top of page

Young,Jock 1999→2007 『排除型社会』

 ヤングが本書で展開した排除型社会の議論は、今日でも貧困問題やエスニシティをめぐる議論によく援用されており(ちなみに私も卒論で使った)、その理論的耐久度の高さもさることながら、幅広い社会問題を分析するのに有用な枠組みであると言えるだろう。さっそく本書の内容の解説に入りたいところであるが、その前にヤングがいわゆる後期近代(Late Modernity)系の論者であるということを確認しておきたい。

 社会学を網羅的に学んでいると現在を後期近代であると位置づける学者に一定数出会うはずだ。代表的なところだと、ギデンズやベック、バウマンらの名を挙げることができるだろうか。そして彼らが掲げる後期近代という語は、端的に言えば現在が近代の先にあるとする立場へのアンチテーゼが含意されていると考えられる。すなわち後期近代と言葉が使われた際、近代の終焉を主張するポストモダニズムが理論上の仮想敵として想定されているわけだ。

ポストモダニズムは文字通りモダン(近代)のポスト(-後)的世界観を俎上に載せた思想ないしは哲学の一派であり、デリダやドゥルーズなどがよく知られているだろう。彼らの著作は本サイトでもいくつか紹介しているため、ここでは詳しい解説を割愛するが、社会の変容の要因を近代的物語が失効することに求めた彼らの主張は一時期の社会科学全体で頻繁に引用された。

他方で後期近代論者は現在がこれまでの社会と異なっていることは認めつつも、その要因を近代の終焉に求めるのではなくて、むしろモダニティの徹底に求める点においてポストモダニズムの思想とは一線を画している。その帰結としてもたらされたものが、再帰的近代なのか危険社会なのかリキッドモダニティなのかといった具合に各々の考察によって異なっているが、先述の通り少なくとも近代という時代の変容が確認されつつも、近代それ自体が過去のものになってはいないという一点に関しては、彼らが合意するだろうと整理することができる。

 

 さていよいよ本題のヤングだが、彼の場合、前期近代から後期近代への移行は1950年代末から60年代の初頭あたりの時期に確認されるとしている。そして前期近代的社会のことを「包摂型社会」、後期近代的社会のことを表題の「排除型社会」としてそれぞれ分析している。順番に確認していこう。

 まず前者の包摂型社会とは、画一的でその成員が足並みを揃えている状態の社会のことで、そのため支配集団に対する「異質な他者(マイノリティや犯罪者など)」も単に「望ましくない性質」を持っているだけの人々に過ぎず、排除されたり、マージナルな領域に追いやられたりされることはなかったという。ここで興味深いのは、ヤングが単に当時の社会のみを主張の論拠としてあげるのではなくて、当時の社会科学による分析の中にも、包摂型社会に対する記述を見出していることだ。

 

「ガルブレイスは『豊かな社会』[1962]を揶揄していた。ヴァンス・パッカードは『地位を求める人々』[1960]を風刺していた。リースマンは「他人志向のアメリカ人」を批判していた[1950]。ウィリアム・ホワイトは、郊外で暮らす『組織のなかの人間』[1960]やその妻、家族の慎ましい生活ぶりを描いていた。最後に、ベティ・フリーダン[1960]は、学校やガールスカウトへわが子を送り迎えしながら、「人生って、たったこれだけのこと?」と自問していた。

 戦後の黄金期に登場したのは、労働と家族という2つの領域に価値の中心が置かれ、多数者への同調が重視される社会であった。そのような社会が包摂型社会である。すなわちそれは、幅広い層の人々(下層労働者や女性、若者)を取り込み、移民を単一文化に組み込もうとする、ひとつにまとまった世界であった。またそれは、近代主義の社会計画がすぐにでも実現するかに思われた世界であった。」p. 22

 

 しかしながら50年代の末あたりから、包摂型社会の、いわば共同体主義的性質が瓦解するような思想・信条が台頭し始めることになる。例えばマルチカルチュアリズムやフェミニズム、あるいはヒッピームーブメントや消費社会などがこれらに該当すると言えるだろうか。つまり同化の時代から差異の時代へ大きな転換がこの時期のアメリカで起こり、それがまさにヤングのいう前期近代から後期近代への移行をもたらしたというわけである。

 一時期の日本の教育現場では多様性を児童に教授する際、金子みすゞの詩から「みんな違って、みんないい」という一説がよく引かれていた。確かに上述の時期のアメリカでは諸社会集団間の文化的な差異が顕在化し、いわば「みんな違って」の部分は多くの人々に嫌が応にも共有されただろう。しかしながら、残念なことに後半の「みんないい」にまでは至ることはなかったばかりか、むしろ文化間・個人間の差異に基づく対立が激化し、自分が所属する社会集団の相対的な優越性を、他の社会集団の排除によって保証するようになってしまった。

 

「文化的本質主義は、人々にたいして自分たちが生まれつき優越性をもっていると信じさせるだけでなく、他方で同時に、他の人々を、本質的に邪悪で、愚かで、犯罪的な人々として、つまり悪魔として描きださせる」 p.281
 

 包括型社会において単に望ましくなかっただけの異質な他者は、いまや自集団を脅かす悪魔的他者に変容し、潜在的な脅威に脅かされながら常に人々は存在論的な不安を抱えて過ごすことになる。そうした社会においては、もはや柔軟な眼差しで他者に対する寛容性を発揮することは困難になり、自集団の道徳を絶対化し、排除の道を進むことこそが唯一の合理的選択であるように捉え違えてしまうのである。また冒頭に書いたように本書が幅広い社会問題に援用されている事実は、この社会的排除の図式が、様々な社会集団間に表出していることに起因している。

 

「こうしたことが社会構造のさまざまな部分において、いくつもの形態をとって現われる。……こうしたプロセスの現われとして、ブラック・ムスリムや、移民コミュニティにおける原理主義、あるいは極右に共鳴する人々の露骨な伝統主義を挙げることができる。かれらは、極端なかたちで過去の価値観に傾倒することで、自分たちが排除されることに抵抗する。すなわち、現在の不安から逃れるために空想的なナショナリズムをでっちあげ、紋切り型の、あるいは空想上の過去のイメージを模倣する。」pp. 50-52

 

 この上記の記述はまさに現代日本における差別の問題を考える上で極めてアクチュアルなものであるといえるだろう。例えば在日朝鮮人に対するヘイトスピーチのメカニズムなどはまさにこの議論が当てはまるといえる。彼らの演説は妥当性がなく、その点で社会学的にいえば外に向かうインストゥルメンタルな機能というよりかは、「不安の緩和」といった内向きのコンサマトリーな機能を果たしていると結論付けることができる。

 

 解説が脱線したが、次にそもそもヤングはなぜこうした変容が起きたとしているのかについてみていきたい。先ほどのように多文化主義や個人主義の台頭もこの要因の一つとして挙げられるが、ヤングはその他に労働・生産環境の変化に着目して論を展開している。ここで登場するのが、ヤングの議論でも比較的有名なフォーディズム/ポストフォーディズムの区別である。

 フォーディズムという名称はもちろんアメリカのフォード自動車に由来しており、ベルトコンベヤーを用いた流れ作業、いわゆる「フォード・システム」によって大量生産を可能にしたことでよく知られている。こうした労働秩序の特色として人種や思想を問わず、個人の個性をよい意味で必要としない生産様式であることが挙げられ、また全ての個人を単なる一労働者として集団のシステムに組み込む点において、同化が特性としてあった包摂型社会を支えるシステムであったのは間違いないだろう。さらに大量生産された製品は、生産の過程と同様に画一的に包摂型社会の中で大量消費されていった。この辺りは日本の高度経済成長時代を想起してもらえれば理解しやすいのではないだろうか。

 

「標準化された製品が大量に生産され、男性の完全雇用がほぼ達成され、製造業部門が膨張し、巨大な官僚制ヒエラルキーが出現し、正規雇用市場において仕事の将来性が約束され、定型的な出世コースが確立され、仕事の部署が明確に区分され、国家がコーポラティズムを推し進め、画一化した消費財が大量に消費されるような社会である。そこでは、労働世界と、余暇と家族の領域が表裏一体の関係にあった。……家庭に画一化された商品がどんどん入り込み、それらの商品が個人の成功度を測る指標となり、経済の安定的な拡大を示す証拠になった。」pp. 30-31

 

 しかし先述の通り個人主義が台頭したことによって、徐々に画一的な生産・消費は望まれないものとなり、代わりに個人が個人のライフスタイルに合わせた商品を望む社会、すなわち消費社会が到来することになる。ボードリヤールが指摘するように、消費社会における商品は機能や効用の観点から需要が成立するのではなく、他商品との相対的な関係性によって成立するため、いわば記号的な差異化が目的となった消費の形態に変化することになる。

 この消費社会的状況においては単純に考えて大量生産を目指すフォーディズムは適しておらず、そのため労働環境が旧来と比較してかなり縮小してしまうことになる。またこうしたポストフォーディズムの必然的な帰結として、街には失業者が溢れかえり、消費が多様化しているのにもかかわらず、自身が労働環境からはじき出されてしまったことに対する「相対的剥奪感」を抱えることになる。まさにこのヤングが剥奪感と呼ぶものこそが排除の源泉であるといえる。

ただ留意しておきたいのは、ここでヤングが失業者のみが剥奪感を抱えているのではなく、うまく市場に包摂されている人々にも異なる種類の剥奪感を持っていると主張している点である。彼らは自分たちが真面目に労働しているのにもかかわらず、自分よりも劣る人間が苦労せず暮らしている姿を見ることによって不満を抱えていき、アンダークラスの人々が罪を犯すたびに法による厳罰化を望むという。この点においてもヤングの主張はアクチュアルなもので、現在の日本であれば生活保護に対する苛烈な眼差しなどを考えるに際に有用なパースペクティブであるだろう。

 また私の学部時代の恩師もヤングを引いた論文を書いており、それによればある授業でフリーターを扱った番組を学生に見せたところ、感想の大半に「自己責任」や「甘え」といった言葉が見られたという。単線的なレールを歩いてきた「真面目なマジョリティ」からすれば、そうしたレールからはみ出してしまった下位の労働者集団に対して、相対的な剥奪感を感じずにはいられないのだろう。

 

 以上で本書の必要最小限の要点は大体整理できただろう。実はこの本は500ページある大著であり、またヤングが逸脱研究を専攻していたことから、本書には犯罪に関するに記述が多く登場するが、今回はあまり取り上げられなかったため是非この辺りは自分の目で確認して欲しい。さらに本書の続編として『後期近代の眩暈』という本も出ている(私は未読)ため、興味があれば目を通してみるとよいかもしれない。

bottom of page