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Weber,Max 1919 『職業としての学問』

http://www.amazon.co.jp/職業としての学問

 

マックス・ウェーバー 1919=1936→1980 『職業としての学問』

 

 本書は言わずと知れた社会学の育ての親の一人、マックス・ウェーバーが行った講演をもとに作成された一冊である。本講演が開かれた1919年といえば、一次大戦終結の翌年であり、仮初の平和が世界にもたらされつつも、他方で1939年に始まる二次大戦に向けて、着実に軍靴の音が近づいてきた未だ不安定な情勢の時期だったと推察される。そうした「社会の中で学問とはどうあるべきか」という問いに対し、社会学のみならず社会科学全体において偉大な功績を残したウェーバーが、学問的誠実さと驚くほどの先見の明を以ってして真摯に自問し、そして学生たちに説いた痕跡が本書からは窺える。私も初学者時分にこの本を読んだが、未だに本書における学問的態度が理想であり、また目標であり続けている。『プロ倫』や『自殺論』も名著なのは疑う余地もないが、わずか80ページしかない本書もまた社会(科)学を始めるにあたり、一読を強く勧めたい一冊だ。

 

 ウェーバーによれば、近代的合理性を前にして学問はかつての効力を失効してしまった。曰く「真なるもの」の喪失である。学問はソクラテスの時代から真理を追究し続けるものだと考えられてきた。しかしながら近代的合理性によって、そうした学問が希求する真理がどうやら不在であることが明らかにされてしまったというのである。ではこのような状況下において、我々学徒はどのような姿勢で学問に臨めばよいのだろうか。あるいは学問は我々の日常的実践にどのようにして寄与をしてくれるのだろうか。ウェーバーはこの問いに対し、ロシアの文豪トルストイの言葉を借用しつつこう応じる。

 

 学問は、「われわれはいかにして生きるべきか」に対して、何も答えを与えない無意味な存在である。しかし問題は、「それがどのような意味で『何事も』答えないか、またこれに答えないかわりにそれが、正しい問い方をするものに対してはなにか別のことに貢献するのではないか、ということである。」 (pp.41-42)

 

 ウェーバーは言う。学問は我々が「どうすべきか」「どう生きるべきか」ということに対しては回答を与えてくれる存在ではない。だから学問を心の拠り所にしたり、自身の生きる指針にしたりするような在り方はすべからく間違っているというわけだ。

 しかし、学問が我々の生き方に寄与しないとはいえ、その存続が危ぶまれるというわけでもない。というのも学問はそれ自体のために自存し、ウェーバーの言い回しを借用するならば「自身の価値」すなわち「自身が善であると信じること」「自身の発展には意味があること」を前提化することによって、存立し続けるからである。

 

 学問が外的な価値に拠らず、自己準拠的に存在する事実を考慮するのであれば、ウェーバー自身を含む教鞭を振るうものの態度も再考されなければならないだろう。ウェーバーによれば、教育者は決して指導者や扇動者になってはならない。この見解は先に見たよう、学問が我々の生活に直接的に貢献してくれないものであり、また外部からは独立したシステムであるという主張に立脚している。

 

 「まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かって何らかの立場を―あからさまにしろ暗示的にしろ―強いることがないように用心するであろう。なぜなら、『事実を語らしめる』というタテマエによって、このような態度はもっとも不誠実なものだからである。」(p.49)

 

 (この一節を一体何人の教授に叩きつけてやろうと思ったことか)ウェーバーの主張は確かに強くて厳しいものだ。しかしそれは傲慢さの表出ではなく、むしろ学問の限界をしっかりと見極めて上で、それでも真摯に研究対象である社会なるものと向き合うための謙虚さの現れに他ならないだろう。学問は特定の価値を語るにあらず、単に事実を語るのである。

 さらにウェーバーの分析は学生側にも及ぶ。先述の通り、1919年のドイツは直後にナチスが政権を握ることからも明らかであるよう、極めて不安定な情勢にあった。そうした情勢において、学生は「事実」ではなく「体験」を、「教育者」ではなく「指導者」を求めていくようになるという(本講演が学生に向けたものであったということは、こうした事情も反映していると思われる)。この主張とてもアクチュアルなもので、現代日本においても、これは多くの研究者たちが首肯しそうな内容である。所謂「意識高い系」と揶揄される学生たちや、教授の主張を手放しに鵜呑みする学生たち。彼らは間違いなく研究を放棄し、程度の低い学生活動に没頭することで、「事実」より「体験」を、またその「指導者」を希求している。逆を返すと、現代の日本は二次大戦の直前に相応するレベルで、不安定な状況あるのかもしれない。

 

 冒頭に書いたよう、本書はたった80ページしかない。そうであるにも関わらず、論点が多岐に及び、またそれらが例外なくアクチュアルであるということも、ひとえにウェーバーの手腕がなせる業だろう。ここまで学問的なあり方について中心に紹介してきたが、最後に本書における分析の社会学的価値について検討しておこう。

 ウェーバーは学問が「自身の価値」を前提とした、あるいは外的な価値に依存しない営為であると述べているのは既に確認した通りだ。これは本講演から約50年後に同じくドイツで活躍する社会学者、ニクラス・ルーマンの見解と実は極めて親和的である。

 ルーマンによれば、近代以降の複雑性が増大した社会において、もはや統一的な社会像は描くことができず、また従来的な階層的構造(ヒエラルキー)も存在しなくなったという。そして従来的な秩序に変わって、自身が自身に準拠してコミュニケーションを(再)生産する部分的な社会システムが、近代以降の社会においては観察されるようになったと主張している。こうしたルーマンの見解に従えば、部分システムはその構成要素であるコミュニケーションを産出する際に、諸システム固有の「象徴的に一般化されたメディア」に準拠している。例えば政治システムならば「権力」、経済システムならば「貨幣」がそれである。そして科学システムにおけるメディアとは、「真理」に他ならない。すなわち「真理か/否か」という内部的な「観察」によって、学問は自律的に存立しているのである。

 例えばハーバマスが批判するように、ルーマンの主張はいささかニヒルなものであると受容されがちである。しかしながら、学問的限界点をシステムの境界に見出し、その上で(何より自身が)積極的に学問システムのコミュニケーションを生涯に渡って産出し続けていったルーマンの姿勢は、時代こそ違えども、ウェーバーのそれと重なって見える。

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