top of page

Walzer,Michael 1983 『正義の領分―多元性と平等の擁護』

『正義の領分―多元性と平等の擁護』 1983→1999 M・ウォルツァー

 

第一章 複合的平等 p.19~60

 

1,多元論

・配分的正義についての理論は伝統的に経済的財について扱ってきた(功利主義、リベラリズム、リバタリアニズム、マルキシズムetc)

→しかし、財は一元的ではなく多元的であり(個人的には食事、住居、衣服/集団的には神の恵み、権力、名誉)、単に経済的財がそれらに対して優位(dominant)であっただけである。

・ゆえに、(多くの平等的配分原理が財の価値の統一性を保持しようと努めてきたのとは裏腹に)多元的な財の平等な配分として適正な原理も多様である(ロールズ的正義、自己所与有権、愛、家柄、友情、必要性、功績など)。

 

 

2,財の理論

・配分がこのように多元的なものであるということを説明するために、当面のところでは財の理論が望まれ、財の理論は以下の6点からなる。

①配分的正義が関係する財は全て社会的財である。

・財の意味世界が社会的に共有されなければ、そもそも財に価値が付加されない(交通安全は皆が望むから価値がある)

 

②人々は財の交換を通して自己同一性を獲得する。

・財は社会的であり、その交換は共同主観的世界を創出する。ゆえに交換は各人に自己同一性を授ける/自己同一性が確立されていないと財の交換は不可能である。

 

③道徳的・物質的世界を統一することが出来る単一の財は存在しない。

・キリストがパンを均等に20割したとき、その場のすべての人がパンを望んだのは間違いない。しかし、ここでパンが単一の財となったのは状況のせいであり、余裕があればパンを望まない人や焼いて食べたい人など諸価値が乱立しただろう。

 

④財の動きは財自身の社会的に共有された意味に基づく

・例えば、収賄や売春はそれぞれ「財の動き」であるが、その意味が理解されている以上、禁止されるだろう。ゆえに「財の動き」は社会的に構成されている。

 

 

⑤財の価値は歴史的(流動的)なものである

・財の意味は共同主観的世界に依存しており、ゆえに社会が変化すれば意味も変化するため歴史的(流動的)であるといえる/スタティックでない

 

⑥財の意味は多元的であるため、配分はそれぞれ自律していなければならない

・パンの意味はその領分に限定的に共有される。ゆえに単一の財を異なる領分に配分しても機能しない/配分は領分ごとに自律している必要がある

 

 

3,優越と独占

・独占(monopoly)/優越(dominant)

→前者が一つの財を単に専有してしまうことである事態であるのに対し/後者は一つの財が他の財を支配する影響力を有してしまう事態のことである(例えば、「貨幣」は「食事」に優勢である。強い「意味」/弱い「意味」)

→優勢した財の取り合いがイデオロギーや階級を生み、競争を生じさせる。

(【メモ】独占は量的評価/優越は質的評価)

 

・これを踏まえると平等主義的配分原理は以下の三つに区分される。

①財の独占を不公正とし、財の優越性関係なく財を配分されるべきとする主張(リベラリズム、分析的マルキシズム)

②財の優越を不公正とし、全ての社会的財はそれぞれの領分に自律的に配分されるべきとする主張(ウォルツァーの立場)

③現集団による財の独占と優勢を不公正とし、新しい集団によってそれが塗り替えられるべきであるとする主張(伝統的マルキシズム)

→③の主張は伝統的マルキシズムに顕著なもので、階級闘争によって資本家の財の優勢が解決されると、労働者によるユートピア世界で問題化されるのは①となる(ゆえにこの主張は①に回収される)。

 

 

4,単一なる平等

・単一なる平等は①「財の独占の解消目指す立場」によって推奨される。

→確かにリベラルが主張するように貨幣の独占を解体すれば、その優越も一時的に解消されることになる。

→しかし、再び異なる財(食料や医療などといった生命維持に関わるものが通常支配的になるはずである)が優越性を獲得するため、堂々巡りに陥る。

・また、「単一なる平等」の達成は政治的介入が必然的に求められるが、こうした政治的権力こそが最も優勢でかつ最も危険な財である。

 

5,専制と複合的平等

・本書では独占を粉砕ないしは抑制する「単一の平等」ではなく、②財の優勢を抑制する「複合的平等」を推す。

→複合的平等は、本来的に関係のない財Aの価値が別の財Bの価値に転用されることを防ぎ、財Aは財Aの内部で、財Bは財Bの内部的価値に基づいて配分する。

(【メモ】単一的平等は財の質的側面を無視して量的に配分する/複合的平等は財の質的側面に注目して領分ごとに自律した配分をする)

 

・パスカルとマルクスが主張しているように、

①財の配分は財に対して共同主観的に付加された意味に基づく

②こうした配分原理の軽視は専制につながる

→特定の財が優勢になるとき、その財を獲得している者が支配力を握るため

・ゆえに複合的配分は以下のように記述される

→「ある社会的財xは、別の意味を持つ社会的財yがただ所有されているという事実だけを根拠に、yを所有している人々に配分されてはならない」(xはyの意味-価値-配分に独立する)

→解釈可能性(accountable)―可変性(open-ended)

 

 

6,三つの配分原理

・複合的配分が志向されるのはよいとして、では次にその配分原理はどのようなものが複合的配分の条件を満たすだろうか。以下では、自由交換、功績、必要の三つの場合を検討する。

 

[自由交換]

・自由な市場において、各人は社会的財を自身の自発的意思に基づいて交換するため、一見すると社会的財の優勢が解消され、財の意味がそれぞれ独立しているように思える。

→しかし、「各人の自発的意志による交換」という建前があっても、各人はより優位な財(政治的権力、貨幣)を求めることになるため事実上は専制である/複合的分配は達成されない。

 

[功績]

・功績に基づく社会的財の配分は、社会的財の優位下位に関係なく行われるため複合的配分が可能になるかもしれない。

→各人は「価値のある絵画を収集する能力」(功績)を有しており、「絵画の交換」(社会的財の配分)がその能力の高低によって規定されているとしても、他の財(愛、食料、政治権力)と絵画の間に境界線引きする尺度がないため、それぞれ独立した配分になりえない。ゆえに複合的分配は達成されない。

(【メモ】おそらく自己所有権の議論に関わってきそうな箇所だが、いかんせんわかりにくい。)

 

[必要]

・かつてマルクスは「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」社会的財の分配が規定されると考えた。

→後半部だけでは社会的財がそれぞれ独立に分配される可能性を示唆しているが、前半部によって社会的財が各人の能力に比例して公有されるとしており、これは諸財の間に序列関係を設けてしまう(ゆえに財に優勢が生まれ、単一的平等がもたらせる)。

(【メモ】外的資産(社会的財)に優勢が生まれるがゆえに、自己所有権のうち資質は否定されなければならないという理解でおk?)

 

・以上の考察の含意として、ある社会的財の意味及び移動は共同主観的に構成されているため、社会的財を完全に理解することは、ある社会を完全に理解することにつながる。

 

 

7,階層制度とカースト社会

・例えば、カースト社会では社会的財が宗教的教説に基づくヒエラルキーによって分配されている。

→こうした特定の教説が強い支配力を持てば持つほど、当該社会における財の分配が画一的な原理に基づくことになるため(特定の財の優勢が成員に納得されてしまうため)、複合的平等が達成しにくい。

 

 

8,議論の舞台

・本書が社会的財の分配に注目して描き出そうとする社会は「政治的共同体」(【メモ】十中八九、国家という理解でよい)である。

→政治的共同体の内部では、様々な局所的な共同体が存在しており、局所的な共同体はそれぞれ独自に財に意味を付加している(共同体Aは食料に意味を付加し、共同体Bは身の安全に意味を付加する)。ゆえに政治的共同体は、その下位集団である局所的共同体の多元性を認めつつ、複合的分配-正義を決定しなければならない。

 

・他の可能性としては地球規模を社会的財の分配から描き出すことも可能である。

→これが可能でも本書のアプローチとは異なる(【メモ】たぶんポッゲとかハートとかネグリとかに任せようよってことだね)

※というわけで以下の各章では「穏当な多元性の現実」を抱える政治的共同体(国家)における、様々な社会的財の分配について検討していくよーという流れ。

 

【メモと批判】

・かなり抽象的なので読むのに時間かかった。わからなくはないけど。

 

・というか8章はあからさまにロールズ意識しているね。ロールズ的に定式化すると、

①局所的共同体は「包括的教説(独自の財の配分原理)」を有する

②国家は政治的道徳としての正義(ロールズにとっては単一的分配―「独占」の解消/ウォルツァーにとっては複合的分配-「優勢」の解消)を遂行する。←これ重要

③「国家(政治的共同体)」の内部には共同体が多く存在する(穏当な多元性の事実)ゆえゆえに、

④国家は多元性を認めつつ、それらを充足する正義を遂行しなければならない

 

・あとグローバル-諸国民の法>国家-政治的道徳>共同体-共通善という規模の序列付けもロールズと完全に一致しており、さらに政治的道徳としての正義が国家にしか適用されないという所見も一致している(つまり割とこの二人は意見が一致しているんよ)。

 

第2章 成員資格 p.61~108

 

1,成員と部外者

・政治的共同体(国家)において、「他のあらゆる社会的財の配分を決定する財」が成員資格(国民性 nation-ship)である。

→資格認められる成員は相互扶助に義務があり配分を受ける権利がある/資格の認められない部外者は相互扶助に義務はなく配分をうける権利もない。

・人種や性別によっても社会的財の配分は決定されうるが、第一義的には政治的道徳が適用される国家における配分原理は成員資格である。

 

 

2,類比―隣人関係、クラブ、家族

※ここでは政治的共同体としての国家の成員資格(すなわち「国民性」)と/①隣人関係 ②クラブ ③家族における成員資格の差異が明らかにすることで、茫漠とした「国民性」という観念の輪郭を素描する。

 

[①隣人関係]

・卑近な例では「学校PTAの成員資格」がこれに該当する。

→偶発的な関係性であり、「部外者」が受け入れられることもあれば、排除されることもある(来るもの拒まず/去るもの追わず)。

・シヴィクはこの隣人関係こそが国家の成員資格の理想系であると主張した。

→しかし国家の場合、多くの人は移動制限があり、同一の地域への定住を好む。ゆえに、隣人関係ほど自由度は高くない。

→もし各人が自由に国家への参加/不参加を決定できても(国外への移住ができても)、その場合、各人の心理的紐帯は極めて弱化するため、国家が成り立たなくなる。

 

[②クラブ]

・卑近な例では「政党」がこれに該当する。

→結成時点でのメンバーが絶対的権限を有している関係性であり、「部外者」が受け入れられるかは結成メンバーの選択によって決まる(来るもの拒む/去るもの追わず)

・実際、合衆国を創設したメンバーはアングロサクソンに成員資格を認めたが、ネイティブインディアンには認めることなく排除した。

 

[③家族]

・卑近な例では「宗教的会衆」がこれに該当する。

→偶発的関係であるのにも関わらず、互いに道徳的義務を負っている関係性であり、偶発的な成員資格によって各人は各人に相互的な義務が生じる。

・「部外者」の受け入れも半ば義務化されており、この点においても多くの現代国家と家族の成員資格は類似しているといえる。

 

 

3,領土

・家族/(政治的共同体としての)国家の決定的な差異は、前者が単に道徳的義務からなる共同体であるのに対し/後者は道徳的義務に加え領土―地理的境界線からなる共同体である点に求められる。

→領土内部における二つの社会的財(「資源」と「安全-福祉」)は有限であり、ゆえに成員資格が制限されなければ枯渇する―無条件に「部外者」の成員資格を認めることは出来ない。

・以下では諸「部外者」に対する成員資格がどのような場合に認められるか/認められないかを検討する

 

[「白豪主義」と緊急な必要に基づく要求]

※ここでは「移民」の場合について

・1891年にオーストラリアに移民が殺到したとき、オーストラリアは広大な資源を有しているのにもかかわらず白豪主義によってそれに応えた(成員資格を認めなかった)。

→これはシヴィクの政治的共同体理念系(隣人関係)、ロールズの格差原理にそれぞれ反している。

→しかし、成員/移民はそれぞれ異なる文化的背景を有しているため、当該国家において単一的平等ではなく複合的平等が達成されなければならない。そして国家には移民に対して「成員資格を認めること-複合的平等の達成」の義務はない。

 

 

[亡命者]

※次にやむを得ない理由を抱える移民=「亡命者」について

・例えばグルド人は単なる移民の場合とは異なり、貨幣や食料という他の社会的財以前に「成員資格という社会的財そのもの」を求める亡命者である。

→国家はこうした亡命者を、

①排除された人々に力を振るうことになるから(それは彼らを排除した国家を肯定することに繋がる)

②多くの場合彼らは少数であり、国家の資源を圧迫しないから

という二つの理由から受け入れなければならない。

 

 

4,外国人であるということと帰化するということ

※次に単に入国をする移民の場合から一歩進んで、帰化という第二の入国段階について、アテネの例と現代の例が対照され考察される。

 

・移民たちにとって他国への入国はどちらかといえば消極的な理由によるものであり、当該国家もやむを得ない場合を除き、彼らに成員資格を認めなかった。

→しかし、外国人が積極的に帰化を望む場合/あるいは国家が外国人に帰化を要請する場合、成員資格の是非は異なる様相を見せる。

 

[アテネの在留外国人]

・アテネにおける在留外国人の多くは自発的に他国からやってきたものたちであり、中には社会的成功を収める者もいた。

→しかしアテネ側は彼らに政治的成員資格を認めておらず、在留外国人を労働力としてしか見なしていなかった。

・今日的には帰化した外国人(が労働力となっているのにも関わらず)政治的成員資格を認めないことは多くの場合問題化される。

 

[外国人労働者]

・多くの場合における外国人労働者は、貧しい自国から出稼ぎのために他国に帰化ないしは在留する。

→外国での労働は彼らの選択の結果であり、政治的共同体としての国家は、アテネの場合と同様に彼らに成員資格を認めなくてもよいのかもしれない。

・しかし、現在の先進諸国において低賃金労働は外国人労働者がいるからこそ成り立っており、換言すれば外国人労働者は出稼ぎ先としての国家を求めるが、逆に国家の側も外国人労働者を求めている。

→ゆえに彼らが在留もしくは帰化し、当該国家における労働力となる場合には成員資格が認められなければならない(さもなくば労働力を自国内から供給しなければならない)。

 

 

5,成員資格と正義

・複合的平等の議論において、安全、富、名誉、衣服、食事など様々な社会的財の配分について考察されなければならないが、本章冒頭にあるよう、成員資格はそれらの配分の対象を決定する点において、全ての共同体が有する社会的財であるといえる。

→ゆえに共同体についての説明(社会的財の配分を描き出すこと)はその成員資格の配分の説明から開始される。

 

【メモと批判】

・思ったけど、ウォルツァーは社会的財としての成員資格に優勢(dominant)を認めてはいないか。すでに第一章の主張と食い違っている感。

→優勢の定義は「ある社会的財が他の社会的財の配分に対して支配的になること」だった。「各共同体における成員資格の配分が、他の社会的財の配分を規定する」とするのはつまるところ成員資格が「支配的」ということなのでは?

 

・あとなにげにウォルツァーはロールズと途中まで同じ主張してる。

→ロールズの主張によれば国民性が「公正な協働システムとしての社会(国家)」を達成するための条件だった/ウォルツァーによれば成員資格が「政治的共同体(国家)」を達成するための条件だった。

・両者の差異は、

①ロールズは単一的平等から考えるため、格差原理において社会的弱者となる移民は例外なく顧慮されるべき存在であるのに対し/ウォルツァーは複合的平等から考えるためその限りではない

②ロールズが「国民性によって相互扶助が達成される」と考えたのに対し/ウォルツァーは「成員資格によって相互扶助の範囲が決定される」と考える(ゆえに国民性≠成員資格)

という二点に求められるかな。

 

 

 

第3章 安全と福祉 p.109~152

・共同体において成員資格が認められた各人には、当該共同体の「安全と福祉」の共同用意(provision)への義務が生まれる。

・政治的共同体(国家)内部には様々な包括的教説が存在しており、ゆえに諸教説の財の選好も異なる(愛、信仰、食料、政治的権力など)。

→しかし、これらの個別的な社会的財の配分は「安全と福祉」の共同用意の上に立脚しており、ゆえに政治的共同体(国家)においてはこうした「穏当な多元性の事実」を侵害しないために、「安全と福祉」の共同用意が必須条件となる。

 

・では共同用意への必要(needs)はどのように決定されるべきだろうか。

→警察官を10ヤードおきに配置したらおそらく治安は維持されるだろうが、費用対効果の面からすれば明らかによりよい方法があるように思える。

→一元的に決定はできないが、必要を考えるために「優先順位(どこの治安を維持するか)」と程度(どのくらい費用を割くか)は重要な尺度である。

 

※1節で「政治的共同体における共同の用意について」2-3節で「共同体一般における共同のようについて」

 

1共同の用意

・先述の通り、いかなる政治的共同体(国家)においても共同の用意は必要条件である。

→共同の用意とは成員が払う「会費」であり、「安全と福祉」とは政治体制によって提供される「会員サービス」である(【メモ】この関係性は広義の社会契約と全く同じ)

→ゆえにいかなる国家も広義での「福祉国家」である(ノージックのアナルコキャピタリズム批判にもつながる)

・ではどの程度「安全と福祉」が提供されるのが望ましいのだろうか。ここではアテネの例と中世ユダヤの例を並置して考える。

 

[紀元前5-4世紀のアテネ]

・アテネでは「一般的な」共同の用意に中心的な関心が払われていた

→医療、国家保全、葬儀、治安、衛生など全体の「安全と福祉」に関わるもの

・他方で、「個別的な」共同の用意はほとんど認められなかった

→教育への公的支払いはなく、また扶養料(生活保護)を受給のためには議会で自己弁護しなければならなかった。

 

[中世のユダヤ人共同体]

・ユダヤ人的共同体では「一般的な」共同用意に宗教的な関心を払った。

→屠殺、非ユダヤ人との取引の制限、節検例などまでもが全体の「安全と福祉」に関わる用意とされた。

・他方で、「個別的な」共同用意にも(半ば宗教的理由からだが)関心が払われていた。

→恵まれないものへの施し、教育費の公的支出

 

・アテネ-ユダヤ人共同体の例のように何らかのかたちで「安全と福祉」は共同の用意として実現されなければならず、そもそも「共同の用意に対する義務を認めない(ゆえに成員資格を無視する)」アナーキズム、及び「公正な財の獲得-移転の保護のみを共同の用意とみなす」ミナキズムは政治的共同体の体制としては不当である。

 

 

2,公正な分け前・参加

・成員資格を持つものにとって公正な分け前-参加とは ①共同の用意の範囲=「安全と福祉」とはどこまでを指すのか(3節)②領域内部における固有の配分の原理(本節)

の二点から考えられなければならない。

→本節では②を考える

 

・ユダヤ人共同体において「貧しい人への施し(顧慮)」は宗教的教説に基づいて行われていた。他方でアテネにおいて「貧しい人」は自身の顧慮のために議会で自己弁護しなければならなかった。

→何が社会的必要(needs)として成員に認められるかは文化的条件に依存している/社会的(needs)は単に物質的不足のことではない

 

・ユダヤ人共同体において「教育費の公的支出」も宗教的教説に基づいてなされていた。

→しかし、スペインのラビたちはそれ以上に教育が相互扶助(共同の用意)に対する各人の理解を促す機会であるということを理解していた。

(【メモ】これはロールズの教育観とかなり近い。ロールズによれば教育は各人の「公正な共同システムとしての社会」への参画を促す公知性の伝達現場として機能する)

 

 

3,用意の範囲

・共同の用意はどこまで適用されるべきか―「安全と福祉」といったとき、そのリストにはどのような社会的財が加えられるべきか。

→ロールズは原初状態-契約論によって「社会的財の平等的分配の必要性」を導き出した。しかし、「無知のヴェール」によって各人の必要(needs)の文化的背景は問われていないため、「いかなる社会的財が分配される必要があるか」についての回答を導き出せていない(「負荷なき自己」批判)

 

・結論としては共同の用意-「安全と福祉」の範囲は各共同体によって異なるため(=各共同体の包括的教説に依存しているため)、その絶対的指標を設定することはできない。

→例えば、ノージックの描く最小国家は「権限の保護」のみを共同の用意として設定するが、ユダヤ人共同体は「教育」を公知性の観点から共同の用意の範囲に含めている。

 

※単純化すると

①共同の用意-「安全と福祉」の範囲設定 ②公正な分配とその義務   

は両方とも共同体ごとに異なるよってこと。

 

 

4,アメリカの福祉国家

・アメリカは西側世界の中では「安全と福祉」の範囲が比較的狭い―「小さな政府」である。

→ここでは特に、成員による共同の用意が遅れている領域―医療ケアに注目する。

 

[医療ケアの場合]

・近代以降、疾病は(古代や中世とは異なり)医学によって解決可能な問題となり、かつ以前からそうであったように「誰の身にもふりかかる」偶発的問題であるがゆえに、多くの共同体で「安全と福祉」の範囲に含められてきた。

→にも関わらず、現代アメリカにおいては、成員が「医療ケア」を共同の用意の対象と見なしておらず(会員費を払わず)/また政府も「安全と福祉」の範囲にこれをほぼ含めていない(会員サービスとして提供しない)

・むしろ、医療ケアは成員の必要(needs)としてではなく、個人の支払い能力の問題として対処されている。

 

・2-3節で明らかにされたように、共同の用意/安全と福祉の絶対的指標はなく、ゆえにアプリオリな規定はできない。

→が、医療ケアは多くの共同体において必要(needs)なので、共同の用意の対象として選択されるべきではないのだろうか。

 

 

5,慈善と依存性についての覚書

・ユダヤ人共同体に見られた「貧しい人への施し」は慈善による分配であるが、社会的弱者がこうした慈善に対して依存してしまうという批判は往々にしてなされる(生活保護受給者の自立の問題)

→モースの古典的名著『贈与論』にあるように、贈与は返済義務を生じさせる。この社会的弱者が返済義務を果たすために、社会的な自立支援が必要であり、ゆえに「弱者の救済」を共同の用意として定める共同体は、同時に「弱者の自立支援」を共同の用意として設定する必要がある。

 

 

【メモと批判】

・議論が入り組んでまいりましたよ。一旦整理な。

[一章]社会的財の配分を独占/優勢に区分して、後者に注目する複合的平等を考えていくよ。

→政治的共同体(国家)の内部で多元的に求められる諸社会的財の配分を描き出すことは、その社会全体を描き出すことだから次章からやっていくよ。

 

[二章]国家においてその他の社会的財が配分される範囲は、一義的には「成員資格」という社会的財の配分によって決まっているよ。ゆえに成員資格だけは全ての共同体に共通する社会的財だよ。

→国家は成員資格を持たない「部外者」に対して配分を拒否することができるよ。でも国家の側が「部外者」を求めているなら成員資格を与えなきゃダメだよ。

 

[三章]成員資格を持つということは「共同の用意」(相互扶助)に義務を負うということだよ。

→成員が「共同の用意」を「会費」として払えば、共同体は「安全と福祉」という「会員サービス」を提供してくれるよ(つまるところ社会契約だよ)。

・ただし「共同の用意/安全と福祉」は包括的教説に依存しているから共同体ごとで異なるよ/アプリオリに決定できないよ(でも医療ケアはだいたいどこでも必要needsだよ)。

 

・この章への所見としては、1節でミナキズムを否定しているのがよくわからん。アナーキズムが「共同の用意/安全と福祉」を一切認めないから政治的体制じゃないのはわかる。でもミナキズムは「獲得-移転の保護」を(唯一)「共同の用意/安全と福祉」認めているから政治的体制であるはずじゃん。ノージックが怒るでほんま。

 

 

 

第4章 貨幣と商品 p.153~203

※本章では社会的財の一つである貨幣について考察される。貨幣は一般に財の中でも優勢(dominant)なものであり、ゆえに単一的平等の観点からは分配の対象に設定される。

→本章では複合的平等の観点から、その優勢の解消(主に政治/経済の区分)が主張される。

 

1,普遍性のある取り持ち役

・貨幣については、

①何を買うことができるのか

②どのように配分されるべきか

の順に問われなければならない。

→①は1-2節で、②は3-5節で考察される。

 

・貨幣はマルクスが主張したように、あらゆる交換の「意味」を一元化してしまう。

→しかし、交換される財の価値に注目すると、全ての交換が貨幣に還元されてはならないことが判明し、ゆえに「貨幣が買えないもの/買えるもの」の区別が生まれる。

 

 

2,貨幣が買えないもの

・1863年のアメリカにおいて「徴兵制を300ドル払うことで拒否する制度」が設けられた。

→これは「公共性(国家の防衛)」を「私的な処理(300ドルの支出)」に変換する点において、共和制の原理と矛盾し、ゆえに当時のアメリカにおいて不当である。

→貨幣によって買える/買えないもの境界線引きは、「買えないもの」が独立した権利を有しているということ(貨幣の優勢dominantの否定)を明らかにすることで達成される。

 

※ここでウォルツァーはA・オカンの議論に依拠しつつ、14からなる「貨幣が買えないもの」のリストを製作している。先述の通り、目安としては「買えないもの」の自律性が認められるか否かということに求められる。

 

 

3,貨幣が買うことのできるもの

・交換体系は①市場交換と②贈与の二つに区分することが出来る。

→このうち②は7節以降で考える。

 

・では①市場交換において、「貨幣はなにを買うことができる」のか

→社会学者のレインウォーターによれば「貨幣は成員資格を買うことができる」/「商品とは成員資格である」

→社会関係が貨幣-商品に依存しているから(ゆえに貨幣>成員資格という優勢)

・このレインウォーターによる観察は、2節にあるよう「買うことができないもの」の自律性を保護すれば解決できる。

 

 

4,市場

・市場交換において、各人は外的資産を獲得する。

・さらに、このうち外的資産は功績(deserts)/報酬(rewards)に区分される。

→前者が外的資産のうち社会-政治的側面であるのに対し/後者は外的資産の経済的側面である。

・メーシーが純粋な市場の競争によって報酬(rewards)の成功を収めたのに対し/シュトラウス兄弟は後者の成功の後に、政治活動の領域においても活躍し、功績(deserts)まで獲得した。

 

・しかし社会学者のゴルツによれば、シュトラウス兄弟のように私的所有(報酬)が権力(功績)に比例するようになると、社会的弱者は追いやられてしまう。

→レインウォーターの観察と同様に「貨幣が成員資格にまで及んでしまう」

 

 

5,賃金の決定

・資質と外的資産の自己所有権は正当である。

→問題は外的資産のうち経済的側面(報酬)/社会的側面(功績)の峻別である

・つまり、「前者が後者に影響を及ぼす状況」―貨幣の優越(domination)は解消されなければならない。

(【メモ】自己所有権の議論キタコレ。しかも、ウォルツァーの主張はノージックの主張と矛盾していないところが興味深い。ノージックは『アナーキー』の8章10節で経済的能力が政治的権力と明確に区別されるべきだと明言している。)

 

 

6,再配分

・政治的社会的側面/経済的側面の峻別によって、再配分は

①絶望的な交換を指し止め、労働組合等の市場権力に関わる(市場への限定)

②税体系を通した直接に経済的側面に関わる(貨幣への限定)

③苦情申し立て手続きや生産手段の共同管理などの所有及び所有権に直接関わる(生産手段への限定)

ものであると定義される。

 

 

7,贈与と相続

・次に①市場交換とは別の交換体系である②贈与に注目する。

→この問題を考える上で贈与/相続が区別される必要がある。

・前者が現世代の社会関係のみに限定される(ゆえに貨幣-商品に無関係である)のに対し/後者は次世代にその財の使用権原が委ねられるため、経済的/社会的という峻別が徹底されなければならない

 

 

【メモ】<ちょっと重要だよ

・ウォルツァーのロールズ、ノージック、さらにコーエンの一歩先を行っている感。

①ロールズが最初に恣意性を根拠にして自然的平等を否定した

②次にノージックが権原理論を根拠にして自己所有権を肯定した

③コーエンは二人が自己所有権のうち資質/外的資産を区別できていないと主張した

④ウォルツァーはさらに外的資産のうち経済的側面/社会的-政治的側面の峻別を主張した

→ルーマン的には「区別/指示―観察」は無限に可能であるため(ゆえに規範理論のコミュニケーションは産出され続けている)

 

 

第5章 公職 p.204~255

1,公職の領域における単一平等

・公職(office)とは、政治的共同体としての国家が関心を持つ一つの地位のことであり、また社会的財の一つである。

→かつての世襲制(ウェーバー)では家族に回されていたが、こうした私的理由による配分は認められない。

 

・歴史上における公職は、

①中世社会においては資質によって

②前期近代社会においては正直さと効率性によって

③後期近代社会においては能力によって(―メリトクラシー)

それぞれ配分されてきた。

・③のメリトクラシーにおいて、機会均等は

(a)ロールズの第二原理のうち機会原理が主張するように地位-職務に対する「公正な」競争によって

(b)ギリシャのように輪番制(くじ)によって 達成される

→しかし、このどちらも単一的平等(公職の独占monopolyの解消)であり、複合的平等(公職の優勢dominantの解消)ではない。以下では他章と同様に後者の方法を検討する。

 

 

2,能力主義社会(meritocracy)

・能力主義を正当化する主張は、功績(deserts)/資質(qualification)を混同している。

→前者は「ある労力に対して認められた資格(結果性)」であるのに対し/後者は「周囲から求められる資格(適任性)」である。

・能力主義は功績の観点から、公職の配分の不平等を正当化するが、功績は偶発的で各人は真価を持たないため、配分原理としては不当である。

→これを最も徹底した(60から成る「能力」のリストを製作した)のが科挙試験。

 

 

3,資質の意味

・資質はさらに適任性/性質に区分される。

→前者が「周囲から求められる資質」であるのに対し/後者は「個人的属性としての資質」(アプリオリな条件)である。

・性質(人種、性別、出身地域)による公職の配分は「縁者ひいき」という歴史上不当とされてきた(ウェーバー世襲制)。

→政治的共同体において、公職の配分における「縁者ひいき」は、共同体全体の成員資格の配分に関わってくる問題であるためである。

 

 

4,公職の指定確保

・「縁者ひいき」が仮に公職配分を人種によって決定したとする。

→公職は特定の人種Aによって支配されることになり、さらに国家内部における成員/部外者の区別は公職によって決定されるため、人種Bには成員資格が付与されないことになる。ゆえに国家は分裂する。

→南北戦争期のアメリカが国家分断の好例である。

 

 

5,専門主義と公職の横柄さ

・公職の優越(dominant)は「能力(功績と性質)」だけでなく、専門性によっても担保されている。

→公教育によって成員が公職に匹敵する専門的知識を獲得すれば、公職の専門的特権性は解消され、さらに公職は市民に従属することになる。

 

 

6,公職の抑制

・本章で確認されたように、公職は「①能力(功績と性質)主義」(2-4節)と「②専門性(5節)」によって他の社会的財に対して優越(dominant)だった。

→こうした公職の集権制を解消する例として以下の三つが提示できる。

①小規模資本階級(プチブル)の世界

→相互扶助的な領域に公職を位置づけて自律性を確保する。

②働く者たちによる管理

→公職を労働の領域に位置づけて自律性を確保する

③政治的引き立て

→公職を政治的利権に変換し自律性を確保する

 

 

【メモと批判】

・最後の節だけ理解が及ばんかったぽよ。

 

・あと5節は理想論だよね。

 

 

第6章 辛い仕事 p.255~282

1,平等と辛さ

・ここで問題化されるのは負の社会的財としての「辛い(hard)仕事」である。

→「辛い(hard)」とは「耐え難い」という意。

・辛い仕事は往々にして、「ネガティブな人々」―黒人などの成員内部における異邦人/外国人労働者などの部外者(2章4節)に背負わされてきた。

→どちらの場合でも成員資格を否定する分配であるため不当である

 

・平等主義のおいて辛い仕事は(ギリシャの公職の配分のように)輪番制をとって解決されてきた。

→財の独占を否定しているため単一的平等である/他方で辛い仕事に関しては複合的平等による解決策は困難であるように考えられる。

 

 

2,危険な仕事

・兵役―若者によって担われ、英雄性によって動機付けられることがある。

・鉱山労働―兵役と異なり、国家によって強制されたことはない。

 

 

3,へとへとに疲れる仕事

・イスラエルの共同体キブツは、イデオロギーによってこれを意味づけすることに成功した。

→しかし、へとへとに疲れる仕事のうち、「食事の用意」は「食事の片付け」より価値があると信じられているのかもしれず、イデオロギーによる意味づけによってはこうした序列化ができない。

 

 

4,汚れる仕事

・「卑しい」という観念は文化に依存するため、汚い仕事を一元的には規定できない。

 

・三つの例から明らかにされたよう、何が「辛い仕事」(政治的、経営的、専門的)なのかは共同体によって異なる。

→その動機付けや交代が共同体によって管理されることもあるが、辛い仕事及び辛い仕事を請け負う人々を廃止することは出来ない。

 

 

第7章 自由時間 p.283~302

1,余暇の意味

・「余暇」は貨幣(4章)や公職(5章)と異なり、その優越(dominant)が危険にはならない。

・また現代社会における多くの人が余暇を仕事と対置する。

→「何も強制されることがない時間」ということを含意している。

・しかし、余暇に対するアリストテレス-アーレント的な「古代人の自由」(コンスタン)や、マルクス的な労働価値説などの卓越主義は多元性を無視しているため認められない。

 

 

2,休息の二つの形態

・休息は

①休暇(vacation)

・近代の交通手段の発達(車、鉄道)によってもたらされた休息。

→仕事と対置される私的領域における自由である(近代人の自由)。

・その配分は貨幣に依存する(貨幣が優勢である)。

②公共的祝日(public-holiday)

・安息日のように公的に共有される。

→その配分は貨幣に依存しない(貨幣は優勢でない)。

→後者において複合的平等は可能である。

 

 

 

第8章 教育 p.303~344

1,学校の意義

・教育の自律的な意味は「次世代への(社会的に構成された)規範の伝達」である。

→教師とは、教育という社会的財を学校内部で配分する高度に専門的な公職(office)であり、(ギリシャのように)輪番制によって任せられてはならない。

 

 

2,基礎的学校教育

・従来的な単一的平等では、成員全てに教育を受ける権利があると考えられ、その機会均等が主張されていた。

→しかし、『屋根の上のヒレル』のように、優秀な子どもを教師-学校の側から求めるという配分の形式もあり得るだろう。

→ゆえに教育の配分は、単にレシピエント(子ども)の問題だけではなく、それを配分する大人の問題でもある。

 

 

3,専門化した学校

・学校内部における教師による配分(=教化)は二つに区分される。

①「生活についての振る舞い」

→日常生活において求められる所作。いわゆる社会化としての教化。求められるレヴェルは、当該社会によって異なる。また、学校外領域においても獲得される。

②専門的知識

→5章で確認されたように、真の機会均等のために、公教育は多元的な必要(needs)に応答できるものでなくてはならない。ゆえに専門的知識の配分も担われることになる。

→しかし、ウォーウェルの高校時代のように、学校に導入された公職試験(5章)が激化すると、家庭の権力が学校に及ぶことになるため望ましくない。

 

 

4,結合と分離

・子どもたちにとって、「学校に行く」という義務は、「機会の配分」としてだけではなくて、「学校カリキュラムの受容」という側面からも生じている。

・学校のカリキュラムは以下の二つに区別される。

①結合

・カリキュラムの内容。当該社会が子どもたちに求めるもの(信仰心、科学的思考、農耕技術などなど)により異なる。

②分離

・カリキュラムによって育まれる人的能力。例えば、クラス替えによる別離と邂逅によって、子どもたちは連帯と協働を育むことなる。

→このうち①統合において伝授される内容は国家の要求に準拠しており、国家が専制的であるほど、政治的な強制力が強まる(特定イデオロギーの教化など)。

→よって、多元性を考慮するならば、①はより複合的平等の観点から、公正で民主的な内容でなければならない。

 

 

【メモと批判】

・回りくどいけど、つまるところ「教化内容(統合)」には民主的(/専制)にしようねというごく普通のお話だった。

・あと自律性のために親の権力とも区別しようねと。

 

 

 

第9章 親族関係と愛情 p.345~367

1,感情の配分

・一般に家族における愛情は配分的正義の問題を超えたものとして扱われる(ゆえに愛は社会的財として見なされない)。

・しかし、愛の配分は各家庭によって異なっており、「縁者ひいき」(第5章3節)のように、他の財(公職)に対して優越(dominant)になる場合もある。

→プラトンはこの政治的領域-公職/私的領域-家族間の優越を解消するために、共通の親(プラトンの守護神)を設けて、家族制度の解体を主張した。

→配分を均等にしている点において、「愛の単一的平等」として定式化できる。

 

 

2,家族と経済

・近代初期においての政治思想では、家族制は政治的共同体としての国家に従属的な「小さな国家」として記述されてきた。

→エンゲルスは産業革命時において、資本主義体制化における労働が「家族的きずな」を崩壊させるとして批判している(ネグレクトなどの問題化)。

→エンゲルスの考察には家族愛に対する貨幣の優越(dominant)を確認できる

 

 

3,結婚

・産業革命前の家族制度では、政治権力が愛に優越していた(縁者ひいき、政略結婚)。

→貴族政や封建制の解体によって、今現在の我々の愛の観念―いわゆるロマンティックラブが一般化した。

・ロマンティックラブは愛が愛であることによって支えられる自律的な形態であり、ゆえに複合的平等である。

・ルソーはこうしたロマンティックラブ成立の契機を重要視しており、「市民の舞踏会」という出会いの場の必要性を主張していた。

 

 

4,婦人問題

・家族愛は男女によって配分が異なる。

→女性は従来的に家族における愛の提供(子育て)を担当しており、ゆえに社会進出や経済活動、政治参画など他の財の配分でも不平等を被っていた。

・今後、こうした女性における愛の優勢もまた解決されなければならないだろう。

 

 

【メモと批判】

・本章の表題になっているように「愛」一般ではなくて、「家族愛」についての論考だね。

→異性愛に関する考察しかされていない。さらに、そもそも「家族愛」=異性愛っていうウォルツァーの認識はどうなのって疑問を投げかけたりもできる(そして確実に後の学者の誰かがそんな批判してる気がする)。

bottom of page