Wittgenstein,Ludwig 1953→1997 『哲学的探究 読解』
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 1953→1997 『哲学的探求』
1,言語ゲーム p.1-18
○前期のウィトゲンシュタイン(『論考』時代)やアウグスティヌスによる『告白』での記述がそうであるよう、従来的に言語とは対象の名前であり、ゆえに言語と対象は一意的に関係付けられ、意味を構成していると想定されてきた。
→しかし、実際の言語使用の場面において、我々はいちいちこの対応関係を確認するわけではないし、確認もできない。
[ex.]店員に「赤い5つの林檎」という紙片を渡した際、店員はいちいち色見本を取り出して「赤い」ことを確認するわけではないし、仮にそうだったとしても、今度は「赤い」色見本はどれかということが問われることになってしまう。
→こうした場面においては、言語の意味ではなく言語の使用が問題となっている。
○初期ウィトゲンシュタインやアウグスティヌスによる言語の使用例とは、限られた言語による意思疎通の説明でしかない。
[ex.]A氏がB氏に「台石」「柱石」「板石」「梁石」の順で石を持ってくるよう頼む際、その順通りに声を出しているような言語使用である(「完全な原始的言語」)
○またこうした言語使用が可能なのは、A氏とB氏が語の意味の説明ができるからではなく、「ダイイシ」などの掛け声に合わせて、「台石」を持ってくるよう―すなわち名前に合致する対象を一意的に選択するよう、教化されているからに他ならない。
→よって仮にB氏が「ダイイシ」という名辞に対し、「柱石」を持ってくるような教化をされていたら、そのように行為すると考えられる。
→この対象と名辞の合致させるような指示を「語の直示的定義(hinweisende Definition)」と呼ぶことができるだろう。
○さらに議論を敷衍すれば、A氏とB氏における(対象/名辞を一意的に対応付ける)言語使用は、一つの「言語ゲーム(Sprachspiel)」であると解釈することができる。
→例えば子どもにアルファベット順の直示的教示がなされるときには、「a、b、c、……の順に並んでいる」という言語ゲームの中で、アルファベットが一義的な並びで規定されていることを習う。
○諸々の言語ゲームの中において「名辞xは対象Xを表わす(対応している)」という記述の下で説明がなされているが、それによって語法まで似通ったものになるとは限らない。説明の形式は同じであっても、語の使用に関してはそうではない。
→語の説明形式というのは、諸言語ゲームに共通して、ちょうど何らかの対象に名札を貼り付けるようなやりかたで行われている。対して「名札がどう貼るか」ということに関しては、対象をいかにして区別・分類するかという視点に関わってくる。
○先の林檎の例やA氏とB氏の例は「命令によってのみ」構成される不完全な言語として、主張の論拠としては不十分であるとする反駁が想定できる。
→しかしそもそも言語は不完全である。ちょうど都市が拡張されていくように、言語の完全性は常に暫定的なものでしかない。
○ただ、先の事例が不完全な命令に過ぎないとする反駁を検討すると、興味深い事実にたどりつく。「台石!」という叫びに過ぎないにも関わらず、B氏がA氏の意図通り「台石を持ってこい!」というように理解していることである。
→これを「台石/を/持って/来い!」という4語の―すなわち字面上の省略であるとB氏が理解したと考えるのは早計である。そうではなく、B氏は特定の日常的語法における具体事例と比較し、語の「省略」を理解している。
○ここで当然ながら、命令における「台石!」と異なる言語ゲームにおける「台石」の意味は異なっておらず、ゆえに「使用(Verwendung)」も同一になるのではないか、という反駁が想定できる。
→確かに名辞「台石」は音「ダイイシ」として同じであり、またその意味も同じであるのは間違いない。しかしながら命令における「台石!」と言う声の抑揚、あるいはA氏の表情、口調など様々な文脈性によって、それが命令の機能を担っていること(命令の言語ゲームにあること)が判断できる。
○フレーゲによれば、主張には当のことに関する「想定(Annahme)」が含まれているという。この見解に従うのであれば、言明は「想定が/主張される」の形式で記述できることになる。
→フレーゲによる概念記法における判断線「│」が「主張」の部分を、内容線「―」が「想定」の部分をそれぞれ表していると換言できるが、「主張される:しかじかである」という記述の仕方に置き換えると「しかじかである」の部分で事足りることが判明する。
→ゆえに言明において「主張される」すなわち判断線「│」はせいぜい文頭と文末を明らかにする程度の機能しか担っていない。
○言語の意味の同定に関わらず、その使用が異なることはよいとして、では肝心の使用はいったいいくつくらいあるのだろうか。
→この使用こそが生活実践における言語使用に他ならず、すなわち言語ゲームと同義である。そして「命令」「測定」「製作」「報告」「推測」「検証」などといったように無数の言語ゲームが想定できることから、使用の形態は数え切れないほどの数があると結論付けられるだろう。
2,直示的定義(説明) p.19-30
○前章で見たとおり、我々は名前を直示的に定義する際、対象に名札を貼り付けるようなやり方で行う。これは語の使用の準備であるといえるだろう。
→しかし、語は必ずしも対象の名前となるわけではない(「例えば文「これを持って来て」)
○また直示的定義もまた一つの言語ゲームを構成しており、解釈の多元性に開かれている。
[ex.]ある人の「2」の定義が、また別の人によって「木の葉を指示する」と解釈する場合もありえるだろう。
○このように一般的に対象の定義を誰かに教示する際、異なる語彙を持ち出すことによって当該の対象に定義を与えようと試みられる。しかし「林檎→赤い→色→……」といった具合に、語彙の説明は無限に連鎖すると推察される。
→最後の説明などは存在しない。それはちょうど道に最後の家が存在しない理由(いつでも家を建築できる)と同じである。ゆえに対象の「把握」とは定義の同定ではなく、やはり使用のされ方によってなされる。
○言語使用によりその「把握」が確認されるという事実は、重要な帰結をもたらす。すなわち、ある語について直示的定義による説明が可能となるのは、その語の言語行為における使用のされ方が、すでに明らかである場合においてである。
[ex.1]「セピア」という語の説明が相手に伝達されるためには、受け手によって「いま色についての説明がなされている」ということが知られている必要がある。
[ex.2]チェスの盤上にある「王」についての説明が相手に伝達されるためには、受け手によってチェスないしはボードゲームのルールが漠然とでも知られている必要がある。
○ある指示がなされるとき、そこに特定の身体的経験はない。かといって精神的経験であると言いたくなる悪しき哲学的誘惑に駆られてしまってもいけない。
→直示的定義は「表象する」、「名札を貼る」、「声を出す」といった諸々の行為の体系(言語ゲーム)によって成り立っているのである。
[ex.]先の例ならば、キングの駒に注意を向けたり、指を差したりすることによってではなく、あるいは感情を喚起させたりすることでもなく、「チェスの一局」によって初めて指示が成立している。
○では次に「これはxである」と指示されるときの、「これ」とはなんだろうか。
→代名詞「これ」はかつてラッセルや初期ウィトゲンシュタインらが牽引した論理主義の時代において、本来の意味での名前であると考えられ、またそれ以外の「名前」は近似的なものでしかないとされてきた。
→しかし直示的定義において「これ」の説明を「これはこれである」といった具合にするわけではない。ゆえに論理主義の主張とは裏腹に「これ」は名前ではない。
3,名前・語の意味 p.31-53
○では「これ」はなぜ名前であると考えられるのであろうか。ここで「名前は対象と単純に結合されるもの」であると一般に考えられていることがその背景として想定できそうだ。
→しかしながら、対象/名前の単純な結合は言語ゲームの概念によって反証されることが、ここまでで既に明白になっている。また名前は対象に単純に結合するという節は、以下の例からも反駁される。
[ex.1]名剣の固有名「ノートゥング」が対象<ノートゥング>と結合しているとする。何らかの事情によって<ノートゥング>が破壊されたとすると、固有名「ノートゥング」は指示する対象を含まない、意味のない語となってしまう。
→すると真であるはずの命題「ノートゥングが破壊された」において、空集合「ノートゥング」が登場するという矛盾が生じる。
[ex.2]A氏がB氏に固有名で「N」と呼ばれる道具を命令「N!」の中で持ってくるよう声をかける。このとき道具<N>が壊れている場合、B氏はもはやそれが存在しないこと、あるいは「N」の残骸を持って行くなど様々なリアクションを示すと予想される。
→いずれにせよ対象<N>が存在しなくとも、命令の言語ゲーム「N!」は成立していることがわかる。
※ここでウィトゲンシュタインは固有名の場合にのみ限定しているが、これは概念によって包摂される対象が1つしかない場合(フレーゲのいう数1の帰属)でしか上述の例が成り立たないからだと思われる。
○すなわちほとんどの場合において「意味(Bedutung)」とは、対象の定義や対象それ自体に帰属されるものではなく、言語ゲームにおける語の使用に他ならない。
→また人は名前の意味を、(確定的な対象ではなくて)担い手を支持することによって説明するのである。
○これらのことから指示代名詞「これ」は指示のために機能することはあっても、名前それ自体になることは決してないという帰結が得られる。
※これは一見すると重要そうなテーゼに見える(実際ウィトゲンシュタインの意味論を端的に表す箇所として多々引用される)が、あくまで念頭に置かれているのは「概念に帰せられる数が1の場合」のみ、つまり「名前=固有名の場合のみである」ことは留意されなければならないだろう。
○「名前は対象と単純に結合されるもの」という謬計は、ソクラテスにおける「基本的構成要素」、ラッセルの「個体(indivisual)」、そして『論考』における「対象(Gegestand)」という概念にも垣間見ることができる(かつてのウィトゲンシュタインは命題=「語りえるもの」を、事実すなわち「現実化した事態」によって構成されると考え、事実は「対象の配置」によって規定されると主張していた)。
→しかし「個体」や「対象」といった単純な構成要素とはそもそも何なのだろうか。椅子を構成する対象の配置を、単純に「木材」なのか「木」なのか「分子」なのか「原子」なのか、一義的に規定することはできないだろう。
○つまりある物の構成要素の区別とは、絶対的規準に準拠してなされるのではなく、文脈に依存しつつ我々の眼差しによって、様々な在り方でなされているのである。
[ex.]言語に対応する色のついた正方形
[仮定1]言語「R」には正方形「赤」が、言語「G」には正方形「緑」が、言語「W」には正方形「白」が、言語「B」には正方形「黒」がそれぞれ対応していると仮定する。
[仮定2]R、G、W、Bの言語の連なりは命題を意味すると仮定する。
→命題「RRBGGGRWW」を考えると、正方形は以下のように配置される。
○この図の構成要素の区別は「単純ではない」。
→命題9つなのか、長方形9つなのか、それとも色9つなのか、語4つなのか、一義的に規定することはできないだろう。
○我々はこれらの要素を「R」「B」などと名指すことができるにも関わらず、記述することはできない。
→名指すことは記述すること、すなわち言語ゲーム化・命題化することの予備作業であり、この二つは同一ではない。逆を返すと、語は言語ゲームにおいてではないと、意味を有さない(『論考』やフレーゲの『算術の基礎』においてされた、「語は命題の中にしか現れない」という主張はここでの見解を支持する)。
○上述の名指しと言語ゲームの関係は、「ノートウィング」の例において考察された対象の存在論的問いに対しても回答を提示する。
→すなわち、対象が存在しても/存在しなくとも名前が与えられるにもかかわらず、「存在する対象にのみ名前を付与すべきである」と一般に考えられているのは、「存在」が実は、諸個人がこれまで経験してきた言語ゲームに属す範例(パラダイム)を確認することによって、成立しているからである。
○すでに見た通り、先の9つの正方形による言語ゲームは多種多様にある。ここから区別がなされる時、諸個人は範例から導かれる表(例えば「赤」「正方形」など)を用いて区別を行うことになる。
→このような表すなわち「規則の表現」とは、当該の言語ゲームにおいて様々な役割を担っている。また範例に則った規則の表現とは、ちょうどゲームの道具のようなものである。
○ここまでで対象の存在は、対象の存在如何に関わらず、範例よって成立しているということが確認された。では色「赤」のように、そもそも物象を伴って存在していない対象の存在についてはどうだろうか。
→「赤」が範例として表象されなければ、言語ゲームにおいて表出されることもなくなる。つまり色「赤」の存在がなくなるということは、「赤」の範例が存在しなくなるということであり、また言語ゲームにおいて登場しない以上「赤」の意味の喪失とも同義である。
[ex.]語「椅子」が言語ゲームに登場する際、「椅子」の範例的要素が表象される
物象<椅子>が経験される際、その「構成部分」が観察される
→「要素(Element)」は形而上学的/「構成部分(Bestandteil)」は経験的である
○しかし命題「角に箒が立っている」は、諸所の構成部分「角に柄と刷毛が立っている」に「分析」可能ではないのだろうか。
→哲学的誘惑に駆られると、後者がより詳細を述べた真理性のある命題であると錯覚するが、両命題は単に異なる言語ゲームに属しているだけである。少なくとも日常会話で「角の柄と刷毛を取って!」と声をかけても首を傾げられるだけだろう。
4,家族的類似性 p.55-75
○ここまで言語ゲームを中心軸として、直示的定義や範例など諸々の基本概念を敷衍してきた。しかし肝心なことが明かされていない。それは、言語ゲームそのもの本質的形式である。この問題は『論考』において最も頭を悩ませた命題及び語の一般形式についての問題と同類系のものである。
→しかし全ての言語ゲームを演繹できる一般的な形式などは存在しない。代わりにそこにあるのは「ゲーム」の基本類型を中心に置いた、ちょうど血縁関係に観察されるような緩やかな類似性、すなわち「家族的類似性(Familienähnlichkeit)」に他ならない。
[ex.]「ゲーム」を中心に置くと、「特定のルールにおいて行われる」などといったゆるやかな共通性をもとに、「サッカー」のようなアウトドアかつ勝敗の決するものものあれば、「鬼ごっこ」のようにずっと続くものもあり、また「ポーカー」のようにインドアで行う賭け事まで幅広く家族的類似性の外延として挙げる事ができる。
→家族的類似性において概念「ゲーム」の境界を同定することはできないが、その境界を厳密な定義によって設定することはできるだろう。
→語の使用において、概念的境界付けは必要条件ではない。
○しかし家族的類似性のような茫漠とした境界付けによって、そもそも概念と呼べるものになるだろうか。
→それはちょうど「シャープでない肖像画は肖像画でない」と言っているようなものである。確かにフレーゲがいうように、家族的類似性による定義の仕方は、概念の領域を持つことはない。しかし領域は言語ゲームにおいて不可欠な条件ではない。我々はただ範例に従って、語を使用できればそれでよいのだから。
○人が何かに関する概念を持つ時、その見本ないしは像が表象される。例えば「四角」の概念を持つ時、「四角」の像が表象される。
→これが他者の「四角」の像と完全に一致することはないだろうし、仮にしていてもこれは確かめようがない問いである。しかしながら、自分の「四角」と他者の「四角」が血縁関係にあるということは認められるだろう。
→よって肝心なのは類似性が曖昧にぼやけるほど、他者と自己の語の一致が困難になるということである。またこうした場合にはどんな言語ゲームにおいて当該の語を獲得してきたかを吟味することで、語の家族関係が明瞭に見えてくるため、困難な状況を打開してくれるかもしれない。
○固有名についての知識は、数多の確定記述の束によって構成されている。
[ex.]固有名「モーセ」は「十戒を掲げた」「紅海を割った」「イスラエル人の出エジプトを先導した」といった多くの確定記述によって成立している。
→よって語「モーセ」は一意的な定義があるわけではなく、一つの記述が否定されても異なる記述を用いて使用することができる。
※ここでウィトゲンシュタインはラッセルの記述理論の見解を支持する意図からこの節を挿入したと考えられる。しかし、周知の通り確定記述(の束)が固有名に還元されるという主張は、ソール・クリプキが反証しており、よってここでのウィトゲンシュタインの主張は誤りである。
○「モーセ」についての定義は、ちょうど2章で述べられたよう(街の隅に家が新らたに建設されていくが如く)限りなく遡行する。
→説明は限りがないが、説明に対する疑問とは言語ゲームにおける穴を示すことではない。何度も述べられているよう、語の使用の観点から問題にならなければ、定義の問題は顕在化しない。
○いずれにしても家族的類似性の議論は、ラムゼイ(おそらく論理主義の論者の一人)の言うような論理学のあり方、すなわち「厳密で固定的な規則に準拠して行われるゲーム」に一石投じ、「ゲームに共通する近似性」という方向性に目を向けさせる。
→規則は固定的なものではなく、ちょうど子どもたちのゲームと同様、諸々の言語ゲームにおいて訂正されたり、失われたり、逆に新しく作られたり、しているのである。
5,論理学・哲学 p.77-94
○フレーゲら論理主義の主張に顕著であるよう、論理学は諸学問のより根源的で本質的な部分を検討する学問であるとされてきた。よって論理学は新たな経験的事実を求めるのではなく、既に眼前にむき出しとなっている現象の真なる理解を希求するとされる。
→現象は一義的には文法的表現として記述される。このことは、精緻な記述を探求していけば―考察対象となる文法表現を異なる文法表現に解体していけば「分析」が達成されるという哲学的伝統と合致する。
○しかし3章最後にある「箒の呼び名」の例にあるよう、異なる表現への解体・変換が精緻な分析であるという発想は謬計に基づいている。
○この解体による「分析」は論理学において、命題への変換として一般に扱われている。
[ex.] 「日中の空が快晴である」―命題p 「天気は雨である」―命題q とすると
複合命題p⊃¬qは真
→命題に変換することで何か特権的な真理性が感じられてしまうが、先ほどの見解に従うのであればこれも単に両者(日常表現/命題)の言語ゲームが異なるだけである。
○つまり意味論的なレヴェルが高く、哲学者が好んで考察する「経験」「言語」「世界」「真理」といった語それ自体も、実は「ドア」「花」「小説」といった卑俗な言語と何ら変わりなく、みな一様に言語ゲームにおいて使用されなければ意味すら持ち得ない。
→ゆえに意味論的レヴェルの高い語も、旧来のように超越論的・形而上学的に考察されるべき対象などではなく、日常言語において検討されていく必要がある(哲学的水平とは日常言語の水平と同一である)。
○すなわち論理や真理の中に絶対的規則があると見なす考え方は虚妄に過ぎない。むしろ、「論理」「真理」「言語」といった語が特権化されているという事実こそ、これら語の中に家族的類似性を認める根拠となり得る。
※この章は後期ウィトゲンシュタイン的な(notフレーゲ・ラッセル的)「言語論的転回(Linguistic Turn)」が濃密に顕在化しているように思える。
→哲学の問題を、形而上学的領域および経験的領域から剥奪しつつも、フレーゲやラッセル(そして前期ウィトゲンシュタイン)のように普遍的規則からなる論理からそれを定式化するわけでもなく、日常言語の使用から検討すべきであるとする後期の彼の主張が色濃く反映されている。
6,命題の一般形式 p.95-99
○『論考』におけるウィトゲンシュタインは、命題4の最後の補足(4.5)で、「命題の一般形式は『事態はxxである』と記述される」と主張した。
→そしてよく知られているよう、命題は単に記号「p」とも表記できるし、変項と関数を用いて「φ(x)」などとも表記できる。
→一般形式である以上は、値に代入されても命題が真になる必要が有るため、常に変項・関数として記述される必要があるのも理解に難くない。
○よって概念「命題」の家族的類似性あるいは「帰納的系列(Reihe von Sätzen)」の中心ないしプロトタイプは「事態はxxとして記述される」に求められる。
→肝心なことは一般に命題に帰せられると考えられる真理値もまた、概念「命題」同様に言語ゲームの中にあると主張できるということだろう
○『論考』にあるよう命題は真の場合にのみ「現実化した事態(そうであること)」として記述される。上記のことを踏まえると、言語ゲームに即さない限り「現実化した事態」の記述は適切なものとならない。
[ex.]言語ゲーム「五十音/いろは歌」
○「五十音」という言語ゲームにおいて、
複合命題「<い>の次は<う>である∧<は>の次は<ひ>」は真である。
→つまり「現実化した事態」として記述できる。
○「いろは歌」という言語ゲームにおいて、
複合命題「<い>の次は<う>である∧<は>の次は<ひ>」は偽である。
→よって現実化しない(「いろは歌」では<い>の次は<ろ>、<は>の次は<に>である)。
→これら例において顕著であるように命題の真理値は言語ゲームに依存する。
7,理解 p.101-116
○語の意味が言語ゲームにおいてのみ明らかになるのであれば、理解とはいかなる実践として記述できるだろうか。
→一般に考えられているよう、人がある像を表象しそれを確認できるということは、誤りである。表象が顕在化するのも、語の使用においてのみだからである。
○ある対象は別様の表象可能性が常にあるにもかかわらず、「一つの表象しかありえない」ものとして表象される。
→「念頭に浮かぶ」ということは表象と語の使用の二つの側面から構成されており、表象と使用が一致する場合のみに使用が明示的に確認できる。
[ex.]ある男Aが別の男Bに基数数列を教示する。BはAの言った通りに「1,2,3,4,5,…」と基数を並べていくが、このときBがAの教示を完全に理解していることを確認する手立てはない。
→数列をどこまで記述すれば理解したか、という境界が設定できないから(そしてBが数を10000まで順当に並べられても、その次の数を10002としない保証はどこにもない)。
→Bの数列を変種と見なし、異なる数列を提示することによって、Bの理解を変更することは可能である。これによって彼のものの見方が変わる。
※ウィトゲンシュタインの有名な「ウサギ/アヒル」の図はここで参照されている。ものの見方が変わるとは、ウサギに見えていた図を変種とし、図全体がアヒルに見えた瞬間のことである。
○しかしものの見方を変化させることができても、やはりBが数列を習熟したかどうかは調べることができない。
→ゆえに理解とは(少なくとも確認できるような)心的過程などではなくて、「知っている」「それが出来る」などの<家族>と同様、語の使用による表明の実践であると考えられる。
→仮に理解をした際に心的過程などにおいて何かが体験されているとしても、その真偽は彼のそういった体験にではなく、体験が行われた状況によって判断される。
8,「読む」 p.117-131
○先述の通り、あることが「理解」されたことの確認は(心的過程や脳科学的)体験にではなく、その状況に目を向けることでなされる。
→こうした見解はさらに別の実践「読む」を検討すれば、より明瞭になるだろう。
○「読む」という実践は、一般にエクリチュールからパロールへの変換(明昌)であると考えられている(※ここをフランス語に変換したのは俺)。広義には、逆にエクリチュールへの変換や、エクリチュールからエクリチュールへの書き写し、論文の解釈、詩の暗唱、楽譜の演奏なども含まれる。
→よって読むことの言語ゲームも一義的に定式化はできない。
○また内容を頭に入れるのではなく/機械的に目で追ったり、口に出したりすることを区別することも出来るだろう。
[ex.]この区別は、熟練者による読解/初心者による読んだ振りの区別と同じものである。
→すなわち前者は内容を頭に整理できるが、後者は単に目で追い、読む「振りをする」ことで精一杯である。
→こうした区別を意識して、熟練者による読解を真に「読む」ことだとし、それが何か特殊な精神的活動であると考えたくなってしまう。しかし両実践の差異は実は意識の違いに求められるものではなく、単に異なる概念の「読む」が用いられているに過ぎない。
○確かに熟練者と初心者の脳内や心では異なる過程を追っているかもしれない。しかしこれによって「読むこと/読まないこと」が区別されるわけではない(実践「読む」も諸個人の体験や感覚に帰属されることではない)。
[ex.1]ある初心者が初めてのテキストを音読する。彼はそれを流暢に読むことが出来たが、そのとき彼に「音読の感覚」ではなく、「暗唱の感覚」が生じていたとする。
→この感覚の違いによって彼は、テキストを読んでいないことになるのだろうか(ならない)。
[ex.2]アルコールで酩酊状態に陥った人がおり、彼にアルファベット「E」を存在量記号「∃」に変えた文字列「∃at」を見せる。すると彼はこれを「Eat」と読んだ。また「∃xperience」を見せても「Experience」と読むことが出来た。
→彼の体験としては「文字を読んでいる」となるはずであるが、文字がアルファベットでない以上、「読んでいない」とされなければならないはずだろう(しかし実際には読めている)。
→前者は「感覚が間違っており、読みが正しい」というズレがあるにもかかわらず、「読み」が成立している例で、後者は逆に「体験が正しいのに、読みが違う」というズレにもかかわらず「読み」が成立している例。
○またある文字を、一意的対応を司る規則と照らし合わし、読みや再記述を「作り出す」とする考え方も謬計に他ならない。
[ex.]ある人が大文字「A」を小文字「a」に表記変換できたとする。一見するとこのとき彼は「A-a」間の一対一対応図式に準拠して、小文字「a」を「作り出した」と思える。
→しかし実は「A-z-u-a」という(奇妙な)過程を通っているかも知れず、それが確認できない以上は一意的な対応規則を導出することは出来ない。
○他方で「読む」という実践はある特定の過程であるとも言いたい。
→これは無論、心的過程や脳科学的過程のことではなく、語の視覚像と聴覚像が日常的に親しまれたことに基づく過程であり、何らかの異常(例えばスペルミス)がある際には、「読み」に違和感を覚えるという事態を指示している(読みは直観的判断?)。
[ex.]誤りのある論理式と誤りのあるアルファベットによる記述を一瞥した時、どちらに違和感を覚えるかとすれば、後者であろう。
→とはいえこうした過程が「読み」の本質であるということにもならない(先述の通り、「読む」実践が多様であることから、その本質的な徴表を一義的に規定することはできない)。
9,「導かれる」・「知っている」・機械 p.133-154
○ただし「アルファベットと感じる」ということは、その記号によってアルファベットの想起が「導かれる」ということを意味しない。
→ある特殊な体験としての「影響」だの「引き起こされる」と言いたくなるのは悉く誤謬に基づいた見解である。
[ex.]アルファベット「E」を「読む」とき、いちいちこれは「E」と発音するなどといった体験が生起するわけではない。あくまでアルファベットでない記号「∇」などと比較した時に、初めて前者は「E」と発音されることが意識される。
→何度も繰り返すよう、「読む」ことは何らかの特殊な体験などではない。
→よって「アルファベットと感じる」ということは、エクリチュールとしての「E」がパロールとしての「E」をほのめかすとでも表現するのが適切である。これはちょうど「アインシュタイン」と聴いて、彼の顔が思い浮かぶのに似ている。
○「導かれる」ということは、実際にそうした体験があるわけではなく、「(例えば読解に際して)そのような体験があった」と、事後的に実践を再定式化しているに過ぎない。実際に「読む」実践を行っている最中は、いちいちエクリチュールがパロールを「導く」などとは思惟してはいない。
→これは物理的に「手で導く」ことにおいても同じことが起こる。ある手によって自分の手が引っ張られている際、そのある手が自分を「導いている」と感じるかもしれない。しかし実際のところは、ある手は「導く」という本質を意図していたわけではなく、単に引っ張っているだけだった。それでも自分は「導く」という体験として、ある手の動きを把握するだろう。
○次に7節で見た、B氏への基数数列の教示の例を再検討しよう。
→B氏が教示の結果「基数数列をすでに知っている(習熟した)」と宣言した際、これは彼が実際にそのような体験をした、ということが意味されるのではなく、彼が代数式を習い、それを実際に用いたことがあったという状況においてのみ、この「知っている」という言明は意味を持つ。
[ex.]「知っていること」の表明としては以下の2通りが想定できる。
(1)現にB氏が「数列の先をすでに知っている」という言明を、安堵しつつされど他に一切の感情を生起させずにする。
(2)B氏が上記のような言明を行わず、黙々と数列の先を計算によって導出する。
→(2)の場合を心的記述として「知っている」と解するのは正しくない。むしろ両者とも「知っている」ということの、状況に即した「合図」(表明)であると解釈するのが正しいだろう。
○何度も述べているよう、「理解」の実践もまた、多様な<家族>から構成されるため、一義的に定義することはできない。事実、先ほどの例は「知っているという言明」と「可能であることの表明」という点で、少なくとも命題としては異なっていた(「B氏は数列を知っていると言明した」/「B氏は数列を書くことができる」)。
→しかし両者はやはり「合図」という類似性において血縁関係にある。
○B氏の「理解」によって、彼が数列を「全て一瞬のうちに(+nという一般形式によって)把握した」と錯覚されてしまう。しかしこうした「理解」という実践の解釈も誤りである。
→B氏の「理解」はあくまで「基数数列は+nという形式によって並んでいる」という教化の結果であり、いわばその言語ゲームにおいてのみ妥当な「理解」の合図であると言える。
[ex.] もしある人が加算を+ではなく、階乗を意味する!によって表記し、2を4と、4を2とあべこべに表記する教育を受けているのであれば、彼にとって「2+2=4」の理解は「4!4=2」となるだろう。
○肝心なことは、我々が哲学的考察をする際、ある人の理念形(ウィトゲンシュタインは象徴と表現している)を提示する際、その作動方式を「象徴的機械」として考えがちである。しかしこれは現実における機械の不確実性(部品の破損、プログラムの停止など)を捨象したモデルに過ぎない(複雑性の縮減!)。具体的には、「現実の機械」/「象徴的機械」の差異は以下のようなものになる。
象徴的機械……不確実性の捨象―あらかじめ「駆動の可能性」が完全に予期できる
→実体のない「影」のようなものである―非経験的理念形である
現実の機械……不確実性の加味―あらかじめ「駆動の可能性」が予期できない
→実態のある「像」である―経験的理念形である
→先のB氏の例に適用させると、
「B氏が数列を一瞬のうちに把握した」という想定は、あらかじめ彼の動きが予期できる/不確実性を排している点において、象徴的機械的である。
「Bが言語ゲームにおいてのみ理解をしている」という想定は、言語ゲームの不確実性を加味している点において、現実の機械的である。
10,規則 p.155-173
○我々は象徴的機械のように現在において語の使用を全て把握できるわけではない。しかしながら、他方で確かに我々は語の全使用を一瞬のうちに把握すると言う事もある。
→ここで「未来時制における使用は現在に存在しないにもかかわらず、未来時制における語の使用は、現在において把握されている必要がある」というパラドックスに衝突する。
※ここのウィトゲンシュタインの表記は非常にややこしいが、以下のように整理できる。
[現在における語の使用]
疑う余地なく、今使われている語の意味は今現在において理解されている。
[未来における語の使用]
過去に使われた語と同じ語の意味が、未来においても使われる。
→現在の語の使用の中に、未来の語の使用が既に含まれている必要がある。
○現在/未来における語の使用のパラドックスは、以下のチェスに例えられる。
[ex.] 「私は今チェスをしたいと思っている。」「チェスは様々なルールから構成される」
→現在「チェスをしたい」と思うことに、未来にするはずの「チェスのルール」は含まれるのか? それとも「チェスをしたい」と思うことは、未来にチェスを実際にすることで「チェスのルール」を把握して可能となるのか?
○上記のチェスの例を検討すれば明らかになるよう、「チェスをしたい」という語の使用と「チェスの規則」を結ぶものは、チェスの規則表に、チェスの教示に、チェスの日々の実践に内在している。
→チェスの規則と同様、語の使用の規則とはこのように一過性のものではなく、恒常的に参照され続けている。だから現在時点における語の使用の規則が、未来時勢においても参照されるということは何ら不思議ではない。
○規則を参照するということは、一般的に考えられているように解釈ではない。というのは、規則を参照することは時には行為を伴う(例えばチェスの教示や対局など)。
→よって規則の参照は実践として解されるべきだろう。
○またチェスの場合にしても語の場合にしても、規則は秘私的なものではなく、他者と共有されているから規則として成立する。
→このことは、当人によってしか参照されない心的過程には規則を見出せないということが含意されている。
○では人はいかにして規則に従うようになるのであろうか。より詳細に言えば、語と行動の間にある「規則性」をいかにして認識していくのだろうか。
→「規則性」は練習や例示によって獲得されていく。またそれには振る舞いなども含まれるだろう。
○ただし「規則に従うことが出来るのだろうか」という問いの立て方ならば、答えは変わってくる。
→これは規則に従って行為することに関する正当化の問いに他ならない。そしてこれはいわば構造上の問題(語と行動の間に規則を想定する)であって、説明としては何も支えない。我々は規則に盲目的に従っているのだから。
○規則に盲目的に追従している事実は、本章の冒頭に登場した問いに対しても回答を与えることになるだろう。
→規則は常に一致するもの―「同じもの」として我々の行為を示唆する。そしてこの参照は、現に我々が特定の体験や意識をせず―つまり自明に日常的に言語を使いこなしていることからも明らかのように、盲目的な参照である。
→よって現在と未来の語の使用は同じもの(規則に)支えられているのである。いわば、語「命題」と語「真」がセットで用いられるように、語「規則」と語「同じ」もひとつのセットであり、<家族>であるだろう。
○規則はインスピレーションとして心に顕在化し、また数学の問題を解く際に顕著であるように規則によって「導かれる」といった感覚を我々が抱くこともあるかもしれない。
→しかしこれらはやはり「規則」の外面的特徴に過ぎないだろう。
○では例えば「測定」などの実践が、語の定義に関わらず、上述のように言語ゲームにおける状況志向的かつ自明の「規則」の参照によって行われているのだとすれば、普遍的な論理が破棄されるという帰結を導出するのではないだろうか。
→この見解は誤りである。確かに測定の実践も我々の言語ゲームによって成り立っているのは間違いないが、他方で「測定」の中に、ある種の普遍的定義が認められなければ、そもそも言語ゲーム自体が不可能となる。
→「普遍的論理に基づく定義」と「状況志向的な判断」は言語ゲームを成立させるための相補的な関係にあり、前者により「この世界(―命題として「語りえるもの」)が全て説明できる」と考えたフレーゲやラッセルなどによる論理主義的態度の放棄に他ならない。
11,私的言語 p.175-191
○その当人しか抱いたことが確認できない秘私的(とされる)言語使用―感情や感覚、気分などの「私的言語」はどのように解されるべきだろうか。
→これらの私的言語は、ある意味で当人の秘匿でありえるし、ある意味では「理解」などと同様に他者に表明されている。
[ex.]私が痛みを感じた時に、「痛い!」と口に出したり、顔をゆがめたりすることによって、他者は「私が痛みを感じているらしい」と推察すること(「痛み」の帰属)は出来る。一方で当然ながら、私の感じた痛みそれ自体が他者によって経験されるわけではない。
○他者に感覚や感情それ自体が共有できないにもかかわらず、「そう感じているらしいということ」は推察されるという私的言語の二面性は、言語ゲーム(の「規則」)の共有によって、初めてその表明/帰属が可能となるという帰結をもたらす。
→仮にある人が怒ったような立ち振る舞いをしていたとしても、彼が概念「怒り」を知らないのであれば、彼の振る舞いは意味をなさない。
→換言すれば、私的言語とは他者と存在論的には共有されないが、意味論的には共有されているのである。
○しかし私的言語が存在論的に共有されていないのであれば、同じ語によって指示されるある感覚ないしは感情が、他者のそれと同一のものか確認する手立てがないということになる。例えば私が「悲哀」と呼ぶ感情を、人は「憤怒」と呼ぶのかもしれない。
○ある私的言語が生じている事態を他者に表示するためには、何らかの正当化がなされなければならないと思えるが、しかしそれは不要である。
→正当化とは主観的なものを客観的公準と照合する過程であり、この場合は主観的理解を間主観的な理解に移行させているだけである。
○私的言語において本質的なことは、先述の通りある人の私的言語が原理的にどのようなものか確認する術がないはずなのにも関わらず、立ち振る舞いや言葉を介した表明により、共通の私的言語が生じている「らしい」と見なすことよって、当該の状態を他者に帰属することが可能である点だ。
[ex.]「赤い」という語による指示は決してプライベートなものではなく、その言語を持つ人々にとっては共通の指示になりえると考えられている。
→しかし現実にその指示対象が同一であるか否かは確かめようがない。
12,痛み p193-208
○しかし、我々は御伽噺に出てくる壷や花、動物といった人間ではないものにも、私的言語を帰属することがある(いわゆる擬人法)。これはどういうことだろうか。
→これらは私的言語の二次的な使用に他ならない。本来その壷なり花なりが私的言語を有しているとは考えられない。しかし、それらが人間のように振舞うことによって、あたかも人間にするように私的言語が生じているという状態を帰属することができる。
○「痛み」の所在は身体ではない。例えば手が痛いとき、手を慰めるのではなく、手が痛い人を慰めるし、またその振る舞いは手から読み取るのではなく、苦痛に歪む表情などから読み取られる。
○また他者の「痛み」は、前章で述べたとおりその「痛み」が生じている当人以外には、存在論的には経験し得ない。
→よって自分の持つ「痛み」を他人に説明することも原理的に不可能である。つまり他者に対して、自分の「痛み」(および私的言語)を正当化することはできない/自分自身が「痛い」と表明することによってでしか、自分の「痛み」の意味は成立しないのである(だからといって不当に語を用いていることにもならない)。この事実はちょうど以下のような例で敷衍することが出来る。
[ex.]箱の中でカブトムシを飼育している人々が集まった。彼らはカブトムシについてコミュニケーションをそれぞれとっているが、このとき互いの箱の中身が見えないと仮定する。
→彼らは互いの箱の中にいるのが、自分の箱の中にいるカブトムシかどうか確認する術はない。しかし彼らにとって「カブトムシ」という語の使用によって、共通のやりとりが可能になっているのは間違いない。
→つまり私的言語の表現の文法を「対象とその名前」というモデルで構成すれば、対象それ自体は当該の言語ゲームから抜け落ちても問題がないのである(「痛み」という語の使用によって、言語ゲームから感覚としての痛みそれ自体は欠落している)。
○逆を返せば「痛み」の提示がされていれば、実際に痛みが生じていなくとも帰属されるのである。例えば実際に痛みがなくとも「苦痛に歪む表情」をすることによって、他者に表明することは出来る(見破られるかどうかは別として)。
○以上のことから「痛み」の帰属をめぐる問題は、経験的・存在論的問いではなくて、文法的な問題であるといえる。
→こうした哲学的問いを検討する際、頭の中にある寓意像が生起する。これは事実に対する像ではなく、紛れもなく語法の図解なのである。
→ただし他者の痛みを自分の痛みとして経験するのは「簡単なことではない」。
※マルカムによれば、この「簡単なことではない」という表現は、ウィトゲンシュタインによる独我論者への皮肉を意図した表現らしく、実際には「不可能である」に変換してしまってもよいらしい。
○また私的言語を言語ゲームによって解釈することによって、心的過程の存在それ自体が否定されるわけではない。
→単に心的過程という秘私的領域が解明できない以上、立ち振る舞いによって私的言語を把握していくのが妥当なのである。このことは5章冒頭で述べられたとおり、哲学の仕事を新たな経験的事実の模索になく、現前にある対象をより精緻に理解していく作業として把握する見解を支持する。
13,思考 p.209-228
○思考は言語的営為と分離して表出しない他方、我々には「ぱっと閃く瞬間」があるのも確かである。そして後者の場合では、いちいち思考の対象に言語が結び付けられず、思念全体が見て取れる。
→「閃き」を外的(心理学などの用語によって)徴表に定義することはできない。このことによって理解そのものの定義も不可能であると、推論される。
→しかしそもそも定義が不可能な体験であるのにもかかわらず、「理解」と見なされる体験は我々が常日頃行っているという事実は検討の余地が有るだろう。
○まず「閃き」の場合では、これは人の経験的事実による帰納によって支えられている。
[ex.]熱した棒が手に近づけられずとも、それが「熱い」ものであると閃くのは、熱したものが熱いという経験的事実から帰納された思考である
→これはちょうど数列の先を、数を見なくても閃くのに近い(いわゆる数学的帰納法)。
○しかし一般的な思考は冒頭でいわれたように言語的実践とは切り離されない。これは以下の記述の指示従うと明らかだろう。
「このペン先は、確かにすり減って丸くなっている。しかしまあ、何とかなる。」
この記述を、まず「①その意味を考えず」に、次に「②その意味を考えて」読んでみる。両者は可能だったはずだろう。
→しかし最後に「③言語を用いず」読んでみると、これは不可能であることがわかる。
→思惟は心理過程に随伴するのではなく、言語に随伴する(概念の論理文法の話?)。
○では言語を知らないならば思考は不可能なのだろうか。
→その通りなのだが、実際に言語を会話の中で表出する必要は必ずしもない(ダンスをしなくとも、ダンスについて思考することは出来る)。
○では聾唖の人々は言葉を発することが出来ないが、内的な言語によって思考していることになるといえるのではないか。
→当該の人が表出できない以上は、思考しているか否かということを外部の眼差しによって確認することは出来ない。
→よって言語能力がある者にのみ「思考」の帰属の確認は可能である。ただし、動物や機械に対しても「思考」しているように見えると言うことはできる。
14,想像 p.229-241
○想像においても従来的には心的現象や脳科学の研究対象で何かが起こっているとされてきた。しかし言語ゲームの観点からはこの主張も退けられ、「想像」という語の使用からこれが考えられなければならない。
→これ私的言語などと同様、ある人の想像が「何であるか(what)」ということではなく、「どのようにして(how)」それが読み取られているかが問われる必要がある。
○しかし想像の内容を捨象するという見解は、想像上の計算における妥当性を排することになるのではないだろうか。
[ex.] 紙の上での計算に対し、自分の想像していた計算が対応していることを示すことによって、その想像上の計算が妥当性・意味を有することになる。
→しかしこの見解は謬計に基づいている。問題は「想像」という語の使用であって、実際の想像の内容ではない。言語ゲームにおいては、指示によって想像が対象と一意的に対応するとは考えないし、そのことに関心もない(これは語が一意的に定義付けられないのと同様の理由による)。
○想像が対象と一意的に対応していない事実は、以下のような事例にも垣間見ることが出来るだろう。
[ex.] ある人Aに部屋を印象派風に描けと指示を出した。私が「青い」と思ったドアをAは「黄色」に描き、「深紅」に見えた花瓶をAは「紫色」に描いた。
→しかし彼にはその部屋がそう見えたのである。
※フェルメールによる《真珠の耳飾りの乙女》に纏わるエピソードの映画に、まさしく本例のような描写が登場する。
→ある対象にとって本性上必然的であることなど存在しないのである。
○では同一の想像がされているということを同定するための規準は何なのだろうか。
→それは生理的現象に還元されることはないだろうし、また同一の想像の内容が頭に浮かんでいるかということを解明するのは、何度も言うとおり哲学の仕事ではなく、心理学や脳科学の仕事である。
[ex.] ある二人が林檎の像を想起した。ここで二人は同時に林檎を「赤い」という語によって想像することになるが、二人が「赤い」という語によって指示している対象が何なのか確定するための規準は存在しえない。
→ここで二人が同一の対象を想像していると互いに帰属できるのは、「赤い」という語の使用が同一であり、かつ「同一(同じ)」という語の使用も同じものであると共有されている時のみである。
○ただし言語ゲームの見解を唯名論的と考えるのは間違っている。唯名論者はこの世界の全てを名付けられるものとして捉えるだけで、名前の使用については目を向けないからである。
○しかし他者の頭の中が覗けない上に、そもそもそうした想像の内容を関心の外においてしまっては、そもそも他者があることを想像しているのか、またその想像が何に関しての想像か、ということがどうやって明らかにすることが出来るのだろうか。
→想像もまた私的言語のように立ち振る舞いや表明によって帰属される。例えば過去の楽しい思い出を想像する際、顔がほころぶかも知れず、逆に苦しいことの想像ならば、顰めるかもしれない。
→ただし「想像」の帰属は必然ではなく、諸々の場面においてのみ妥当な判断となる。
15,私・意識 p.243-257
○ここまでで確認されたように、人の思惟なり想像なり、感情や感覚なりは、言語そのものによる表明ないしは立ち振る舞いによってその人に帰属することはできるが、それらの内実そのものには接近することができなかった。
→一般にある表現によってその指示する像が一意的に対応していると考えられているが、実はそうではなく、表現と対象のつながりは場面とコンテクストに依存している。
○これらの諸見解は物象を観察する視覚像を退けることになるのだが、他方で視覚対象の表現を新たに産出するということは「新たな文法表現」の発見に他ならない。
[ex.] 「部屋の中心に人が座っている」は部屋の視覚像についての記述である。しかし視覚像そのものには物的に干渉することができない。つまり椅子には座れないし、中心にいる人に話しかけることもできない。
→この干渉不可能性が物象でないことの何よりの証左であるといえるだろう。
○逆にこうした視覚像の対象の所在(脳に見出すか、観念に見出すか)をめぐる論争が従来的な哲学的論争に他ならない。
→観念論者や独我論者は「あなたは痛みを感じる」という表明をあたかも欺瞞のように考え、どこか形而上学的な領域にそれを見出そうと試みる。他方の唯物論者や実在論者は脳神経や視神経といった物象世界に見出そうとする。
→いずれにせよ、考察すべき対象から言語や文法を排している点で謬計である。
○よって何度も検討されているように他者と自己の痛みが同一であるという規準などはなく、私が痛みを持っていることは、「私が痛みを持っている」と表明さえすればよいのである。
→表明「私が痛みを持っている」の目的は、他者と自己の区別ではなく、単にそれによって他者の意識をこちらに向けるという機能を果たす(言語ゲームの一連の考察において、私/あなたの区別は本質的な課題ではなく、目を向けるべきは表明/帰属の過程である)。
○関連して以下の4つの語の使用を考えてみよう。
(1)「これらの本は私の本ですか?」
(2)「この足は私の足ですか?」
(3)「この体は私の体ですか?」
(4)「この感覚は私の感覚ですか?」
→上三つは日常的会話(非哲学的)においても成立するのに対し(2と3は手術の場面を考えればよいだろう)、感覚の所在が明らかでない以上(4)の指示代名詞「これ」は明らかに他の語法と一線を画している。
○このように感覚などの所在がわからない対象(私的言語)の所有を表明するのは、物的対象の所有表明とはわけが違い、また経験的事実でもないのであるが、我々は時折「私は意識を持っている」といった表明を日常的にすることもある。
→これは例えば事故などが起きた際の、表明として使用されることがあるだろう。
16,一致・充足 p.259-273
○思考はそれがなされているときには特に不可思議なことはないが、事後的・回顧的にある人が思考をしていたことを振り返ると、いかにして彼は思考を可能にしたのか、という問いが浮上する。
→思考は現実との和合(ハーモニー)によって可能となっている。そしてそれは語の使用によってなされる。
[ex.]赤林檎を「黄色」と呼ぶとき、これは真理に反すると思われるが、それでもなお思考と現実が和合していると言える(誤謬は否定すれば正せる)。
→和合していない状況とは、赤林檎の色を問われて「甘い」などと答える時である。
○このように記号とはそれ単独で自存しているものではなく、使用こそがその息吹に他ならない。
→ある人に対する命令を定義主義的に理解しようと努めるのであれば、それは2章で述べられたように無限遡行の問題が生じると推察される。我々が記号を理解するのは、特定の教化によってである。
→文による指示の遂行とは何か複雑な秘匿(形而上的領域にも、心的領域にも、物的世界にも何も隠されてはいない)があるのではなく、全く何も隠されていない。文法にただ従うだけである。むしろ秘匿の想定が哲学的アポリアへの入り口である。
(※ここまで何度も繰り返されている話の変奏)
○さて願望はそれを充足しているものをあらかじめその願望の中に含んでいる。あるものが願望の対象になるとき、そのあるものが不充足であるということが願望によって表明されていることになる。
[ex.] 「私は林檎が欲しい」は願望の表出ではなく、欲する対象「林檎」の不充足の表出である考えるのが正確である。
→このことからある願望を沈黙させることもまた、願望の充足ではない
○また不充足の対象がすでに願望において顕れているということは、以下のような例において明らかである。
[ex.] ある人が銃を構えているのを私は見ている。彼は銃を発砲し、案の定おおきな銃声が周囲に響いた。このとき、私は銃声がなる前から彼の発砲によって銃声がなると言うことを期待(予期)していた。
→期待においてその時点でなっていないはずの銃声がすでに含まれている。
→このとき「期待よりも大きな音/小さな音だった」といった期待の違背は起こるかも知れず、それを本見解の反駁の論拠にするかも知れないが、この批判は存在論と文法論を混同している。
○確かに日常的語法において「彼が来る」と「彼が来ることを、予期している」という両者の語の使用は異なるように思える。しかし、後者に前者の不充足が含意されているという先の見解を考慮すると、少なくとも語の使用としては類似性があるといえるだろう。
→つまり言語において同一表現の「期待/その充足(結果)」は接触している。
○では願望や予期が違背する場合はどうだろうか。これを「生じた時が、生じてない時と違って見える。」と表記するのは正しくない。
→事象が生じていないということは、そもそも事象として存在していないため見えない。ゆえに「違って見える」などという言明は明らかにおかしい。ただし、生じていない事象を想像することは可能である。むしろ日常的語法としては、期待は生じていない事象の起こり得る可能性についての言及である。
○願望や期待がその不充足をすでに含むということはまた、命令の実践などにも興味深い帰結をもたらす。
→つまりある命令がなされたとき、その命令によって「成されるべき事(期待される事)」が既に当該の命令に含まれている必要がある。
→しかし命令もまた言語ゲームの一つであり、ゆえに特定の教化の成果に他ならない。異なる教化間の期待/不充足が齟齬を来たすこともありえる。
[ex.] 私が「黄色い花を持ってきてくれ」とある人に命令した。この命令には「満足の感情を喚起する黄色の花」の不充足が含まれていたとする。
→しかしそのある人からすれば「満足の感情の喚起」の不充足が当該の命令に含意されていないと受け取られる可能性は十分にありえるだろう。
○このように願望や期待にはある事象の不充足が何らかのかたちで含まれているという事実が確認されたが、これらを予言のような不充足を含まない未来に関する言明と混同してはならない。
→たとえばノストラダムスの予言を考えればわかるように、「ある事象が起こり得るかもしれない」という想定とは独立して行われている(明白ではない無意味ではなく、明白な無意味である)。
17,根拠・命題の意味 p.275-288
○我々は思考(経験的事実-根拠の因果性の同定)をする際、どのような言語ゲームの中でそれを行っているのだろうか。一つの解答としては「割に合う」というものがあるだろう。
[ex.]ボイラーが爆発しないためには、ボイラー技師による緻密な設計が必要である。これによってボイラー爆発の可能性が完全に回避されるわけではないが、それでも爆発の不確実性を低下させるために設計は「割に合う」。
○このように我々は「何故」そのように思考をする(導出するのか)のか、という問いを立てることによって、再帰的にその思考の根拠を確認している。
→換言すれば過去の経験的事実を、現在に持つ結果に引き合いに出すことによって、根拠の言語ゲームが成り立っているのである。根拠は未来に対する予期とも言える。
→ただしこれは原因の同定を意味しない。例えば「火は危険である」という経験的事実において、火は恐怖の原因ではなく、対象である。
○肝心なことは、根拠とは信念を推論するための論理的命題などではないのである。
→推論であるならば、命題から異なる命題への移行でなければならない(帰結の導出)。しかし根拠においては、先述の通り、ある過去の経験的事実を現在における事実へ当てはめるだけである。
○そのためここでは帰結の導出、つまり「正当化」の言語ゲームを「根拠」のそれとは別個に検討する必要がある。
○言明「私がそうするのは、xxxだからだ」が表出する際、いかなる行為の仕方が随伴し、またいかなる場面がそこにあるのだろうか。
→ここには命題的な文法の結びつき(Aなのはaだからだ/aではないからだ)がある。つまり正当化も何らかの言語的実践である。
→一義的には因果関係の文法は言語によって、また次に立ち振る舞いによって構成されている。
○他方でこうした文法的結びつきは、言語による目的を達成するためには本来的に自由に境界付けることができるため、それは「恣意的」である。
[ex.] 「私に砂糖とミルクを持ってきてください」を短縮させ「私、砂糖とミルク」と言うとき、これが命令の場面においてならば、有意味な文法であると境界付けられる。
→しかし自己紹介の場面において「私、砂糖とミルク」という語の結合は無意味な文法であることになるだろう。
→このように境界付けのあり方はコンテクストに依存している。言うなれば、「その語の結合は無意味である」といった指摘は、「その命題は無意味である」ということではなくて、「今のコンテクストでは通用しない文法である」ということが含意されている。
○ある命題が有意味であるということは、それが考えることができるもの(「語りえるもの」)である、ということではないのである(※これは自分のかつての主張への反駁)。
[ex.] 命題「今日は寒い」は有意味であり、「語りえるもの」である。しかし、この言語ゲームにおいて「暑い」を「寒い」とあべこべに言う規則があるとしても、「語りえるもの」―「現実化した事態」ではないのにもかかわらず、命題の意味は変わらず成立している。
18,命題の理解・括弧付きの意味・否定 p.289-307
○前章における命題が文脈に依存して境界付けられる「恣意的」な言語使用であるという主張は、命題の理解をどのようなものにしてしまうだろうか。
[ex.] 命題「πの少数展開に数列415は現れる」は語の有意味な命題である(πの小数点以下は3.1「415」9……である)。そして先の命題が有意味である以上、命題「πの小数展開に数列7777が現れる」も同様に有意味な命題である。
→ここで命題が意味をなさない場合を考える必要が生じる
○数学的証明の多くは、「想像できる」と信じていたことが実は証明の過程によって、「想像できない」と言わしめる。
→例えば「正7角形」や「角の3等分の作図」を数学的に意味をなさない命題であるということを確認することによって、それが想像できないということが明らかになる(数学の言語ゲームにおける有意味な-想像可能な領域の境界付け)。
○しかしこれはあくまで数学の言語ゲームにおける命題の有意味性に関する話であって、普遍的・客観的に命題の意味が規定されていることを含意しない(例えばある図を「正7角形」と呼ぶ言語ゲームにおいて、命題「正7角形は作図できる」は有意味である)。
→「論理的に可能」といった表現は普遍的規準の示唆ではなく、論理や数学の言語ゲームにおいて可能ということである。
○一般的に「真理値:真」の命題にしか「有意味」でないという見解は正当ではない。すなわち真理性と有意味性は互いに独立している(真理≠有意味)。
→しかし数学の言語ゲームにおける命題は、真である命題しか理解できないため、真理値と意味は相互依存的である(真理=有意味)。
○逆を返せば、言語の命題に対する理解は、音楽の主題の理解と(一般に思われるよりもはるかに)似通っている。
[ex.] ある曲のテンポとリズムについて理解するためには、その音楽というゲーム(※言語ではないため言語ゲームではない)の中でのみ意味が問える。これはちょうど言語の意味が特定の言語ゲームの中で問うことができることと同じである。
○さらに有意味性と文脈の議論は、視覚像に関しても示唆的である。
[ex.] 「微笑み」それ自体によっては、「どのような顔か」(好意、悪意、怒り、愛情の表出なのか)を一義的に規定することはできない。
→しかし「微笑み」を浮かべる人を「他人を陥れる画策をしている」という文脈に位置づけると、それが「悪意」による表情であると意味を持つことになる。
○意味は一義的には規定できず、あくまで文脈に依存するかたちでしか判断できないということがここまでで明らかになった。このことは同様場面における語であっても、境界付けの仕方によっては意味が異なるという帰結をもたらす。
[ex.] 言明「彼が来てくれたらなぁ」は様々な意味論的境界付けが可能である。
→感情としての「意味」もありえれば、希望としての「「意味」」もありえるだろう。
※意味の境界付けは、上述のように括弧を一重、二重…といったかたちで表記上可能である。
○問題は当該の言語ゲームにおいてどの境界付けによる意味が肝心な点であるか、ということである。
→先の場合では感情の「意味」よりも、希望の「「意味」」の方が肝心であると言えるかもしれない(ここでは感情表明<希望表明とする)。
○命題の意味を検討する際に忘れてならないのが否定である。語の使用としては「ではない(¬)」であるが、命題のコンテクスト依存性を考慮すると、否定はどのように考えられるべきだろうか。
→まず一意的な定義ではなく、否定もまた語の使用なり立ち振る舞いによって表されているということを念頭においておく必要がある。
○二重否定は論理学的にはもとの真理値へ回帰するだけである。例えば命題「¬p」の否定は「p」である。
→しかし言語の使用や立ち振る舞いを加味すると真理値の元通りだけでは説明できない場合が多くあることに気付く。
[ex.] 否定を意味する二つの語(立ち振る舞いをも含む)「X」と「Y」があるとする。これが同時に使用されるとき(二重否定)、以下の場合がそれぞれ想定できる。
(1)「X」と「Y」はそれぞれ異なった使用を持っているが、言明において繰り返し同じ意味で現れる。例えば「X-禁止」「Y-間違い」とすると、 「『遊泳を禁止します』は間違いでした」は否定の否定で「遊泳してもよい」になる。
(2)「X」と「Y」は言語ゲームにおいて同じ機能を持っており、教示のされ方も同じである。使用上の相違点は単に気まぐれな文法的都合によるものであるため、命題において繰り返されない限り、「X」と「Y」は同じ意味である。 ※このパターンあるか?
(3)「X」は繰り返されると、命題の意味が元に戻る否定句である。「Y」は繰り返し用いても言明は元に戻らない否定の方法である。例えば「頭を横に振る」を2回繰り返しても、それは言明を元に戻す否定であるとは言えないだろう(一般的に頭は往復して振る)。
※この否定に関する考察はベートソンのいう「ダブル・バインド」的状況を想定すると理解しやすいかもしれない。
→「指示に従う」(¬「従え」)状況下における言明「自分で考えなさい」(¬¬「従え」)によって、統合性失調症患者は単に否定の否定で「従え」という指示に従うことはできない。
19,眼目・心の状態・感情 p.309-330
○命題‘Die Rose ist rot.’(この薔薇「は」赤い) と、
命題‘Zwei mal Zwei ist vier’(2×2「は」4) における「ist」は異なる意味を持っているというとき、何が主張されているのだろうか。
→両者は異なる意味を持っているとする場合、前者から後者に(あるいは後者から前者に)「ist」を代入するのが禁じられているはずである。
→ここで同じ語「ist」が繋辞/等号と二つの機能をしているのは単なる偶然に過ぎない。
○しかしある語の本質的特性/非本質的特性とはそもそも何なのだろうか。
→語の背景に何らかの存在を想定すれば、語の必然的本質/偶然的非本質を規定することはできるだろうが、語の背景には実際のところ何も存在していない。
→しかし背景的存在は無いが、眼目(Witz)が存在しているということは忘れてはならない。このことは語と同様に背景に存在がないゲームの例を検討すれば理解できるはずである。
[ex.] 将棋の先攻/後攻の決定に際して、「金」の駒を4つ投げ、その出目によって先攻/後攻を決める慣わしがある。
→こうした「金」の役割は、将棋における「金」の役割には通常含めないだろう。つまりここでは「金」の役割について本質的規則/非本質的規則を区別している。
※原典ではチェスが引き合いに出されていたが、馴染みの深い将棋に変換した。
→そして本質的規則を決定するものこそが眼目である。
○仮に先の例における二つの「ist」の機能が本質的規則によるものであるならば、両機能の間には偶然などなく、論理的結びつきの可能性があるといえる。しかしこれは将棋の「金」サイコロ/駒としての「金」の間に連関があると言っているようなものである。
○物理現象を対象とするのは物理学者と言えるが、同じ意味で心的現象を対象とするのは心理学者であるとは言えない。
→心理学が検討するのは心理それ自体ではなくて、心理による表出(振舞)である。
[ex.] 言明「彼が来るだろう」と言明「彼が来るのは待ちわびている」は両者とも「彼が来るのを予期している」という同一の表現に還元することができる。
→しかし後者の場合のみが心的現象(彼が来て欲しい)についての言明であり、同一の言明であっても、心理が表出しているとは一義的には決定し得ない。
○このように心それ自体を解明することは困難を極めるし、また言明(ないしは振る舞い)がなされるコンテクストを視野に入れなければその言明がどのような意味なのか(彼を待ちわびているのか、単に彼が来ると思っているのか)を特定できない。
→心それ自体を検討するのではなくて、その表出に目を向ける必要がある。
[ex.1] 何らかの決心がなされたとき、人は心臓の位置を指すことがある(「信仰は、左の乳首の下にある」マルティン・ルター)。しかしそれによってその人の心が明らかになるわけではなく、その人の決心が対外的に表明されるのである。
[ex.2] 往々にして人が異論を言う時、口を開き、息を吸って溜めるといった振る舞いをすることがある。このとき彼の意図そのものについて同定することはできないが、そうした動作によって何らかの意図を持っていることは観察できる。
○哲学的な病の一つは、何らかの実体をまず想定し、次にそれに随伴する諸々の現象として人の思惟や感情を捉えることにある。
→しかしこれは明らかに謬計である。以下の「確信の感情」の例を検討してみればわかるだろう。
[ex.] 人が時計を見て「午後5時」であると判断する。このときこの確信はいわば直観的判断であり、複雑な自問や考察の結果ではない。ゆえに夫々の感情も生じていない。
→「確信の感情」はいわば自明性の中に現れるものであり、根拠を普段問うことは誰もしない(もし問われることがあれば、答えるのは難しいだろう)
→確信の感情の生起は特定の雰囲気の中で構成されている。