Wittgenstein,Ludwig 1922→2014 『論理哲学論考』
[はじめに]
※本書は構成がクソ奇抜なことで有名なので、ここではいくつか論点を先取りし、あらかじめ整理をしておく。
[記述の形式]
○本書の内容は命題の羅列からなる。命題をnと表記すると、
n.1――命題nにつけたコメント番号
n,m1――命題nのコメントmにつけたコメント番号
数字――この数に比例してコメントの論理的「大きさ」が大きくなる/下位の数字になるほど論理は「小さい」
→つまりm, o, p, q…と入れ子構造的に命題nが敷衍されていく
○また上記を踏まえると、以下7つの付言無しの命題こそが『論考』全体の骨格を構成することになる
1 世界はそうであることのすべてである。
2 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。
3 事実の論理像が、考えである。
4 考えとは、有意味な命題のことである
5 命題は、要素命題の真理関数である(要素命題は、それ自身の真理関数である)。
6 真理関数の一般的な形式は、こうだ。[¬p,¬ξ,N(¬ξ)]
これは命題の一般的形式である。
7 語ることができないものについては、沈黙するしかない
[主題Ⅰ:命題論理]
○アリストテレス以降、名辞(term)が従来的な論理学の基本単位だった
→名辞を用いると推論は行えても関係式が定義できないため、フレーゲによって命題(proposition)が論理学の考察対象に拡張され(名辞論理学から命題論理学へ)、ラッセルとホワイトヘッドがこれをさらに整理して現代(記号)論理学が完成した。
→記号論理学はさらに①命題論理と②述語論理に区別されるが、ここでは特に前者を解説する。
○命題論理は文字通り命題間の関係性を考える論理学である
→最小単位は要素命題(p, q, r,…)であり、これらを関係付けたものが複合命題である
複合命題は以下の4つの論理記述子によって定義される
(1)[否定/not] ―― ¬
(2)[連言/and]―― ∧
(3)[選言/or] ―― ∨
(4)[条件法/if~then] ―― ⊃
○また要素命題によって複合命題の真理値は一義的に規定されており、要素命題が真でないとき、複合命題も対応して偽となる(p:偽とすると、p⊃q:偽)。
→しかし複合命題には以下の2点の特殊ケースがある
(ⅰ)恒真命題(トートロジー)―― 命題「p∨¬p」(pもしくはpでない)のように、要素命題の真理値に関わりなく、複合命題が真となるような命題
(ⅱ)矛盾命題 ―― 命題「p∧¬p」(pかつpでない)のように、要素命題の真理値に関わりなく、複合命題が偽となるような命題
[主題Ⅱ:像の理論]
○「像(picture)」とは事実を写像したものだが、必ずしもイメージである必要はなく考察、音楽、詩、写真などであってもかまわない
→肝心なのはこれらの写像に際して、論理形式=現実の形式が共有されていなければ正確に行うことができないことだろう
○また命題3にあるよう「正しい論理像=考え」であり、命題4にあるよう「考え=(有意味な)命題」である。ゆえに現実と命題には論理形式の共有が不可欠である。
→フレーゲも「考え(Gedanke)」を「命題の意義(Sinn)」であるとしている。
○また命題は3.202より単純記号である「名前」の複合であり、「名前」は現実の構成要素である「事物」を指示する。
→ゆえに「名前(名辞)」の配列である命題とは、「事物」の配列である事態を描写できる。
→さらに命題の最小単位は名前である。それによって構成される要素命題および複合命題とは現実を反映する。
→真理値:真の要素命題を全て記述し尽くせば、世界は完全に記述されることになる(4.26)
○要素命題を記述するためには、複合命題を要素命題に還元する必要がある。
→これが「真理関数の論理」であり、命題5-6の内容に関わってくる
[主題Ⅲ:「語る/示す」の区別]
○「語る」はそこにあるものを明示的に言い表すこと
「示す」はそこにあるのはわかっても明示的には言い表「せない」こと/単に指示するしかできないこと
○哲学は「語ることのできるものをクリアに描き/語れないものを指し示す」(4.115)
→後者は以下の2つに区別できる
(ⅰ)論理形式――すでに見たよう、論理形式とは現実と命題を媒介する機能を果たしており、命題それ自体が「名前」の複合として語ることができても、その共有形式については語りえない。
→論理形式それ自体を語るメタ言語を用いれば記述可能だが、メタ言語を用いる際にまた論理形式が共有される必要があるため無限後退に陥る。
(ⅱ)神秘的・形而上学的なもの――価値、倫理、善悪、死または不死、神などといった、カントがいうところの超越論的領域の出来事
→死や不死、神は外部にあるため語りえない
→倫理(およびⅰの論理)はちょうど「語りえないもの(世界の外部)」と「世界の内部」の境界を形作っている
→これらを踏まえて、命題に還元されない「世界の外部」すなわち「語りえないもの」には沈黙せざるを得ないという命題7が導出される
[命題1]世界は、そうであることのすべてである。 p.6-7
○世界とは事実(not 事物)の総体であり、逆を返すとこれら全ての事実によって規定されているといえる
[命題2]そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。 P.7-18
[2.01-2.141]
○「事態」は「対象」からなり、「対象」は「①事物」「②事柄」の2つが結合したものである
○また対象は他の対象との関係性においてのみ思惟の対象と成り得る[2.0121]
→対象が全て与えられたら、可能な事態も全て明らかになる[2.0124]
○空間的な対象は無限の空間において思惟され、音ならならば何らかの音が、高さならば何らかの高さが同様に必要である[2.0131]。つまり位相によって対象は把握される。
○こうした対象が事態に登場する可能性を、対象の形式と呼ぶ[2.141]
[2.02-2.0272]
○対象は複合命題であり、それを構成する要素命題に分解できる[2.0201]
→世界の実体によって形式だけを規定することができる[2.0231]
→世界の実体とは形式と内容であり[2.025]、対象があるときのみ、世界の形式は可能となる[2.026]
○対象の配置が事態を形作る[2.0272]が、対象が確実なものであるのに対し、その配置は流動的で変化しうる[2.0271]。
[2.03-2.06]
○事態内部における対象の位相が「事態の構造」を構成する[2.032]
→さらに「事実の構造」はこの「事態の構造」から構成され[2.034]、現実になっている事態の総和がすなわち世界である[2.04]。
○つまり「ポジティブな事実」は現実になっている「事態の構造」であり/「ネガティブな事実」とは現実になっていない「事態の構造」である[2.06]
→ただしある事態と事態はそれぞれ独立しており、ある事態の現実化が他の事態が現実化しているか否かという推論のリソースにはならない[2.061-2.062]
→そして全ての現実が、世界である[2.063]
[2.1-2.19]
○私たちは事実の像をつくる[2.01]。
→像は現実化した事態を表しており[2.11]、像のエレメントが対象の代理をしてくれる[2.131]。
→ゆえに像のエレメントの配置は対象の配置に対応しており、これを像の構造と呼ぶ。また像の配置の起こりえる可能性を写像形式と名付ける[2.15]。
○像は写像形式を通して現実と関連しており[2.1513]、像のエレメントが事柄に割り振られることで写像関係が生まれる[2.1514]
○事実が像であるためには、「事実/写像」の間に何かが共有されている必要があり[2.16]、その何かが写像形式に他ならない[2.17]。
○さらに全ての像が現実を正確ないしは不正確に描写するためには、「現実/写像」の間に何かが共有されてなければならず、それは論理形式―すなわち現実の形式である[2.18]。
→写像形式と論理形式が合致するとき、それは論理像と呼ばれるが[2.181]、そもそも像が像である以上は論理像でもある [2.182]。
[2.2-2.225]
○像は写像されたもの(現実)と写像の論理形式を共有している[2.2]
→像は「事態が現実化している/していない」という可能性を描写することで現実の写像を達成する[2.201]
○像の真理値は写像される現実との「一致(真)/不一致(偽)」によって規定される[2.222]
→ゆえに像の真理性は現実と照らし合わせなければ明らかにできないし[2.223]、アプリオリに真理値:真の像も存在しない[2.225]。
※ここまでを整理すると
○世界∋「事実の総和」=「現実化した事態」∋対象の配置
○対象=事物の空間的位相(事物と事柄の関係性)
○像エレメントの配置 ←[写像形式による橋渡し]→ 事実(現実化した対象の配置)
○像 ←[論理形式による橋渡し]→ 現実
ゆえに像の真理値は現実と照合することで明らかになる。
写像形式と論理形式が一致するとき、論理像が描かれる
[命題3] 事実の論理像が、考えである p.18-36
[3.001-3.05]
○「事態を考えることができる」とは、その事態を像として想起することができることに他ならない[3.001]
→事態の像を全て集合させたものが世界の像である[3.01]
○ただし非論理的なことは考えること―像として思惟することはできない[3.03]
→思惟がそもそも論理形式に基づく写像である以上、非論理的なことは考えられないし[3.031]、それはちょうど幾何学において存在しない点を指示するようなものである[3.0321]。
[3.1-3.144]
○命題とはある考えを知覚的に表現したものに他ならない[3.1]
→命題は世界を射影するために、命題記号を用いるが[3.12]、この命題記号の複合こそが命題を構成している[3.14]。
→諸々の命題記号は文字記号によって表現されるが、その本質は空間的位相に配置された空間記号であると把握した方がよい[3.1431]
→例えば複合的命題記号[aRb]は「aとbはRという関係にある」ということを言っているのではなく、「aとbは何らかの関係にある」ということがRによって表現されているのである[3.1432]。
[3.2-3.263]
○命題記号の要素に思考の対象が関連付けられることによって、一つの命題が成立しており[3.2]、対象を指示する単純化された命題記号とはすなわち名前である[3.202]。換言すれば、命題において対象を代替しているのが名前であるとも[3.22]。
→ただし単に対象は名前に対応させられているだけであり、対象-事物の集合の内容を言葉で言い表すことはできない[3.221]。
○命題記号(名前)は複合命題を構成しているが、複合体はいまだ未確定である(真理値が導出されない)[3.24]。
→複合命題は命題記号に文節化できるが[3.251]、命題記号は最小単位であるためそれ以上の分割することができない原始記号である[3.26]。
[3.3-3.5]
○命題の部分(あるいは命題全体)で命題を意味づけるものを表現(シンボル)と呼ぶ[3.31]。
→表現とは1クラスの命題に共通するメルクマールである[3.311]。
→ゆえに表現とは、表現が特徴付ける1クラス命題群の一般的形式で描かれ、その一般的形式において表現は定項/他のすべては変項となる[3.312]。
→命題を値にするような変項を「命題変項」と呼ぶ[3.313]。
○述語論理学においてFx、Gx,y、(∀x)Hx,yなどの共通の変項(この場合はx)を持つ命題は1クラスの命題であると定義される。このとき開放文の内容は最初の変項を何にするかに依存しているが、記号を全て変項にしても論理形式に依拠することで諸命題はクラスを保てる―論理形式がある以上、命題変項はいかなる値でもとる[3.315]。
→命題変項の値の確定とは、同クラスの命題を列挙することであり、ゆえに値の確定はシンボルを次々と記述しているだけで何が表されるかについては語っていない[3.317]。
○異なる表現(シンボル)によって同じ記号が指示される際、それは変項の値の記述を次々代入しているのと同じ要領に基づいている(表現はいかようにも有り得る)[3.322]。
→こうした混同を避けるため、表現ではなく論理的な記号言語による記述を試みる必要がある(記号言語は表現と異なり、対象と一対一対応である)[3.325]。
→こうした論理的シンタックス(統語法)は記号の「意味」には関心を払わない。単に表現を記号によって記述するだけである[3.33]。
○また、この観点からラッセルの「タイプ理論」を検討すると、いとも簡単に解決策が提示される[3.331]。
→関数は関数それ自体を命題に含むことはできない。仮に含む場合、F(fx)という命題があるのであれば、F(F(fx))という表記がされてしまう。しかしこのとき内側の関数はφ(fx)という意味を、外側の関数はψ(φ(fx))という異なる形式を持つことになるので辻褄が合わない[3.333]。
→ゆえに命題は自己言及できないとあらかじめ定義しておけば、ラッセルのパラドックスは回避されるのである(これはラッセルも主張していることだが)[3.332]。
○ともかく命題は変項の列挙によってはいかような表現もされ、開放文を規定する名前(名辞=命題記号=項?)がどのように合成され、一つの命題を構成するかということは、名前にとって本質的なことではない[3.3411]。
→つまり変項を規定した個々の表現は重要なものではないが、個々の表現の可能性があるからこそ我々の経験は可能となる[3.3421]。
→他方で個々の表現は、先述の論理的シンタックスによって記号に還元される。例えば真理関数は「p∧q」や「¬p」などのように[3.3441]。
○命題は論理空間における、他の有意味な命題との位相の中にある[3.4]。
→命題記号と論理的な座標がこれを規定している[3.41]。
○用いられた(つまり考えられた)命題記号が考えである[3.5]。
※命題[3~3.5]まで整理
○「事実の論理像」=考え(思惟)=命題∋「名前」=対象の代替物
○「名前」の形式は二通り出てきた
(1)変項としての「表現(symbol)」――「対象(事物の位相)」と複数対応するため、値の確定は次々と「表+現」を記述するだけになってしまう。
(2)変項としての命題記号――命題の最小単位で、対象と一対一対応の関係にあるため「表現」とは異なる。
→論理的シンタックス(フレーゲの「概念記法」もこれに近いアイディア)によって「表現」を記号に還元すべき。
[命題4] 考えとは、有意味な命題のことである p.36-70
[4.001-4.032]
○命題の総体がすなわち言語に他ならないのだが[4.001]、言語の体系は有機体である人間と同格の複雑さを有している[4.002]。
→ゆえに一般的な哲学が試みている言語そのものから論理関係を導出するやり方は空転する[4.003]。ラッセルの功績は見せかけの論理形式が現実の論理形式に対応していない事実を示した点である[4.0031]。
○命題とは現実の像である[4.01]。
→一見すると命題における記号言語が現実を射影しているというのは腑に落ちないかもしれないが、これはちょうど音波としての音楽(現実)を、音符といった記号言語が写像できるのと同じ原理である[4.011-4.0141]。
○現実の像たる命題においては真/偽の二値にまで記述が高められている必要がある[4.023]。
→すなわち真理値:真の命題を理解するということは「なにが現実化した事態か」を知ることに他ならない [4.024]。
→命題とは写像の過程における論理形式によって構成されるため、像を理解している私たちの日常的な眼差しにすでに共有されている[4.026]。
○命題は新しい状況を私たちに教えてくれる[4.03]。
→すなわち状況と切り離された命題などは存在せず[4.031]、対象を代替する名前と名前が記号として結びつくことによって現実化した事態の像(すなわち命題)が構成される[4.0311]。
→ゆえに名前は常に変項でなければならず、定項として開放文を確定させてしまってはならない。状況の可能性である[4.0312]。
[4.04-4.0641]
○「命題によって区別されること」=「状況において命題が区別できること」は数学的多様性を持っているが[4.04]、この多様性それ自体を命題が写像することはできない[4.041]。
→命題から多様性を排するため、試しに命題「(x).fx」の内部に“Arrangement(一般的)”を意味するインデックス“Alg”をつけてみる。このとき「Alg.fx」と表記すれば、fとxのどちらが一般的なのか明らかでない。
→さらにインデックス“a”をつけて「f(xa)」としても、今度は一般化される範囲が未規定となる[4.0411]。
○事実として理解される命題は常に(そして現実化した時点で「すでに」)真の値をとる。これは命題「p」によって表されるものが「¬p」であっても同様である[4.061]。
→そもそも「p」と「¬p」は同じ事実認識に基づいている。それはちょうど真っ白の紙に一点こぼされたインクの染みを指示する際、「白い紙の中の黒い点」を指しても「黒い点の周りの白い紙」を指しても指示対象が同じであるのと同様の理由による[4.063]。
→ただし現実化した事態の多くは真理値があらかじめ(白い紙にこぼれたインクのように)規定されているわけではないので、やはり命題の真理値は常に真である[4.063]。
[4.1-4.1241]
○命題は事態が現実化しているか/いないかを描き [4.1]、現実化した事態の総体とは自然科学の体系であり[4.11]、他方で哲学は「考えるもの―語りうるもの」の境界を規定する[4.114]。
→この哲学の役目を踏まえれば、命題は論理形式を語りえないという事実を明らかにしておくことは重要である[4.12]。命題は論理形式を考える-語るのではなく、単に示すのだ[4.121]。 →語ること/示すことの区別
○事実の「内的(形式的)な特性」とその「内的な関係」を語ることは可能である。しかしこれらが存在するということは命題が語ることではなくて、示すことである。
[4.125-4.128]
○可能な状況における「内的な関係」が語られるということは、すなわち命題間の「内的な関係」を語っていることに他ならない[4.125]。
→「内的な関係」によって並べられた列を形式列と呼ぶ。例えば数列などはその例である[4,1252]。
(例) aRb | (∃x)aRx,xRb | (∃x,y)aRx,xRy,yRb |……(以下同様)
○形式的概念について、上述の形式的特性と同じことが言える[4.126]。
→形式的概念は可変的であり、あらゆる表現の可能性に開かれている。すなわち形式的概念とは命題変項に他ならない[4.126]。またこのとき変項の値が形式的概念に当てはまる対象となる[4.127]。
→命題変項に当てはまる対象は必ず名前でなければならない(数は入らない)。ゆえに変数ではなく変項なのである[4.127]。ゆえに論理形式において数は存在しない[4.128]。
[4.2-4.31]
○命題の真理値は、事態が「現実化している(真)/していない(偽)」に対応する[4.2]。
○命題はさらに要素命題に文節可能で、その要素命題は対象の代替物である名前(名辞)から構成される[4.221-4.23]。そして[3-3.5]で述べられたよう、名前は表現ではなく命題記号を用いて表記される。つまり名前はx, y, zのように表記され、要素命題はp, q, rや関数F(x)、(∀x)Fxなどで表記される[4.24]。
○また要素命題が同じ事態を指示する際、記号表記としては「p=q」となる。さらに既知の命題pの定義が、新しく知られた命題qの定義と同一だった際はインデックス“define”を用いて「p=q def」と表記する[4.241]。
→命題「p=q」が成り立つということは何も言っていないことと同義であり、この要素命題は意味を成さない[4.242-4.243](→たぶん後々トートロジーの話につながる)。
○先述の通り要素命題は現実化した事態=事実と対応しているので、真理値が真の要素命題を全て挙げることができたのならば、それは世界を完全に記述したことになる[4.26]。
→さらに要素命題の真理値は表(今でいう真理値表)によって記述される[3.31]。
(例) W―真(wahr) /F―偽(falsh)
p
q
W
W
W
F
F
W
F
F
[4.4-4.4661]
○複合命題は要素命題の真理値に依存して、その真理値が規定される[4.4]。
→複合命題の真理値にもW/Fを用いる。
○先の例に倣えば要素命題と複合命題の関係性は以下のように表記されるだろう[4.442]。
(例) W―wahr /F―falsh
要素命題p
要素命題q
複合命題
※真理値からおそらく条件法[p⊃q]のこと?
W
W
W
W
F
F
F
W
W
F
F
W
○要素命題の真理値に関わらず、複合命題の真理値が一義的に(1)「真になる命題」と(2)「偽になる命題」がある。つまり、
(1)複合命題「p∨¬p」のような「恒真命題(トートロジー)」 と、
(2)複合命題「p∧¬p」のような「矛盾命題」 である[4.46]。
→そしてこれら二つは記号の結合でありながら[4.4661]も、現実化した事態には対応していない(両命題が表現する現実などありえない)[4.462]。トートロジーは可能性の全てを許容するし、逆に矛盾命題は可能性の全てを退けるからである[4.462]。
[4.5-4.53]
○トートロジーと矛盾命題を例外とすると、名前が対象と正確に対応し、その名前によって要素命題が構成されるのであれば、複合命題は一般的形式として記述されうる。ただ一般化された命題形式は対象の本質的なものである必要がある[4.5]。
→換言すれば、複合命題は常に「要素命題の総体」から選ばれた要素命題の組み合わせによって構成されている点において、複合命題とは、要素命題を一般化したものである[4.51-4.52]。
※[4-4.5]の整理
命題3より 「考え」=「現実の像」
命題4より 「考え」=「(複合)命題」
∴ 「(複合)命題」=「現実の像」[4.01]
○(複合)命題は現実を語る(考える)が、自身が従っている論理形式それ自体を語れない/単に示す。
○複合命題(p∧q、p∨q、p⊃qなど)は、要素命題(p、q、r、Fx、[∃x]Gx,yなど) の組み合わせであり、要素命題は命題記号としての名辞から成る。
→そして要素命題の真理値によって複合命題の真理値も一義的に規定される(真理関数の論理)。逆を返せば、複合命題は要素命題の一般化的形式である。
→トートロジーと矛盾命題においては要素命題の真理値に、複合命題の真理値が依存しないが、この2つの命題が表現する現実化した事態はそもそもない。
[命題5] 命題は、要素命題の真理関数である(要素命題はそれ自身の真理関数である) p.70-114