏斗」とい概念を用いると予想される

→ある人(ここではP)に対して、周囲の人(ここではMとW)が精神病患者としての役割演技をとるように求める行為構造

→しかしこの時点で「Pは精神病患者である」という(社会学者の)規範的な眼差しが前提化されているため、前述の社会学的記述のジレンマに陥っている

 

[エスノメソドロジー的解釈]

○EMはまずより普遍的と思われる会話の順番規則に注目する

→するとMによる[01]が、「申し出」としての隣接ペアの第一成分(first component)、Pの[02]が第二成分(second component)を構成していることが明らかになるだろう

→さらにここでのPの応答は「前提レヴェルからの拒否(第一成分における発話内容の前段階からの拒否)」、「陳述レヴェルの拒否(第一成分に直接応じる拒否)」のうち前者である。

 

○さらにMの[03]と[05]を一つの会話順番とすると、これが[01]における「申し出」の繰り返し(Pに対する「精神病院に行きませんか?」)になっていることがわかる。

→慣習的に同じ内容の「申し出」が繰り返されるのは、第二成分(ここではPの[02])が不当な内容(聞き取りにくい/悪ふざけ、無視、軽視など)であることに起因する

→ゆえに[06]は[03-05]の申し出に対する第二成分を構成している

→整理すると[01][02]のやり取りが、[03-05]と[06]において修復され、反復されている。

 

○実例からも明らかであるようEMの分析は、

(ⅰ)規範的記述を行わないため価値中立的であり、

(ⅱ)成員の内面に行為の原因を見出すわけではないため、

(a)決定論的な因果説明に陥ることもない。

(b)心理や人格に行為の結果を帰属することもない。

→以降の章では序章に登場した概念の論理文法の観点と、本章でのEM的観点を併せて、心的述語を考察していく

 

 

 

 

第2章 心の透明性―主観的現象の分析可能性 p.71-124

○心の哲学の潮流において、心的述語を相互行為やそれが埋め込まれた文脈に注目し、接近可能であるとする立場がある。

→もしこうした文脈性と切り離されて心理現象が素描されるのであれば、その記述はたちどころに内面的形態として描かれること(内面へ帰属されること)になってしまう。

 

○例えば行動主義(パブロフとか?)は、現前に顕れた有機的行動「のみ」に注目し、そこから普遍的な内面過程が描き出されると考える。

→こうした試みは内面過程を行動によって顕在化すると勝手に思い込み、「心」を「操作化」しているといえる。

→他にもロジャーズやマズローの人間主義心理学やチョムスキーの心理主義言語学、あるいは現象学的心理学など様々な記述の方法論が提示され続けているが、単に加味する変数が「認知」「行動」「共同主観性」「言語」といったふうに変化しているだけで、「操作化」をしていることには変わりない。

→こうした試みに与することなく、本章では冒頭に挙げた心の哲学及び分析哲学の視座から「心」を再定式化する。そのために、

[ⅰ]まずウィトゲンシュタイン派哲学における「理解」と「意図」という心的概念を確認し(1節)、

 

[ⅱ]その次に上述の行動主義他のように、心的操作を議論の出発点にした際に生じる諸問題を踏まえ(2節)、

 

[ⅲ]逆に代替案としてどのような分析方法が適切なのかを示す。ここでは主にEMが取り上げられることになる(3節)。

 

[ⅳ]そして最後に心的述語が公的に表明可能なカテゴリとして扱う方法論を概観して終わる(4節)

 

 

一、コンテクスト内のふるまい―公的なものとしての「私的」なもの

○心の言語哲学一派は先述の通り心的記述をインデキシカルに行うことによって、心的現象の脱神話化に成功している。ここでは二つの例をとってそれを検討したい。

 

[「理解」の概念]

○従来的に「理解」という心的実践は、ライルが指摘するように「ピンときた瞬間」すなわち「理解の結果」にのみ焦点が当てられ考察されてきた。

→しかし「あることがわかった」=「理解」なのではなく、「あることがわかっていること」を公的なやり取りの中で表明できることによって始めて「理解」がなされたと見なすことができるのではないか。

○すなわち「理解」とは単に個人の内面で決着がつく実践ではなくて、内面でついた決着を表明し、「わかっていること」が公的な場にて当該個人に帰属されることによって初めて達成される。

→例えば『探求』におけるウィトゲンシュタインは、「理解」を「正しい公的表示(true display)もしくは公的適用」と表現している。また個々の場面設定において表明される「信号」であるともいえるだろう。

 

○さらにある人が「理解していること」と「理解していると思うこと」の間に溝がある。

→当人がある情報を「理解している」と「思っても」、それが公的なやり取りにおいて認められないのであれば「理解していること」には成り得ない。

→「理解している」という表明は単に「信号」を点滅させているだけであり、「信号」を認める人があってこそ成立するのである。ゆえに「理解」という実践はコンテクストの中で、双方向的に行われると定式化できる。

 

[「意図」の概念]

○「意図」という概念もこれまで行為者のみに帰属され、当人が隠し持っている心的現象とする解釈が主流だった。

→しかし「意図」の発見は何も当人だけの特権ではないし(1章2節の話)、逆に当事者がどれだけ自身の「意図」の所在を表明しても、コンテクストと辻褄が合わないのであれば他者によって承認されないだろう(人を殴った際の「意図」が、「昼だったから」とされても正当なものとは見なされない)。

→ゆえに心理学者が試みてきたような「意図」を普遍化する考察は、残念ながらコンテクストを視野に入れない限りは不可能である。

 

○シュッツはウェーバーが自身の理解社会学において「意図された意味」を軽視しているとして批判している

→シュッツは「行為の行為者に対する意味」はどのように理解されるべきかという問題群を、外面に顕在化した行動を観察することによって達成できると考える。

○しかし表明された「意図された意味」を検討することが、必ずしも行為の記述に正確性を保障してくれるわけではないし、さらに言えば「意味」にのみ注目し過ぎると正確な記述が行えない事態すらありえる。

[ex.]初冬の頃、男が薪を割っているのを見かけた。これを見た私は「彼が冬の準備のために薪を用意している」(意図された意味)のだと解釈する。しかし実は彼が薪を割っているのは、単に夫婦喧嘩でむしゃくしゃしているだけだった。

 

○このように「理解」も「意図」も単に行為者の内面的な営みではなく、むしろそれを同定するための公準はウィトゲンシュタインが主張するようにコンテクストに見出されなければならない。

→換言すればウィトゲンシュタインのいう「公準」とは、行動主義などがいう固定的・普遍的な「公準」とは一線を画しており、極めて状況志向性の強い性格であることが留意されなければならない。

 

 

二、言語の理解とは、規則にしたがった「心的操作」のことなのか

○『探求』語のウィトゲンシュタインに由来する分析哲学の潮流における心的現象の記述と/心理言語学や認知心理学における心的現象の記述は好対照を成す

[分析哲学(ハンター)]

○各人が明示的な言語使用のインストラクションをどこかで受けるのではなく、実際の言語使用の場面(すなわち言語ゲーム)に参与することによって、人は新たな使用法を自己充足的に学んでいくとする

 

[心理言語学(チョムスキー)]

○普遍的な言語規則をまず想定し、そのアルゴリズムを諸個人が学んでいくことによって新たな言語使用を獲得していくと考える

 

○後者の立場を引き継ぐフォーダーとキャッツは、ウィトゲンシュタイン派言語哲学には「言語コード」の概念が欠落しており、ゆえに言葉の「創造的な」新規獲得を説明できないとして批判している(/言語獲得はそのコードの読解によってなされる)。

→しかしハンターは、我々が日常的実践において言語を用いる時、誰もコードの読解など意識していない/我々は文脈に依存して「ただ話すだけ」であるとし、この批判を退ける

→「いかにして創造的に語るか」という(フォーダーとキャッツの)瑣末な問いに応えるためには、他のすべての競合する合理的説明が捨象されてしまうことになる(一を得るために十を捨てることになる)

 

[自然言語的意味論(ハリソン)]

○チョムスキーらのように、言語使用における心理的一貫性をまず考えるのではなく、「話し手-聞き手」の出す音声に規則性すなわち言語装置を認める立場

→ハリソンの主張するように、私たちが発話を行う際「どうした内容が適当か/否か」といった操作を機械的に行っているかもしれない。しかしクワインが指摘するよう「実現するための規則」と「実現された行動の規則性」は異なる。

→私たちが「あらかじめ」ハリソンのいう言語装置を持っていたとしても、現前に構成される発話それ自体を説明することはできない

 

○上述のように状況志向性を切り捨て、あらかじめ各人の内外に「言語コード」や「言語装置」が存在するとする発想自体が誤謬に基づくものであるといえる。

 

 

三、慣習上あって当然の前提と、認知に関する決定

○我々が社会の成員である以上、それらが織り成す相互行為は、当事者である我々自身にとっても説明可能(available-watchable)なものであると考えられる

→その点で相互行為における決定は「透明」なものであるいえる

 

○EMはこうした日常的実践者による説明可能性を前提とした分析を行うことで知られている。例えば以下のトランスクリプト。

ライナス:ヴァイオレット、一緒に遊ばない?

ヴァイオレット:あんたは年下じゃない!(ドアを勢いよく閉める)

ライナス:(困り顔で)ぼくの質問に答えてくれなかった。

○ライナスの視点に立つと、彼の1番目の発話によって「申し出」の隣接ペアが構成しているのにも関わらず、次のヴァイオレットの発話に第二成分が「不在」となっているため、ライナスが2番目の発話でその「不在」を嘆いていると考えられる。

○他方ヴァイオレットは「年下とは遊べない」という慣習的前提がライナスにも共有されていると見なしており、当該の発話内容によって「拒否」の第二成分が構成されると考えていると見なすことができる

→この2つの考察は、行為者が自身による実践を会話の秩序の中で観察-利用しているという前提の上に立脚している

 

○肝心なのは「心」に対する形式的記述もまた、上述の具合に相互行為的秩序の中で「透明」になっていると考えられることだろう

→人々の信念や態度が問題化される際、本人による表明よりも「見えているけど気付かない」慣習的前提の方が欺瞞によって隠蔽されにくく、そちらに注目するEMはその点でも研究上のメリットがある

○なおEMは慣習的前提を普遍的・絶対的な理論に帰納するのではなく、あくまでその秩序を再定式化するだけであるということは重要な留意点である(ガーフィンケルの秩序問題)

 

 

四、心的述語の使用法

○本節ではEM的な心的現象の記述を検討するために、いくつかの心的概念を例にとって、実際に行われた研究を参照する。

 

[動機]

○プラムとマッキューによれば、「動機」とは行為に先立つ心的原動力などではなく、行為を秩序立てて説明するために用いられる心的述語である

→「理解」と同様、この行為の記述は自己や他者といった観察者によって帰属されることになる

○さらにここから一歩踏み込んで考察を展開すると、「動機」が前理論的慣習のうち「成員のカテゴリ化装置」に結びつけられ用いられている事実が明らかになる

[ex.]「妻の殺害」という行為は、「夫」という対カテゴリが前提となっている

 

[理解/誤解]

○「理解」についてはすでに本章一節で解説したとおりである。そこではウィトゲンシュタインによる「公的表示」として定式化されていた。

→日常的会話秩序における「表示」は、サックスやシェグロフらの連鎖構造分析において顕著に伺うことができる。

[ex1.]隣接ペアの第二成分が構成される/あるいは不在となる際、第一成分がレシピエントによって「理解された」/あるいは「理解されていない」という事実が会話において「表示」されている。

 

[ex2.]会話において何らかの誤解が生じた時、成員たちは前後の発話において修復や「場違い標識」がなかったか探し、理解を改めようと努める

 

[想起/忘却]

○「想起」もまた「理解」と同じように、されたと「思われる段階(ピンと来た瞬間)」と、されたと「見なされた段階」を区別して考える必要がある

→実際の会話において「想起した」と帰属されることで初めて「想起」が達成される/独りで行われる「想起」は「想起したと思われる」段階である

○「忘却」の帰属に関しては少し事情がややこしい

→「記念日を忘れた」といった事態は単に規範的なサンクションの対象であるのに対し/「忘却」したというのは、本来「想起」が帰属されなければならないはずであるのに、その帰属が遂行されなかった状況を指す

[ex.]ある事件の直後に、現場にいた人に対して目撃情報を尋ねた際、「覚えていない」という発話によって帰属不可が示されると「忘却」されたと見なされる

 

 

五、結語

○本章での指摘は多岐に渡る内容なので、提示された論点を今一度整理して終わる。

[1節]「理解」「意図」という2つの心的現象とは、従来的に見なされてきたよう行為者にのみ限定される実践ではなく、文脈に埋め込まれた相互行為を顧みることによって始めて考察可能であることが示された

→「理解」と「意図」は、自己や他者の観察者になされたと「見なされた段階」で初めて実現される。

 

[2節]心的現象を「操作化」することによって生じる諸問題を、チョムスキーらの言語心理学とハリソンの自然言語的意味論を具体例にとって検討した。

→行為の理由をあらかじめ行為者の外部(言語コード)あるいは内部(言語規則)に存在する基底情報として捉える試みは、押し並べて謬計に基づいたものだった。

 

[3節]ウィトゲンシュタインやEMが主張するように、心的述語は個人の内面に潜むものなどではなくて、会話という相互行為的秩序の中に顕在する「透明」なものだった。

 

[4節]心的述語が実践の場でどのように用いられるか、「動機」「理解」「想起」の3つを例に考察した

→「動機」には成員のカテゴリ化装置が、「理解」には会話の連結構造が顕著に観察された。いずれにしてもこの3つは個人の内的営みではなく、公的領域における帰属の実践として把握されるべきである。

 

 

 

第3章 基本的経験の表現 p.125-150

○往々にして基本的経験は、心理ないしは主観性の観点から理論化されてきた。

→しかしこれら経験は公的領域で獲得される語彙であって、また社会的なレリヴァンスがなしにはこの獲得はありえない。

→本章ではまず内部知覚主義の反駁によって、「基本的経験の直示的教示が不可能であること/言語ゲームへの参与によって語彙が獲得されていること」がまず論証され、次に「痛み(1節)」「見る・聞こえる(2節)」「まるで○○に見える(3節)」という3つの基本的経験を具体例として検討する。

 

 

一、内部知覚主義

○一般に基本的経験は内部知覚主義によって獲得されるものであると信じられてきた

→まず客観的な痛みの経験があり、それに対応する身体反応(内部知覚)が起こることによって主観的「痛み」の経験が生じるという考え

→経験が個人的な秘め事のように内的知覚として記述される際、一体それがいかにして他者と共有されているのかが明らかにできない(「痛み」の経験が万人に同じ現象であるとは絶対に言えない)

○ゆえに経験それ自体を記述・観察することはどこまでいっても不可能であり、「経験していると他者が感じている状態」が記述・観察可能な対象であると捉え直されなければならない。

[ex.]ある集まりにおいて、参加者は箱に入ったカブトムシを愛でている。このとき互いに互いの箱の中を見ることができないが、「カブトムシをみんなが持っている状態」は全員に共有されている(ウィトゲンシュタイン)。

→客観的物象としてのカブトムシの実在はどうでもよく、箱の中にいる「カブトムシらしいもの」が諸個人のカブトムシの理解を支えている

○上述の考察を踏まえ、次に「痛み」という概念を検討する

 

[痛み]

○ハッカーはまず「痛み」という客観的経験を想定し、それを諸個人が主観的経験として「代替」させることによって痛みが生じると現象学的に説明している。

→客観的「痛み」が頭痛として生じ、次に腹に移ったとする。ハッカーの主張に従えば、それは変わらず「頭痛」であることになる(客観的「痛み」に普遍の定義を与えているため)が、これは明らかに「腹痛」として記述されるべきだろう。

→即ち「痛み」とは客観的定義が可能な対象ではなく(ゆえに主観的経験の代替も起こらず)、常に何らかのカテゴリ(強/弱、腹、胸、鋭利な/鈍い)と関連付けられ、公的に用いられることで初めて認識される。

○「痛み」の統一的定義が不可能である以上、行動主義的記述(客観的物象としての「痛み」)や現象学的記述(客観世界/主観世界)は謬計に基づいていると判断せざるをえない。

→できるのはただ、「痛み」という言語使用がどのようなコンテクストと関連付けられ、用いられているか観察することだけである。

 

○なお「痛み」の経験も「本当に苦しんでいる状態/痛いふりをしている状態」に区別され、「帰属されるか/否か」の判断を成員たちは相互行為において行っているが、これも言語ゲームへの参与によって習得される眼差しに準拠している。

 

 

二、聞くことと見ること

[聞くこと]

○音を「聞くこと」もまた「痛み」と同様に、往々にして現象学的な説明(客観的世界の主観的変換)が与えられてきた。

→こうした対比はライルが「オリジナルとコピーという物言い」として退けている

 

○例えば「機器による音声計測」は客観的音声、私たちの経験は主観的音声であるといった対比がなされる。しかし前者は単に機器が音を数値化したものであり、後者は経験表現に過ぎない。

→ゆえに両者の間に「客観/主観」「正確/曖昧」「正しい/誤っている」といった差異を認めることはできず、むしろ異なる言語ゲームとして記述される。

 

[見ること]

○視覚に関しても同様で、客観領域と現象領域の区別は原理的にできない。

→客観領域における色は完全に定義できないし、現象領域における色の「現れ」なども存在しない

○例えば「どの色を赤と呼ぶか」という言語使用の含意がなされなければ、色の概念を用いることはできない

→常に暫定的な言語使用の相互理解に則って、コミュニケーションが可能になる

 

 

三、現れ(見た様)

[現れ(○○みたいだ)]

○ある現実が何かに「見える」ということは、まさに主観的な営みとしてこれまで記述されてきた。

→すなわちここでも客観的物象世界が「オリジナル」としてまずあり、次にその「コピー」としての主観的な像が想定されている。

○会話といった相互行為の中で「~みたいだ」という発話が観察される際、現象を「それ(現象)とは異なるものなのは理解しているが、あえて別のものに形容する」といった組織化がされているのがわかる。

→つまり「現れ」の表明とは、客観世界の正確な記述というより、「驚き」や「対照」をレシピエントに示すための話法として用いられる傾向が強い。

 

 

 

第4章 「考え」について考えること p.151-185

一、考えが公的な現象であることについて

○「考え」も従来的に当人が接近可能な内的過程として記述されており、社会学者はその行為を観察したり、インタビューを試みたりすることによって他者の考えを知ることができるとされてきた。

→この観察技法は「言葉の意味は発話者の頭の中にある思考である」としたロック流の理解に基づいている。

○ウィトゲンシュタインはこうした理解を反駁し、(思考による)意味と言葉をそれぞれ独立したものであると見なしている

→例えば、考えなしにも言葉を発することはできるし、その言葉がコンテクストにおいて意味を持つことも十分に想定される(ゆえに思考は意識的作業ではない)。

→「ことばはそれ自体考えの乗り物である」―Wittgenstein

 

○では思考を心理的に生起した表象とする主張はどうだろうか

→こちらは「思い描くこと(表象の生起)/考える事(思考)」を同一視してしまっている

→例えば「赤色」の表象が思い描かれる時/それを用いて「茜色の夕陽」を思考することもできるし、あるいは「鮮血」についても思考できる。逆に「鮮血」と「茜色の夕陽」を思い描いていたら、「赤色」についての考察が始まっていたという事態もありえる。

 

 

二、「考える」という動詞について

○「考える」という記述はそれ単独ではほとんど意味をなさない

→ライルによれば動詞「考える」は「試みる」や「急ぐ」などと同様に副詞的動詞であり、常に他の行為(動詞)に寄生している(「考える」を単独で記述してもせいぜい「思慮深くなっている」といった意味くらいしか成さない)。

○同じ理由から「考える」「思考する」という行為もまた(それが寄生している)コンテクストと関連付けられて検討されなければならない/思考の対象が脳髄の中にあるなどという捉え方をしてはならない。

 

○2章で登場した「理解」などと同じで、コンテクストと照らし合わせて「思考」という実践が無矛盾ならば、その当人に行為の記述が帰属されうることになる。

→ただし「理解」はその内容を会話の連結構造において表示(ディスプレイ)されなければならなかったのに対し/「思考」は行為していることそれ自体が公的やり取りで示され、矛盾が無ければ帰属されうる。

→またこの帰属の作法も言語ゲームにおいて獲得される

 

 

三、思考の論理性と戦略的脈絡づけ

○後期ウィトゲンシュタインやルークスは、論理規則とは合理的思考のアプリオリな過程であると考えていた。

→こうした発想は「思考/合理的推論」の混同の上に成り立っている

○例えば明らかに合理性を欠く推論を行っていると見なされた人物に対してであっても「考えている」という行為の記述を帰属することは可能であるし、「昨日のご飯はおいしかった」「今年は従兄弟の別荘に泊まる」などといったそもそも合理性が問われない思考も想定できる。

 

○上述の認識を留意した上で、思考=合理的・論理的と見なされるケースも検討する。

→ある思考が合理的推論であると見なされるためには、いかなる帰属を行う必要があるか。以下の精神病患者と精神障害福祉事務員のトランスクリプトに注目してみよう。

患者:今日の気分はよくないです。でも昨日はよかったです。

事務員:昨日は何で気分がよかったのですか?

患者:昨日はアトラスだったんだ。

事務員:へぇ、あなたは世界の頂点にいたわけね。

○患者の第二の発話は明らかな妄言であるにも関わらず、事務員は応答している。

→レインらの実存主義的精神医学者の試みに顕著なよう、患者の(一見アノミーな)思考に対し、「戦略的脈絡付け」を行うことによって、隠蔽された合理的・論理的レリヴァンスを見出そうとしている

○キャメロンは上述の例のように、ある思考の帰属に際して、当該の思考において省略された(ように思われる)三段論法(すなわち論理性と合理性)を、「戦略的脈絡付け」の眼差しによって補おうとする慣習的前提が観察されるとした

→「戦略的脈絡付け」による補填の度合いが高いほど、推論の合理性・論理性の透明性ないしは自明性の度合いが低くなることなる

 

○上記を踏まえると論理規則とはウィトゲンシュタインが主張するように先見的な規定ではなく/むしろ思考における合理・論理を、コンテクストに照合しつつ局所的に見出そうとする、我々の眼差しに内在した「戦略的脈絡付け」であると定義できる。

 

 

四、「考える」「思う」の<使用中の論理>―経験的研究へ

○考えることを心的-意識的記述に還元してしまう試み(一節)、もしくは普遍的な論理規則の下に記述する試み(三節)はそれぞれうまくいかないということだった。またこの2つのやりかたでは実際の使用中の場面や文脈に目を向けることもできない。

→しかし「思考」は「理解」「動機」「意図」「痛み」などと同じく帰属の営みである以上、特定のコンテクストと独立させた記述はできない(二節)。

○例えば以下のトランスクリプト。

A:かれは僕たちを夕食に招待してくれるつもりだ、と僕は考えたんだ。

B:どうして?

A:だって今晩なにか予定があるか、って聞いたじゃないか。

B:えー、わたしには、彼が招待するつもりだなんてふうには、聞こえなかったわ

○Aは最初の発話で、思考(「招待してくれると思った」)を自己に帰属させるための表明を試みている。対するBはその帰属が不当なものであるとし、疑問を示している。

→Aのような”I thank (considered) that”という発話がなされる際、自己帰属の不確定性が当人によって表明されていると見なすことができるだろう。

 

 

 

第5章 感情と社会的コンテクスト p.187-213

○ウェーバーの近代論以降、社会科学は合理的知性を分析対象として定め、情緒や感情を周縁化してきた。

→しかしEMや分析哲学においては、感情や情緒ですら社会的コンテクストのうちに観察可能なものであると考えられている。

 

 

一、内的な出来事としての情緒

○「情緒」は「意図」(2章)や「動機」(3章)と同様、当該個人しか接近することのできない秘匿などではない。

→例えば「怒り」を表明される時、それがコンテクストと照らし合わせてみて整合性がある場合のみ、表明した者に帰属されうる。

→表明が当事者によるものか否か、もしくは生理学的な唯物論的世界の記述、といったことは少なくとも帰属の実践には無関係である。

○また「思考」(4章)と同じように、「情緒」の帰属においては文脈との無矛盾性が問われる傾向が強い

→ある「情緒」の訴えが合理的・論理的であるか否かは、前章の「戦略的脈絡付け」の眼差しにより、ある程度補填されうる。

 

○無論ある特定の感情が生起した際に、生理学的な変化が生じることは事実である。しかし、「情緒」の帰属と生理学的記述は異なる言語ゲームであるということだ。

→またシャクターとシンガーの実験によれば、生理学的刺激を与えても、被験者がその通りの「情緒」が自身に生じたとは必ずしも報告しない事実が明らかになっている。

[シャクター&シンガーの実験]

○感情の喚起を助長するエピネフリンという薬物を被験者に投与した、このとき

(ⅰ)被験者グループAにはエピネフリンの作用を説明した

(ⅱ)被験者グループBには作用の説明を行わなかった

→するとBのグループが感情的興奮を報告したのに対し/グループAはこうした報告をしなかったという

→Bは感情が生起した理由を告げられていなかったために、自身の社会的文脈に合わせて説明を試み、感情を自らに帰属したというわけである

 

○社会学者であるベッカーの主著『アウトサイダーズ』においても、上述の実験と同じ現象に関する言及が見られる。

[ベッカーのアウトサイダーズ]

○マリファナ吸引者について、服用初心者はマリファナがもたらす作用を「恐怖」や「不安」といった情緒の自己帰属に結びつける

→しかしベテラン吸引者の導きによって、そうした情緒が恐れるに足らないものであることが教示されると、情緒の帰属を改めていくという

 

 

二、情緒の表示とその取り扱い

○最後に「情緒」のディスプレイが、実際の会話分析的研究においてどのような扱いを受けるかを検討して終わろう。

[破瓜分裂病のシーラ]

※W1―ソーシャルワーカー1 W2―ソーシャルワーカー2 Sh―精神障害者(シーラ)

MP―シーラの母 ケースワーカー及び母にとってシーラの病気は周知である

 

[01]W1:きょうは何のお話をしようか。この前は自分自身ことについてお話してくれましたね。シーラさん。もう少し自分のことを話してくれない?

[02]Sh:(笑う。)

[03]MP:ほら話して[2,0sec]何がおかしいの?

[04]Sh:(泣き始める。懇願するように周囲の人を見つめる。)

[05]MP:泣かないの[1,0sec]黙りなさい。何が悲しいっていうの?

[06]W2:具合でも悪いんでしょう。

[07]MP:いや、この子はしょっちゅう泣くの。こんな風に。理由もないのに。

[08]Sh:(笑い出す。そして突然すすり泣く。)

[09]W1:どうして泣いているの?シーラさん。今日は具合がいいんじゃないの?

[10]Sh:(大きな声ですすり泣く 5,0sec)

[後略]

 

○情緒の帰属は先述の通りにコンテクストの省察なしにはありえない。ここでもシーラが精神病であるという前提を知っているはずのケースワーカーや母が「戦略的脈絡付け」を試みていることが観察される。

→[03]における母の発話はこうした帰属理由が見つからないため、質問の形式をとっていると考えられる。

→また[06][09]のケースワーカー2人の発話に登場する「具合」は、シーラの不安定な情緒を身体的-物理的要因によるものだとして正当化を試みるための概念使用である

 

○このように「情緒」に対して合理的・論理的帰属を行うために、一般的には慣習的前提(に基づく「戦略的脈絡付け」)が不可欠である。

→逆を返せば慣習的前提が局所的にでも共有されていない相手に対しては、「情緒」の帰属が困難になるだろうと推察される。このことは「冷徹」「残酷」「情熱的」といった人格表現の分析に示唆的だろう。

 

 

 

第6章 精神病の形而上学 p.215-237

○精神病というカテゴリは、周知の通り長きに渡る学術的な論争およびそれに伴う臨床上の問題として扱われてきた経緯がある。

→本章ではこの論争を整理したうえで、分析哲学-EM的記述によって「精神病」の論理文法を明らかにする。

 

 

一、精神病はほんとうに「病気」か

(ⅰ)レインらが牽引した反精神医学運動における論争点は、精神医学によって観念論的領域にあるはずの心的現象が、不当にも唯物論的対象としての「病理」として巧みに書き換えられてしまったところにある。

(ⅱ)対してピースワンガーらはこうした精神的病理の物象化の対象としてしかるべきだと主張している。

→この2点においては、精神病が存在論的カテゴリとして物象化されるべきなのか/観念化されるべきなのかが争点として鋭く対立している。

 

○ムーアが主張するように「病気」という概念は医学に先立って存在していた。すなわち「病気」とは唯物論的説明の対象というより、何らかの身体的・精神的機能の欠損を表明するためのシグナルであるといえる。

→コンテクストから独立した診断はありえず、ゆえに上記の(ⅱ)の主張はこの時点で淘汰されることになる。

→次に問題となるのは「病気」というカテゴリが社会的に構成されているとはいえ、ラディカルな構成主義者が主張してきたよう、精神科医による診断は全て虚構として退けられてよいのだろうかということである。

 

 

二、精神科医の診断はそのつどの状況においていかにして成し遂げられるか

○一節(ⅰ)における論者たちの多くは、精神科医による診察が社会的な関係性(法廷、病院、戦争、臨床実習など)によって恣意的に構成されており、ゆえに「精神病」というカテゴリは虚構であると主張する。以下でいくつか例を見てみよう。

[メカニックの考察]

○メカニックによれば、多忙な医師は患者と面会した時点で「すでに」患者を精神病であると仮定して診断を開始する。

 

[ダニエルズの考察]

○ダニエルズによれば従軍精神科医は、「一回の戦争経験によっては精神病は発症しない」という経験的規則をあらかじめ用意しており、この規則に基づいて診断を下していく。

 

[ローゼンハンの実験]

○ローゼンハンは所謂「ラベリング理論」を検討するため、数人の健常者に精神病患者の立ち振る舞いをさせた上で診断を受けさせた。すると8人の者が分裂病として入院を許可された。

 

○確かに上記の研究や考察が示すよう、精神科医の診断は社会関係に依存的であるのは間違いない。

→しかしだからと言って、精神病は「神話」であるという結論を導出するのはあまりに早計であるといわざるを得ない。

○精神科医の診察とは、慣習的前提に則って患者の振る舞いを観察し、その上で「精神病」のカテゴリを患者に帰属させる(あるいはさせない)実践であると定式化することができる。

→ゆえに「精神病」のカテゴリは普遍的に直截指示できるものではないが、これはちょうど「頭がよい」ことが直截指示できないのと同様の理由によるものであり、それが存在論的に虚構であると結論付けることはできない。

→「精神病」は単に物象化(とそれによる普遍的定義付け)ができないだけであり、社会的コンテクストの中には確実に存在している(「頭がよい」ことの普遍的定義は存在しないのに、日常生活において記述として機能している)。

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