Weber,Max 1905 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
マックス・ウェーバー 1905 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
本書は言わずと知れた社会学の名著中の名著で、ほとんど全ての社会学部で、入学初年度にデュルケムの『自殺論』と並んで読む原典とされている。そのため社会学徒にとっては、ここで改めて解説する必要性も極めて低いレベルの本書ではあるが、(意外にも)『自殺論』とこれが最初に読むべき原典とされているのかについては把握していない初学者も多い。よってここでは簡単に内容を整理した後で、本書が社会学黎明期における主要な一冊に数えられる理由について解説する。
高校の世界史で学習するように、プロテスタントという宗派はルターによって生み出された。しかしウェーバーが注目するのはルーテル教会ではなく、カルヴァン派の方である。これも世界史で習う内容であるが、カルヴァン派の特徴的な教説として予定説なるものがある。予定説はオッカム神学初出の概念であるが、教説として体系的に取り入れたのはおそらくカルヴァンが初めてであり、神権至上主義が如実に伺える教えである。端的に言えば予定説とは、人間の意志や徳性といった本性は神によってあらかじめ規定されており、神によってアプリオリに与えられた天職を全うすることによって、救済されるという考え方に他ならない。またその必然的な帰結によって、従来的なキリスト教が忌避してきた蓄財も容認されることになる。
そしてこのほかのキリスト教には認められない、ある意味では異質とも言えるようなカルヴァン派における予定説に見られるエートスこそが、近代資本主義を生み出した源泉であるとウェーバーは主張する。具体的には先の蓄財の容認や天職といった考え方、加えて禁欲や節約といったエートスが、その後の近代という時代を駆動することになる最大のメカニズム―すなわち資本主義とまさしく合致していたというわけだ。ウェーバーの少し前のところで資本主義を定位したマルクスの区分に従えば、労働者には労働者の、資本家には資本家の天職があり、それを全うすべきという教説がカルヴァン派の予定説によって広く知られた、というわけである。
本書の主張の要点を駆け足だったが以上のようにまとめてみた。ところどころ端折っている点もあるが、おおまかには上述の通りであり、本書の構成は極めて単純かつ簡潔なものになっているといえよう(これも初学者が本書を読むべきとされる所以の1つだろう)。
ではなぜ本書が前述の通り長く・広く読まれ続けているのだろうか。確かにウェーバーは社会科学の歴史を代表する優秀な研究者であり、社会学という学問が大学で学ぶべきものであるということを強調し、デュルケムと並んで本学問を今日的な水準にまで高めた張本人に他ならない。しかし理由はそこにはない。このことは、むしろデュルケムとの対比によって明らかになるだろう。
よく知られている通りウェーバーとデュルケムは、国は違えども、コントによって提起された社会学をほぼ同時期に体系化し、1つの学術領分にまで育て上げた父祖でありに他ならず、この2人がいなかったら社会学は存在していないといっても過言ではない。ここで注目すべきなのは、2人が社会学を「固有性」を有する学問領域として確立したという点である。
新たな領分を提起する以上は、他の領分と区別する必要性が不可避に生じ、換言すればウェーバーとデュルケムには社会学の固有性を保証するための、独自的な観察対象を定める必要があった。このことはそれぞれの学史を遡行すれば極めて自明のことで、例えば臨床心理学の始祖フロイトは精神病理を対象として定めたし、現象学の始祖フッサールは共同主観世界を、記号論理学の始祖フレーゲは命題をそれぞれ対象として見定めたといった具合に、例に関しては枚挙に暇がないだろう。そしてウェーバーとデュルケムの場合は社会学であるため、当然その対象は社会であることになる。
しかしながら2人の社会の定義は興味深いことに、真逆のものだったことも有名な話である。すなわちデュルケムが「人間は社会によって構成される」と考えたのに対し、ウェーバーは「社会は人間によって(意図せざる結果として)構成される」と考えた。ちなみに後のところでは前者を「方法論的集団主義」、後者を「方法論的個人主義」と呼ぶようにもなった。また、おそらくデュルケムよりもウェーバーの方法論的個人主義的観点、すなわち「社会は人間が作り上げるもの」といった視座の方が日常的実践者の直観には適合するだろう。ただ先に強調したようにこれはあくまで「意図せざる結果(この言い回しも社会学者は好んで使う)」としてで、本書の内容に則するのであれば「カルヴァン派の信仰者たちは資本主義を作り出そうとして作り出したのではない」という点を留意しておくのは重要だろう。たまたま予定説のエートスが、後に資本主義と呼ばれる体制のメンタリティに適合的だっただけである。
ここからは完全に余談だが、現在の社会学において方法論的集団主義/方法論的個人主義の対立はほぼ過去のものになっている。一昔、パーソンズやマートンらが牽引する機能主義らが主張するように「構造」を社会学の分析対象とするか/あるいはベッカーやブルーマーが牽引するエスノグラファー一派を中心に主張するように「行為」とするかで一大論争が勃発したことがあった。いわゆるミクロ-マクロ論争というのがそれである。「構造による行為の規定」を訴える前者が方法論的集団主義の、「行為による構造の構成」を訴える後者が方法論的個人主義の伝統に、それぞれ位置づけられることは、言うまでもないだろう。
しかし「社会か個人か」、あるいは「構造か行為か」といった二項対立は、所謂「ニワトリが先か、卵が先か」という問いの形式に似ており、つまり互いに互いを規定し合っていると考えるのが最も自然かつ理に適っていると言えるだろう。実際にこうした個人と社会の相関性を分析対象にする理論も多くあり、例えばルーマンの社会システム理論などには、「コミュニケーション→社会システムの規定/社会システム→コミュニケーションの規定」といった具合に双方向的な視座が顕著に窺える。あるいはそもそも社会/個人という対立図式自体が社会学において不要であるとし、これまで「社会の構造/個人の内面」を明らかにするためのリソース程度に扱われてきた「相互行為」それ自体に秩序形成を見るエスノメソドロジーのような立場も台頭してきており、やはり両者の相克は過去になった感覚が否めない。
本サイトにてデュルケムの『自殺論』の解説もしているため、併せて参照されたし。