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Arendt,Hannah 1958→1973 『人間の条件』

ハンナ・アーレント 1958→1973 『人間の条件』

 

 ハンナ・アーレントはドイツを代表する女性哲学者であり、またハーバマスと並んで「公共性の哲学」の論者と称されたりもする。最近では彼女の生涯が映画になったことでも知られているだろうか。そして本書『人間の条件』はアーレントの主著の一つであり、その名を一躍有名にした『全体主義の起源』の次点もしくは同等に著名な一冊である。本書は訳が難解なことで悪名高いが、構成自体は単純であり、1-2章で問題の所在及び基礎的な概念の概観が述べられ、続く3-5章で本書を構成する三つの概念がそれぞれ個別具体的に検討される。本稿でもこの構成に倣いつつ、また評判の悪い訳語を適宜解説しながら、順に見て行こうと思う。
 

 まずアーレントが1章で提示するのが、本稿の主題である「人間の条件」の外郭である……のだが、実はこの「人間の条件」という訳語にいきなり問題がある。ドイツ語の原題は“Vita activa oder vom tätigen Laben”であり、これを直訳すると『活動的生または人間の条件』となる。他方で英語版における表題は“The Human Condition”で、確かにこれら両者は「人間の条件」と翻訳できる。しかしながら読み進めていけば明らかになっていくのだが、本書の考察対象は「人間の条件」というより「条件付けられた人間」であるように思える(独語・英語は「条件付けられた人間」とも読める)。アーレントの主張の根幹にも関わってくる話であるが、人間が「生命活動それ自体」や「世界性」と「持続性」、そして「複数性」によって条件付けられているということ、それが本書における一貫したテーマとなっている。
 

 では条件付けられた人間の生とは一体どのようなものなのか、それこそが原題にある「活動的生」に他ならない。アーレントによれば、人間の中心的な活動力は三つあり、「活動的生」という語はその三つを含意した表現であるという。すなわち「労働」「仕事」「活動」がそれである。諸概念の解説に移りたいところだが、ここでも訳語を少し検討しておきたい。三つ目の活動力を「活動」と翻訳することには少々違和感を覚える。というのも「活動的生」の下位概念が「労働」「仕事」と来て最後に「活動」となるのは、表現が重複してしまっているからである(概念「活動的生」の内包が「活動」)。しかし、ドイツ語版においても「活動」にあてがわれている言葉は“activa”であり、ゆえに「活動的生」を意味する“Vita activa”と、日本語同様に重複を許してしまっている。それでも表現のダブりを避けたいということで、論者によっては「行動」という訳語を用いる場合があるということを念頭に置いてもらえたらよいだろう。ではいよいよ「労働」「仕事」「活動」の順に解説しよう。

 アーレントによれば自身の生命活動によって「条件付けられた」人間は、まずはより原始的な有機体としての生を支えるために働いて、賃金を稼がなければならない。ゆえに最初の「活動的生」として登場するのが「労働」である。

 

 労働の本質は、人間の生物的側面に関係する。人間が労働するのは生命を保つために必要なものを作り出すためだ。(p.19)

 また「労働」とは一過性の出来事であり、生産物も後には残るものではないという。これは次の「仕事」との差異になる点の一つだろう。ただこうした一過性という特徴を持ちながらも、マルクスがかつて主張したよう、近代とは「労働」が賛美され、そこに中心的な価値が認められた時代だった。事実オートメーション化が進行した近代においては、「労働」はかつて程の思考をせずとも、機械的に手足を動かすことで快感を享受することができるし、また苦痛が生じたとしても、工場勤務に顕著である共同労働という形式を取り入れて、皆と足並みを揃え作業をすることによって、その苦痛も和らげることが可能である。
 

 しかしアーレントはこうした労働中心主義の近代に警笛を鳴らす。人間が有機体である以上、生物的条件から開放されることはおそらくないだろうし、先述の通りそれを達成する「労働」は確かにかつてと比べてはるかに楽なものに変容した。しかしながらそれは必ずしも良い帰結をもたらすというわけではなく、むしろその楽であるということによって、逆説的に人間の生活全体を「労働」が覆うことになってしまうというのである。

例えば、消費活動。マルクスが予見したように、人間は「労働」をする他方で、その余暇を私的領域における「ホビー」に当てる。これは一見すると自由であるように思えるが、実際のところはそうではなくむしろ「労働」に束縛されているが故の行動である。つまり私的な消費行動というものは、「労働」があるがゆえに生じるものであり、いわば両者はコインの裏と表、表裏一体であるということである。こうした時代診断に対して、どのような処方箋が提示できるか、ということは最後の「活動」についてのところで確認するとして、次に「仕事」についてのアーレント見解を見てみよう。

アーレントによれば二つ目の「活動的生」である「仕事」というのは、先述の通り「労働」の一過性と対をなす性質を有している。換言すれば「非自然的営為」とでも言えるだろうか。
 

 仕事は人間の「非自然性」に関係する。人類が存続しようと、一人ひとりの人間はいつかは死ぬ。人間はそうした運命にあるので、自然とは全く異なる世界、時間を超えて存続する世界を作り出そうとする(工作物、とくに芸術作品がこの世界に属する)。(p.20)


 先の「労働」が生物的所与に基づいた条件であるのに対し、この「仕事」というものは、合目的性に準拠しつつも、どちらかといえば所与に抗うような性質を有しているようである。例えば引用部括弧書きの中には、職人や芸術家による活動には含まれているとあるが、こうした合目的的な「製作(ポイエーシス)」は人間に特有の営為であるだろうし、その結晶である「工作物」が(現に多くの芸術作品がそうであるように)時間と空間を超越して存在し続ける点においても、自然的条件の「労働」と対をなす人工的条件としての「仕事」の性質が垣間見えよう。

古代のアゴラにおいて職人たちはこうした「工作物」を生産し、公的領域において評価されていた。こうした生産様式をアーレントは「人目につく生産」と呼んでいる。しかしながら、「労働」中心主義の社会に移行することによって、この「仕事」もまた社会の中の居場所を喪失していく。古来あったはずの「人目につく生産」が、「人目につく消費」という虚栄に取って代わられてしまったのである。この話も後に整理することになるので、ここでは三つ目の「活動」について検討しよう。
 

 活動は人間の「多数性」に関係する。地球上に住んでいるのは決して一人の人間ではなく多数の人間だ。政治はこの多数性という事実に基づいている。(p.20)
 

 「労働」は生命活動に、「仕事」は合目的性と永続性にその根をそれぞれおろしていた。対する「活動」とはこの世界に多様で多元的な人々がいるという事実、すなわち引用部にもあるよう多数性や、あるいは複数性、多様性といったものに上に立脚した「活動的生」である。また「労働」「仕事」が独りでも行えるのに対し、「活動」は常に<他者>との関わり合いの中でしか行えないとも言い換えられるだろう。

アーレントによれば「活動」が顕著だったのは、古代ギリシャにおけるポリスでの政治においてであり、ポリスという公的領域において、自己は発言を通して他者の前に(あるいは他者が自己の前に)「顕れる」という。ただし留意しておきたいのは、ここでの主張はなにも実在する他者が不可欠であるということを含意するわけではないということである。

先にわざとらしく<他者>と表記したよう、アーレントのいう<他者>は一般的な意味での他者の他に、自己に「内面化された他者」を意味している。これは『人間の条件』だけではなく、『全体主義の起源』においても見られる記述であるが、孤独(solitude)/孤立(loneliness)の区別がこの<他者>の問題に関連してくる。
 

 曰く人間は周囲に人がいなくなり、一人ぼっちになったとしても、自分の中にいる<他者>を見失わず、それと不断の対話をしている以上は、「孤独(solitude)」であっても、決して「孤立(loneliness)」することはない。逆を返すと、周囲に人が溢れていたとしても、「具体的な他者」と「内面化された<他者>」双方との対話がなければ、それは「孤立」しているのである。さらに全体主義においては、諸個人をこのように「孤立」に追い込み、他者性を排するよう仕向ける権力作用が観察されるというのも、アーレントの極めて重要な指摘であるよう思える。これも『全体主義の起源』からの引用であるが、他者性をその内から喪失した人間は、「木材に鉋をかけるように」同胞の死を受け入れる。

 上記は、アーレントによる全体主義への洞察であるが、実は本書における「労働」中心主義的社会の議論にも密接に関わっている。というのも先述の通り、「労働」は機械的に手足を動かし作業に没頭することによって、諸個人から他者と<他者>との関わりを喪失させてしまうからに他ならない。また「労働」の裏にある消費行動も、私的領域に諸個人を引き篭もらせるため、公的領域における「活動」を失効させる契機となりうる。こうしたアーレントの分析は、一般的に全体主義政権であるとされるスターリン下のソ連におけるイデオロギーが、まさしくマルクス主義的「労働」に根ざしていた事実を鑑みるに、核心を突いたものであるといえよう。

 

​ さて一通り主要概念が出揃ったので、それらの関係性を今一度整理しておこう。まず、「活動的生」として3つの活動力があった。「労働」は人間の生物的所与を支えるために不可欠な活動だった。対する「仕事」は合目的性に根ざした活動力であり、また人間の永続性や世界性を支えてくれた。そして最後の「活動」は、先述の2つが独りでも行えるのに対し、<他者>との関係性において「顕れる」ことによって初めて可能となるものだった。

しかしながら近代という時代においては、諸個人の生活実践において最初の「労働」に割かれる分量が圧倒的に多く、残り2つ、とりわけ最後の「活動」がほぼ完全に失墜していると分析された。またこうした現状は「公的領域(政治)の喪失/私的領域(消費)の肥大化」という事態に顕著に観察することができる。大まかにまとめるとこういう感じになるだろうか。これらのことからアーレントは「労働」賛歌の近代に対し、全体主義の問題と絡めて警笛を鳴らし、また公的領域における<他者>との関わり合いの重要さを説いたと言えるだろう。

アーレントの本書における主張は執筆から半世紀以上経過した今日においても未だ色褪せず、アクチュアルなものであり続けている。しかしながら、いくつか看過できない問題点があり、それを確認して本稿を締めくくりたい。

かつてフランスの作家であるバンジャマン・コンスタンは「古代人の自由」と「近代人の自由」を区別した。彼によれば、前者はまさしくアーレントが言うように公的領域において謳歌される政治的な自由である。他方で「近代人の自由」とは、これまたアーレントが主張するように私的領域における自由の形態である。アーレントは「古代人の自由」と「近代人の自由」を比較し、後者が実は「労働」の裏返しである「不自由」であって、前者に価値を認めている主張をしていた。

 しかしながらコンスタンの言うように、両者は単なる変容であって、アーレントが言うほどの危機ではないのではないだろうか。例えば、「休日に友人とショッピングを楽しむこと」に至上の自由を見出す人がいたとする(こうした人は確かに多いはずである)。アーレントの見解に従えば、この人は平日に行っている「労働」の裏返しとしてこうした消費行動をとっているため、実は「不自由」であり、真の自由は規模の大小は置いとくとしても公的領域への参加に求められることになる。しかしながら、なぜアーレントによって諸個人の自由の度合いが決定されなければならないのだろうか。誰がどこに自由を認めるかということこそ、諸個人の複数性や多様性に立脚した話であり、それを一義的に「公的領域への参加」としてしまうのはアーレントが重きを置く多様性を受容することと矛盾するように思える。いささか遠回りに書いたが、要するに「私的領域に篭ること/公的領域に参加しないこともまた個人の自由であり多様性である」ということである。

 学術的な角度からも批判を入れておくと、アーレントの主張は卓越主義的な傾向がある。卓越主義とは諸個人の中に内在する徳性を認め、それを育むような理論に重きを置く立場のことである。古くは(アーレントが比較的肯定的に引用する)アリストテレスの政治学に卓越主義は垣間見え、また最近ではアラスデア・マッキンタイアや、チャールズ・テイラーといった規範理論におけるコミュニタリアンの主張にも窺うことができる。そして何より問題なのが、アーレントが批判しているはずのマルクスもまた、諸個人の中に「労働」という内在的価値を認め、それを全面に推し出した理論を構築していた点において、卓越主義的であったということだろう。

確かにアーレントはアリストテレスや昨今のコミュニタリアン、そしてマルクスのように、共通善や労働といったある一面から内在的な徳性を認めるのではなく、三類型のバランスを調節しようと主張している点において一線を画している。しかしながら、やはりアーレントは「活動」にこそ特権的価値を認めているきらいがあり、ゆえに卓越主義的であるという批判を回避することはできないだろう。

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