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Woolgar,Steven and Dorothy Pawluch 1985 「オントロジカル・ゲリマンダリング」

http://www.amazon.co.jp/構築主義の社会学―論争と議論のエスノグラフィー

 

 本書は特にマクロ社会学における構成主義ブームに対し、「科学の社会学(Sociology of Science)」のウールガーとポーラッチが行った批判を皮切りに勃発した論争をまとめたもので、今回はそのきっかけとなったウールガーとポーラッチによる最初の論文についてまとめる。

 

1.社会問題をめぐる議論の構造

2.オントロジカル・ゲリマンダリングの作業

3.経験的文献

4.児童虐待の事例

5.社会問題と逸脱の社会学

6.含意

7.結論

 

 

 ウルーガーとポーラッチが本論文で批判しているのは、H,ベッカーらが中心となって提唱した「ラベリング理論」に、さらに流動的な視点を加えた、スペクターとキツセによる「社会問題の構成主義」―「異議(クレイム)申し立ての社会学」だ。

 スペクターとキツセによれば、(ちょうどラベリングがなされた時に初めて「逸脱」が生まれるように)社会問題とは異議申し立てがなされた時に初めて「社会問題」として社会の中に顕れるという。そして注目すべきは、客観的にそれが社会問題であるか否かということではなく、それがいかにして当人たちの中で「構成されたのか」、そしてそれがどのように外部に受容されていったのか、ということにあると述べている(Spector and Kitsuse 1977)。

 一見すると「異議申し立ての社会学」はここ数十年足らずで勢力を伸ばしてきたエスノメソドロジーの発想に近しいように思え、本人たちはEMへの接近を明言していないが、本書でもEMと同じ文脈の中で扱われているのを目にすることができる。しかし、ウールガーとポーラッチはこうした構成主義に対し「オントロジカル・ゲリマンダリング(恣意的な境界線引き)」(以下、OG)という指し手を用いてその問題点を指摘している。

 曰く、何らかの社会問題が社会的に構成されているのはいいとして、それを構成する環境もまた構成物であるとは言えなないのか。先のスペクターとキツセは「マリファナ吸引」という社会問題の定義が時代の変遷と共に変化していると指摘した一方で、彼らは「マリファナの性質はこの間一定であり、よって定義の変化の説明要因は他に求められなければならない。」(Spector and Kitsuse 1977:43)と同書の中で主張している。しかし、「マリファナの性質」を特権的に自明で所与のものとして―客観的に実在するものとして論じることのできる根拠などない。つまり社会学者は「マリファナ吸引」の定義を社会的な構成物としつつも、その性質の実在は疑い得ないものとして想定しているという、「恣意的な境界線引き」を行っているというのがOGによって明らかになったということだ。

 

 このOG問題は避けることのできない問題なのだろうか。本書全体を通してここに明確なソリューションは提示されなかった。私が思うに、この問題はI,ハッキングによる「対象」/「観念」の区別を用いれば容易に解決できる(というかそこがこの論争では混同されていたように思う)。「対象」/「観念」とは、ハッキングが『何が社会的に構成されるのか』において提示した区別であり、前者がその実在を(少なくとも社会科学からは)疑い得ないもの(疑うことに意味がないもの)であるのに対し、後者は「対象」への意図や概念といった社会的な関係性の中で構成されるものである。

 先のマリファナの例では「マリファナの性質」とは「対象」であり、「マリファナの定義」は「観念」に相応する。確かにデカルト並みの懐疑論者であるならば、「マリファナの性質」の実在を疑うことはできるだろう。しかし、少なくともその「対象」としての性質は社会的に構成されたものではないし、「対象」の実在を疑うことは懐疑論的な哲学者か、そうでなければ自然科学が担う仕事であって、社会学の仕事ではないはずだ。

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